個人情報保護法が悪法と思える時

 今回の能登半島地震では、石川県が安否不明者を公表し捜索に役立てられた。過去の災害でも同様に役立った例は多い。災害発生時の安否不明者の氏名については、内閣府が2023年3月に「速やかな救助活動につなげるため、家族の同意がなくても原則公表できる」とする自治体向けの指針を策定したのだが、それまでは自治体の判断に委ねられており、つまり家族の同意なしには公表できないとする自治体もあったということだ。その理由は、個人情報保護法に基づくプライバシー保護によるものである。ちょっと考えても、安否不明者の公表がどのようなプライバシー侵害につながるのか、理解に苦しむと思えるのだが、この状態が同法の2003年制定・2005年施行以来続いていたということなのである。この件に限らず、同法の趣旨を逸脱して個人情報の取扱いに過度に神経質になっている状況は、自治体のみならず国民全体に蔓延しているように思えてならない。このことを改めて考えてみた。

独居老人の生死を尋ねられても答えてはいけない?

 数年前のことだが、独居している高齢の友人と連絡が付かなくなったのでアパートを訪ねて、管理している近所の不動産会社に回ってみた。尋ねると「退去されました」と言うのみで、それ以上一切の事情を話そうとしない。こちらは身分証も提示して友人として心配していると説明しているのだが、どこか別のアパートや施設、病院等に移ったのか、それとも亡くなってしまったのか教えてくれと言っても、それすら個人情報なので言えないと答えるのみである。後日、別ルートから部屋で病死していて事件性なども全くないことが明らかになったのだが、なぜそのケースで「亡くなりました」という一言を言うことができないのか不可解でならない。個人情報保護法をよく理解しないで、万が一にも違反することのないように、とにかく義務付けられていないことは一切しゃべらないように決めているのであろう。
 それ以前にも同様のケースがあり、その時も最初は「退去されました」という返事だった。ただしこの時には、話を続けているうちに、怪しむ点も無いはずなので、死亡したことと親族の連絡先を教えてくれたのだが。ということは、あちこちの不動産会社で似たようなケースで、「一切答えられない」とのみ言うところも多々有るのだろうと推察されるのである。

持ち物に名前を書くのは良くないことなのか

 以前から自分の自転車(ママチャリ)に名前を性のみ明記しているのだが、頻繁に駅の駐輪場にとめるようになって、駐輪場を見回してみたところ、名前入りの自転車は私の一台のみであることに気づいた。その後あちこちの駐輪場で見回しても、やはり他に名前入りのものは見当たらない。名前があったほうが、類似のものと間違えずに探しやすいし、盗難のリスクも明らかに減少するはずなのに、である。昔は小学校で「持ち物には全て名前を書くようにしましょう」と教わったものだが、今は書くなという指導のようだ。そう言えばテレビのバラエティ番組で昔と今を比較し、この昔のことを聞いて若い人たちが驚く、いうものを先日やっていた。
 また、戸建てに引っ越して表札を付けたのだが、この時、表札のつくり方を見ると、今は性のみを表示するのが基本だということだ。私は姓名とも記入したのだが。
 同じく数年前に、新築マンションでこれから入居が始まる物件の仕事を多数行ったのだが、その中に、「エントランスの郵便受けに名前を記入しない」よう指導しているマンションがあったのにも驚いた。
 
 つまりこれらも全て個人情報保護法への反応からきていると思われるが、大の大人が自分の名前の表明をなぜそこまで躊躇するのであろうか。個人情報といっても名前のみでは悪用のしようは無く、他の個人情報つまり住所・電話番号・メールアドレスやその他個人識別符号(顔認証データ、指紋認証データ,パスポート番号、個人年金番号、運転免許証番号など)と結びつくことで、色々な悪用のリスクが発生するのである。それにも拘らず名前を出したがらないというのは、とにかく個人情報は全て極力隠すべきだ、という考え方が知らず知らずのうちに刷り込まれてしまっているためであろう。

個人情報保護法の趣旨と拡大解釈による弊害

 個人情報保護法は「個人情報の適正かつ効果的な活用が行政や医療、ビジネスの様々な分野で役立ち、豊かな国民生活の実現につながる」という有用性を進めるとともに、個人の権利利益を保護することを目的として定められたものである。そして個人の権利利益の保護のために、特に個人情報取扱事業者に対して様々なルールを定めてまた各種制限も課しているのである。個人情報は単体では大きな意味を持たなくても、それが集められて個人情報データベースとして整理されると、様々な利用方法が考えられ、悪用もされやすくなるのである。したがって個人情報の利用目的を特定しての取得や第三者に提供する場合の方法、保管管理の仕方など細々と定めているのである。 
 これらから個人情報取扱事業者としては、個人情報保護法に違反しないよう色々な配慮が要求されることとなり、必要以上に神経質になることも多くなる。また現実に、個人情報が悪用されたと思われる各種犯罪や迷惑行為が日常的に見られることからも、個人情法取扱事業者のみならず国民全体が慎重になるのはうなずけることであろう。しかし、それによって、個人情報保護法の趣旨の前半が忘れられ、悪用防止のため個人情報は極力隠すべきだという風潮が蔓延しているのが実情である。
 また細かいことでも何かによって個人情報保護法違反が問われるかもしれない、またはどこかで悪用されるかもしれないと、皆が感じていて、「触らぬ神に祟りなし」と個人情報に触れないようにしているかのようだ。冒頭の災害時の安否不明者の氏名公表を、内閣府が指針を出すまで行わなかった自治体も同様であろうが、公表のメリットを上回るどのような違反の可能性を考えたのだろうか。
 
