共産主義者の娘
「ウチの実家宗教やっててたんだよ。宗教は麻薬だっていう教義がある宗教。面白いでしょ?」
そういって彼女は喋りだした。
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薄暗く湿ったコンクリートの階段を5階まで登って、重い鉄のドアを開ける。あのころ世間はバブルという季節だったらしい。だけどドアの中は団地が建てられた70年代の空気が残っているみたいだった。
私の両親は地方の国立大学の原水爆ナントカとかいうサークルで出会ったらしい。東大のバリケード封鎖も浅間山荘もよど号ハイジャックも全部終わって、政治の季節が終わったあとにどういうわけか彼らは共産党員になった。
大学を出てすぐ結婚して私が生まれて妹が生まれて‥。まだ若い母はとても苦労したと思う。それでも働きながら、自転車で私たちの送迎をして、家事のほとんどをひとりでこなしていた。団地のベランダにプランターを置いてチューリップを育てていた。料理が上手で、いつも何種類もおかずを作ってくれた。ときどき一緒にクッキーやホットケーキを焼いてくれた。
父は工場の仕事が忙しくていつも晩ご飯を食べ終わったころに帰ってくる。階段の下から父の咳が響くと嬉しくなる。父の家系は肺が弱いのに煙草吸うもんだから絞り出すような咳をした。絵本の読み聞かせがうまくてほとんど毎晩1人3冊絵本を読んでくれた。読みながらううらうつらする父を起こして続きをせがんだ。よっぽど疲れてたんだろうな。
月に一度、「支部会議」といって同じ団地に住む共産党員がうちに集まって赤旗新聞を読む会があった。二間しかない団地に10人ぐらい集まってたっけ?会議の邪魔をしないように台所にいないといけないから退屈だったけど、終わったあとでお客さんたちが持ってきてくれたお菓子やジュースを食べるのが楽しみだった。
両親と一緒に桃太郎みたいな旗を持って「ショウヒゼイゾウゼイゼッタイハンターイ」って大声をあげて歩いたことがある。意味はわからないけど楽しい遊びだった。
両親は頻繁に議論だか喧嘩だかわからない言い合いをした。2人とも20代だったし、母はネグレクト気味に育ったために家庭への理想が高かったんだと思う。ただでさえワンオペ育児で大変なのに、父は会議だ付き合いだなんだって深夜まで帰ってこないし、日曜はふらっとパチンコに行ってしまう。母が苛立っていた理由が今ならよくわかる。父は父で家の中のことに決定権がなくてパチンコ屋の喧騒の中で無我になりたかったんだろう。
喧嘩のあと、どちらかが外に出ていくこともよくあった。妹と声を潜めて遊びながら「りこんするのかな?」なんて話し合った。それと同じようなシーンを「ちびまる子ちゃん」で読んだ時は、ちょっと嬉しかった。自分ちが普通の家みたいな気がして。
母はテレビを見ると子供がバカになると信じていて、1日30分しか見させてくれなかった。それでも薄々ウチってちょっと変かもしれないと思っていた。
だってアニメには「せんきょ」の話題なんて出てこない。「しぶかいぎ」で「あかはた」を朗読するシーンも出てこない。だれも「しょうひぜい」や「べいぐんきち」や「けんぽう」のはなしをしない。それはそれでどうなのかと思うけどね。
小学生のとき夏休みに祖父母の家遊びに行って、何かをして怒られたとき、「これだからアカの子は!」と怒鳴られた。「アカ」意味はわからないけど「おとうさんとおかあさんのわるぐちをいった」ってことだけは分かった。
落書きに使っていた裏の白い紙(ずっとあとで入党申込みの用紙だって気づいた。薄くてトレーシングペーパーみたいに絵をうつすのにちょうどよかった)を公園に持ち出してセーラームーンの絵を描いていたら父に見つかって「この紙は家の外には持っていったらダメ。怖がる人がいるから」って本気の顔で注意された。そのときは意味がわからなかったけど、祖父が発した「アカ」の言葉で自分たち一家が異端であることを確信した。
ただでさえほとんどテレビを見てなかったので友達と何を話していいかわからなかったけど、その時から余計なにをしゃべっていいかわからなくなった。だって毎日ベルリンの壁を超えて学校に通ってるようなもんだよ?団地っていうのがまた東ドイツっぽいでしょ。休み時間は一人で図書室で本読んでることが多かった。体が小さくて無口な子が小学校という野蛮な場所でどういう目にあうかわかる?
