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2-04「トビとジェラート」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回はS.Sugiuraの【陽の光もなく】です。今回は、屋上屋稔の【トビとジェラート】です。それではお楽しみください!


【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】

2-02「真似」と「真似事」
https://note.com/nulaff/n/nf508703a9fe8?magazine_key=me545d5dc684e

2-03「陽の光もなく」
https://note.com/ss2406/n/n925e6e4f1f3f


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そういうわけで、暮れに俺たちは入った。そこは大阪で最も汚らしいとされる角打だった。カウンターに蠅取り紙が並び、いつだって頭上には転轍機の軋む音がガンガンと響いた。背中に触れる汗ばんだシャツと、古物の空調機からの湿気た風。宵闇に蛍光灯がモアレの縞を描く。いいかげん胸がむかつく前に、キャメルを吸おう。灰皿をたぐり、目を瞑る。疲れすぎて目を閉じているのか、自分でもよく分からない。俺は目を瞑ったのか?まぶたの裏にモアレが明滅し、てんかん発作の予兆を感じる。今日は早寝しないと。まともでなければ。なのにお前はまだ堀江で会った女の話を続けている。ピンクのカーディガンに黒眼鏡の、陽気な酒乱の女。それは先週も聞いた話だ。

酒場の時計は止まったままで、壁の品書きはだらしなく捲れていた。外ではパキスタン人が冷蔵庫を運んでいた。いったい何時になった?お前の話はまるで針の飛んだレコードのよう。文脈は途切れ、かすれ、無意味な卑語だけがゼノンの矢のごとく漂っている。もう我慢がならん。誰も彼もまだ若いのに酒飲みの末路みたいな風体でおもんない話くっちゃべって、俺はごめんですよ。犬の相手した方が100倍マシだ。帰ります。


俺は帰宅したが、俺は犬を飼育していないので、帰宅しても俺を待つ犬は一匹もいなかった。急に、死んだトビのことを恋しく思った。あいつの背中。がっしりと肉付きが良くって、ボーダーコリー特有の牛柄が映えた。わずかに隆起した背骨のあたりは、いつも泥や汚れで毛羽立っていた。俺は、大伯母の書斎でトビを愛撫するひとときが好きだった。床に涎がこぼれる。芝生に日だまりができる。溜息をつく。おどろくほど静かな場所。時計の音しか聞こえなかった。何も考えなくってよかった。俺は18歳だった。

「トビは賢い犬だった」世田谷の一族は口を揃えた。三世帯同居の奇妙な邸宅には、さらに数匹の犬がいた。食い気の強いビーグル犬のロックは卓上の洋菓子を盗み出すのが上手かった。白内障のダックス犬もいた。ハルという名前で、庭でべろ垂らして日がな佇つように過ごした。生物としてすべきことを、やり尽くしてしまったかのように。他にも紹介したい犬はたくさんいる。あのいとしい犬たちの軍団!ここには書き切れないほど、愉快なエピソードはたくさんあるのだ。けれど、大伯母を筆頭に一族が最も愛したのはトビだろうと、俺は思っている。邸宅に下宿していた留学生達も、みなトビを特別視した。あいつは紛れもない天才だった。

トビー・マグワイアから拝借した名前に違わず、トビは美しく知的な風貌を備えていた。その四肢は驚くほどしなやかで健康的だった。あんなに立派な犬に出会ったことがない、と皆が褒めた。けれどトビは強迫症だった。めったにいない、本物の精神病犬だ。俺はそのことを悲しく思う。あれほどの才覚に恵まれながら、あいつは何を怖れていたのか?なぜ、安寧に生きることができなかったのか?興味深いのは、その恐怖の対象が実に具体的だったことだ。トビは青い縞模様を怖れた。だから、佐川急便の配達員にだけは殺意をもって噛みつくようになった。トビはゴキブリや羽虫を怖れた。誰かが「虫」と発語するだけで家からの脱走を図るほど恐怖した。トビは台所の2段目の引き出しに憎悪を向けた。ひとたびティーカップが取り出されれば、血相を変えて閉めようとした。一事が万事こんな調子なので、一族はトビの呪術的な禁則に従わざるを得なくなった。もう紅茶は絶対に飲めないし、佐川急便を玄関口に立たせるわけにはいかない。それでも、俺たちは病める天才を愛しつづけた。何かのパニックに見舞われると、トビは決まって茶色いスリッパに噛みつき自らの気を鎮めようとする。それでも落ち着かないときには、大伯母はあいつに自家製のジェラートを食わせた。それが犬としての寿命を縮める結果にもなったのだが、今にして思えばそれでよかったかもしれない。トビはジェラートの過剰摂取で死んだ。

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犬は去り、一族も年老いた。今では、世田谷の大邸宅は生気を失いつつある。彼らはかつてドイツ語の教授一家だった。古色蒼然とした書斎には舶来の燭台が置かれ、昔は厚ぼったいビロードのカーテンまで設えていた。俺が幼い時分には、食卓にまで独語辞典が積まれていたものだ。大伯母は数多の学生の恨みを買う魔女的な人間だったから、ちび助の俺にも容赦がなかった。この数十年のあいだ、犬たちが書物やカーテンに小便をひっかけては死んでいったので、今では家もすっかりがらんどうになってしまった。


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次週は1/17(日)更新予定。担当者は葉思堯さんです。お楽しみに!


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