 上記での不動産会社の対応も、あえて言えば遺族の個人情報に関係してくる事柄だという理由であろう。要するに遺族から「公表してほしくなかった」という一種のクレームが付く可能性を考えてのことであろう。
 ちなみに不動産会社のこういった対応の件は、個人情報保護委員会(個人情報の保護に関して個人情報保護法のガイドラインを出したり、苦情・相談を受け付ける独立性の高い機関とのこと)に問い合わせてみた。初めは「死者に関する情報は個人情報保護法の対象外だ」という返事で終わりたかったようだが、そのことは知っていて、そうではなく上記のケースで「退去したのはどこかに移ったのか、もしかして死亡したのか」を教えてくれと聞いているので、それに答えることが違反になる可能性というのがあり得るのかどうか、と確認すると、やはり遺族の個人情報に関係する可能性を言う。「では今までに、死んだと答えたことにより個人情報保護法上で遺族がどのような被害を被ったことが有るか」と問うと、他の人のことは教えられない」とのことなので「一般論としてどのような被害が考え得るのか」と重ねると結局、「遺族から、言って欲しくなかった、と言われることがある」との回答であり馬鹿馬鹿しくなってきた。
 ついでに言えば、確かに死亡した人が、何らかの有名人であったり、地位や資産があったりする場合は、またちょっと違うだろうか、今回の友人はただの無職の貧乏老人で親族も遠方にいて付き合いも無い、という境遇であり、それは不動産会社も分かっていての対応である。個人情報保護委員会にしても、そのような特殊なケースを除いてという留保条件を付けたうえでの明確な断定がなぜできないのだろうか。
 こういった現象が社会のあちこちで起こっているだろうと考えると、単なる個人情報保護法の弊害というより、個人情報保護法自体が悪法であると言いたくなってくる。

とにかく責任を回避したいという世の中

 確かに急速に進展する情報化社会において、各種情報の取り扱いに関するルールや規制は絶対に必要なものであり、イギリスやドイツでも日本にだいぶん先駆けて類似の法律が作られているとのことだ。
したがって個人情報保護法を無くするということは全く考えられないのだが、この法律によって、個人情報の有用性が高められるよりも社会を委縮させる効果のほうが目立ってしょうがない。この法律と関係なく、以前から感じていたことなのだが、例えば仕事上で顧客対応の時、「業務と無関係な事柄に関しての質問には知っていても極力答えるな。何らかの責任を問われることがあり得るから。」という指導をあちこちの会社で受けた覚えがあり、何か変だと思ってしまう。他にも、へたに関わって責任を問われるのは嫌だから、困っている人がいても知らんぷりをしていようというケースも多々見聞きする。
 確かに、これだけくどいほど啓蒙活動・宣伝活動が行われても、特殊詐欺の被害が増えているという世の中なので、各人が委縮して余計なことに関わらないようにしよう、という気持ちも分からないではない。しかし本当にそのような世の中でよぃのだろうか。所詮、社会生活を営む以上、危険から全くフリーであるということはできないのであるし、全ての事柄に各人で判断しつつ対応せざるを得ず、それこそ自己責任が伴う話なのだが、最悪の場合それなりの責任を取ればよいだけの話であり、その責任というのはあくまでその内容に応じたレベルに過ぎないのである。他人の個人情報に触れたことで、厳密にいうと個人情報保護法違反だとみなされたとしても、やはりその内容に応じたレベルの違反でしかない。それを、ちょっとでも違反があると天下の一大事が発生するかのように思い込んで、事情のいかんに関わらず恐々として責任回避のみを考える風潮というのは本当に情けない。
 余談ながら、特殊詐欺に関しては私など、詐欺電話が来たら暇つぶしにからかうか、できれば騙された振りをして捕まえてやろう、と待っているのだが、詐欺メールは毎日来るものの詐欺電話は一向にかかってこない。このように「自分は騙されない」と思っている人ほど危ない、とも言われるのだが、試してみたいものである。

 繰り返すが、あらゆることにとにかく責任を取りたくない、という風潮は昔からだんだん強くなってきているように思えるのだが、この面で個人情報保護法が果たしている影響力は多大なものがある。確かに、以前あった事例のように、自治体職員がDVの夫から逃げている母子の現在の住まいを夫からの問い合わせに答えてしまい、大きな事件が起こった、ということはとんでもない話である。しかしこれは、個人情報保護法に関わらず気を付けるべき問題であろう。また個人情報の中でも、要配慮個人情報(人種、信条、社会的身分、病歴、犯罪の経歴その他)については厳密な注意が求められるだろうが、その他の個人情報を何が何でも漏らしてはいけないという話では絶対にないであろう。このことについての大きな勘違いが世の中にいきわたっていると思える。上述の個人情報保護委員会の対応などもそのための一翼を担っているようである。100%例外なく当てはまる回答しかしないように努めているのである。
 自転車の名前記入の件で改めて考えてみると、気になりだしてから既に数千台の自転車を目にしているはずなのだが、いまだに名前入りのものを見たことはない。一瞬、自分がよほどの変人なのか、と思ってしまった。


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