幸いだったのはひとつ年下の共産党議員の姉妹が選挙期間中に泊まりにきて、完全に語彙が共有できたためにすごく仲良くなったこと。選挙が終わっても私たち4人はよく一塊になって遊んでいた。ごっこ遊びで悪者が必要なときはいつも「昭和天皇」を悪者にしていた。だって普段から親に「すごいわるいやつ」だって教えられていたから。
平和学習の作文でついうっかり「昭和天皇は麻原彰晃より沢山の人を殺した悪魔のような人間です」って書いたら担任がとても喜んで教室で読み上げた。担任は若くて明るい男の先生で、ときどきフォークギターで「戦争をしらない子供たち」を弾き語りするようなタイプの教師だった。次の日職員室に呼び出されて学年主任に「天皇に戦争責任はない」と怒られた。担任は学年主任の横で気まずそうにしていた。
先生、先生も私も惨めでしたね。でも今はわかります。私がまちがってた。昭和天皇は悪魔じゃなくて人間です。私たちと同じ。
小学生高学年〜中学生にかけて毎朝団地で赤旗を配っていたけど、今思えばあれってばっちり労働基準法違反だよね‥時効だけど。冬の朝、靄のかかった団地は幻想的で美しかった。いつか一人暮らしになったらあの団地に帰りたい。エレベーターなし5階は勘弁だけど。
高校生になる前の夏休み、母に「スキー行きたい?」と聞かれた。「民青同盟っていう共産党に関係があるところの主催だから、勧誘はあると思うけど、入っても入らなくてもいいからね」
貸切の夜行バスで着いた山で一日中スキーをして、夜になったらゲーム大会それから社会問題タイムからの勧誘。「日本民主青年同盟は共産党の指導を受けて勉強する組織で‥」15年間で下地が出来ていたので抵抗はなかった。
民青同盟にも月一の会議があった。そこでも新聞を音読した。小林よしのりの戦争論をはじめて読んだのは民青の事務所だった。勉強会でテーマごとランダムに賛成反対にわかれてディベートのようなことをしたのはいい経験だった。
中学や高校の友達はよく本やまんがを貸してくれた。共通の話題がなければ布教すればいいということを教えてくれたのは民青よりもオタク友達だったなぁ。腐女子的視点を得たこと一種のパラダイム転換だったかもしれない。読み手によってバトル漫画が恋愛漫画にもなるというのは驚きだった。らんまが終わって犬夜叉のアニメがはじまったあたりから排外主義的な人が増えた気がする。高校や大学の同級生は外国へのヘイトを口にする人が多くて、私は聞きながせないので気まずくなることもあった。
18歳になって「そろそろ入党」ってなったときに民青をやめた。私は自分で共産主義っていう宗教を選んだわけではなかったから。共産党に思い入れはあるし資本主義っていう宗教もあんまり好きじゃないけど、私が共産党員になることは国粋主義やってる家の子がネトウヨになったり、天皇やってる家の子が天皇になるのとおんなじなんだって気づいてしまったから。「保守」ならそれでいいけど「革新」でそれじゃカッコ悪いでしょ。私は私の信じたいものを自分で見つけようと思った。
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「それからずっと探しているけどまだコレっていものは見つからない。死ぬまでに見つかったらいいし、でも見つからなくてもいいかな。家族愛はあるよ。でもそれとはちょっと違うんだな‥」
共産主義者になれなかったアカの子は、いまは論語に凝ってるらしい。「論語ってけっこう保守的じゃないの?」と聞いてみたら、「論語は絶え間ない自己否定だし、たまにBLっぽくて面白いよ」と笑っていた。
えっいいんですか!?お菓子とか買います!!