一方通行の愛。嫌うのは私......

漠然と、私は"恋愛"といわれるようなものをしていたそうだ。つまり、以下に書かれたことはノンフィクションであると解していただきたい。
これが私のあるがままの姿なのだ。

私が想っているのではない。相手から想われているだけだ。
付き合い始めてから少し経った頃からずっと、そんなことを思っていた。
それでもなんだかんだで、11か月も続いていたらしい。私の気持ちは変わらない。「なんとなく嫌いだ」という点において。

なぜ彼女を嫌っていたのか。それは「自分に似ているから」であろう。
不気味の谷現象を敷衍するような説明をしてみれば、ある程度以上似ているものには嫌悪感を抱くものだろう。もしくは、過去の自分に似ている者を嫌うことによって今の自分が進化していると正当化しているのだろうか。

さて、それでも私はそれを直接は言わないようにしてきた。善意か悪意かわからないが、それを信念として突き通してきたのだ。
態度には出ていたのだが、相手から何か言ってくることはなかった。直接は言わずとも、やはり長い間冷遇されると思い詰めることがあったらしい。

人間的に、特性的に、もしくは真似をされてなのかはわからないが、彼女とは似ている点が多くあるように感じることは確かだ。
そんなものだから、嫌いではあるけど対面すればそれなりな対応はしたのだ。してしまうといった方が適切なのかもしれないが。​



なんて文章を書き連ねたが、そいつは今や、私のかわいい後輩の一人だ。もしくはLINE上で冗談をかわせる間柄の友人だ。

しかしながらこの恋愛は、私の「情」というものに大きく刺激を与えた。特に「愛」というものの獲得に寄与してくれた気がする。
どうにも、自我を持ち始めたときからずっと欠損していたものとして、感情とか愛情とかいうものがあるらしい。
そういうものを持っていると装うことが、この恋愛を通じてできるようになったのかもしれない。

エミュレーションしているだけで、本当には感情や愛情は手に入れていないという見解もあるだろう。ここから先は哲学的ゾンビのような議論になるだろうから、ここでは論じない。
しかしながら私の意見として、すべての人は、素の自分を出さずにキャラ付けされた誰かを演じていると思っている。だからこそ、大なり小なりエミュレーションをしているはずなのだ。



「やらない善よりやる偽善」なんて言葉が古の2chで流行ったこともあったが、私は恋愛でも人間関係でも、それが重要だと思う。本当の心を伝えることが必ずしも正しいわけではない。何なら想っていてもそれを伝えなければ意味がないと。
だからこそ、言葉にすれば多少は恋愛として成立するのだろう。ボディランゲージでもよいだろうし。



友達が、本当に愛しているかわからない、彼女がいるというステータス自体に焦がれているのではないかと指摘されて別れた。

実際そうだろうと友達自身は分析していた。もちろんサンプル数1の話ばかりであるから、これがどこにでも通用するわけではないだろうが。


「口は災いのもと」という諺があるのは誰もが知っているだろうが、災いになるほどに言葉は影響力を持っていることの表れだろう。

最近の私は、自分自身で完結させることが多く、他人に伝える、連絡するということに欠けているので、言葉を使ってよりコミュニケーションを行うべきだろう、と自戒の念を込めて、結びとさせていただく。

皆様が、楽しんで生活できますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?