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原子力シリーズ③~原子力村の成立~

こんにちは、QoiQoiの大橋悠太です。
今回は原子力シリーズの三回目として、日本の原子力産業の閉塞性や独善性の最たるものとして批判されてきた「原子力村」という構造の話と、その成り立ちについて書いてみようと思います!
歴史を追いながら、さらっと書いていくので読んでみて下さい。

ではいきます。

前回までのあらすじ

日本は1954年に中曾根康弘が2億3500万円の原子力予算案を国会承認させたことにより、原子力導入へと大きく舵を切ることに。
1956年には日本に原子力委員会が発足。初代委員長の正力松太郎は「5年以内に採算の取れる商業用原発の建設」を宣言しました。
その前年の1955年には「日米原子力協定」が制定されており、アメリカの濃縮ウランの無償提供が決まっていました。
この段階で日本の原子力導入は既に決定事項であり、第五福竜丸などの事件があっても、政府としては後戻りはできる状態ではありませんでした。
日本の中で原子力は新聞・テレビと共に大々的にPRされ、国民の多くは原子力を「未来の明るいエネルギー」として期待を持っていました。

研究・開発段階から二元化した構造

原子力委員会が発足した1956年には「日本原子力研究所(原研)」が造られ、後に当時の科学技術庁(現:文科省)が管轄となります。これが日本の原子力行政の中枢を担う事務局となりました。
一方で実際に原発を動かす電力会社は、国主体ではなく民間主体で運営すべきとの意見を主張。結果、57年に「日本原子力発電株式会社(原電)」が設立、民間8割・政府2割出資のほぼ民営の機関となりました。これを当時の通産省(現:経済産業省)が担当。
日本に官営、民営の二つの研究組織ができることになり、原子力の技術は技科庁、原発ビジネスは通産省と二元化された体制になってしまったのです。

省庁間では役人の縦割り行政特有の対立もあり、双方譲らなかったため統一された安全基準や管理というのも二元化、効率も悪く曖昧な部分を残したまま原子力研究は進められていくことになったのです。
歴史をたどると、戦時中の原子力研究も陸軍と海軍で二元化していました。それぞれ独自で研究を進めており、開発は遅れ、実用化されないまま日本の原子力開発は凍結された過去があるのです。

閉塞性の高い原子力産業界

そしてそんな二元化した状態のまま原子力研究を担う人材育成も進められていきました。
58年度からは大学や大学院に原子力研究の学部が設立されていきました。大学で一番最初に学部が創設されたのは京都大学の原子核工学科、その後60年に東京大学に原子力工学科が設立。大学院では57年に京都大学、大阪大学、東京工業大学に、64年に東京大学大学院に研究コースが設立されました。

産業界でも三菱、日立、東芝などが「日本原子力産業会議」をつくり、アメリカの原子力産業大手のWH(ウェスチングハウス)、GE(ゼネラル・エレキトリック)などと業務協定を結び、原子力産業に乗り出すことになりました。
政府の肝入り政策であり、旧財閥関連の日本有数の企業が乗り出していることもあり多くの資金がそこには流れていました。
そこへ大学を卒業した研究者たちが就職し、原子力産業界に入っていくサイクルができ、狭い専門分野で職業生活を営む集団になっていきました。
こうした構造が「原子力村」と揶揄され、その閉鎖性、独善性、視野の狭さが批判されるようになっていったのです。

原子力の火がともった

こうした中、1963年10月26日、原研が茨城県東海村に作った原子炉(GE製)が臨界※1し、日本初の原子力発電に成功。この日を記念して10月26日は原子力の日として認定されています。
当時の新聞は「原子の火がともった」と期待感と共に報道しました。

※1 臨界とは
原子炉の中で核分裂が連鎖的に安定して発生している状態になること。

 63年の原研の原子力発電成功に遅れること3年、1966年に原電がイギリス製の原子炉を使って発電に成功。
しかしその後トラブルが多発し、結局はアメリカ製の原子炉を採用することになります。ここに二元化の無駄がみられます。

原研・原電が開発を進める中、電力会社もそれぞれ原子力発電所の建設を進めていきます。
まず関西電力が66年にWH製の原子炉を採用。次いで東京電力がGE製の原子炉を採用しました。これは関西電力が昔から三菱グループと付き合っていたためで、東京電力も東芝・日立との付き合いからGE製の原子炉を採用しています。
その他の電力会社7社もほぼ均等にGE・WH製の原子炉を採用しています。
それはまるで官製談合のような、関係する者たちで仲良く利益を分け合うような形でした。
足並み揃え利益分配、抜け駆け禁止。それが「原子力村」の作法だったのです。こうして、電力会社がそれぞれ別個に原発を作っていくことになり、気が付けば、全国に60基もの原発が作られることになったのです。

ついに原発が操業を開始していく

1963年に原子炉の臨界に成功して、ついに各地に原発が建設されていきます。
1966年には茨城県、東海村原発が本格操業を開始。70年には関西電力美浜原発が、71年に東京電力福島第一原発が操業を開始しました。
これを皮切りに九州や中国地方、東北や北海道にも原発が建設されていきます。

ちなみに各電力会社の原発は、基本的には管轄地区の電力をカバーするためにあるので、つくられた場所の電力を賄うわけではありません。
例えば、福島第一原子力発電所の電力は東京電力なので、基本的に関東の電力を支えていました。
ただし原発ができることで、雇用が生まれ多くの人が原子力産業に関わることになるので、結果として現地を支えていたのは事実でした。
かつて地方の多くが戦後に炭鉱業が栄えましたが、その後衰退していきました。
炭鉱もない地域は冬場は生活の為に、出稼ぎに出なければならなかった。それほどまでに貧しい時代があったのです。
それを終わらせたのは原発誘致による雇用と交付金だったのです。

いかがでしたか?
今回は「原子力村」の成立を簡単に書いてみました。
こうした歴史的経緯は学校でも習わない部分ですよね。大人の思惑が絡み合い、生々しすぎるからなのでしょうか?
日本も戦中は原発を製造していたこととかを知ると、日本のイメージも変わってくる気がします。
個人的に学校で教えてくれない三大分野が「お金」「国防」「原発」の話の様に思いますが、「原発」については僕らの活動を通じて少しでも多くの人に知ってもらえたら幸いです。

次回もまたお会いしましょう。
ではまた。

QoiQoi大橋悠太

QoiQoiプロフィール
2018年2月9日に大橋悠太と吉次匠生によって結成されたアートユニット。 当初はano(アノ)として活動していたが、2020年10月1日より団体名を改めQoiQoi(コイコイ)として新たな活動を始めている。
また、「想像力を創造する」を信念に演劇、映像、インスタレーションなどさざまな分野を飛び越え作品制作を行う。団体名のQoiQoiもquality of imaginationが由来である。 また、社会問題から個人の体験まで幅広い事象を可視化し、常に観客に「当事者性」を提示する作品作りが特徴である。

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