Facebookで、こんな文章が投稿され、何人ものひとが「いいね!」をつけて、褒めちぎっていました。
「ありがとう、ありがとう」
障碍児を大切にしたい、自分の子は障碍者を大切にするような人間になってほしい、障碍者を大切にすることを、目上から命令されたからやるというのではなく、自分自身でその大切さを悟ってほしい・・・この話は、そういうことを伝えたいようです。どれも大事なことです。しかし、それらをこんなふうに組み合わせて、出来上がった話はあまりに人工臭が芬々としています。
お兄ちゃんをバカと言い続けていたのに突然、ぼくをぶって、というのは不自然でしょう。
お母さんは、ノートの終わりのページまでありがとうと書いたというところが、すごく変です。そんな暇のあるお母さんはいないと思いませんか。そんなことしてないで、次男に有り難う、お母さん嬉しかった、と言って、早く寝ればいいのです。
このお母さんは、弟にバカと言われつづける長男のことはどう思ったのでしょう。次男に、そんなこと言うもんじゃないよ、というのが自然です。それが言えるのが、いい親子じゃないんですか。そのとき、ちょっと次男にきつい言い方をしてしまったとしても、それはあとで訂正もできるはず。次男が理解してくれることをこそ期待すべきじゃないんですか。そう考えると、このお母さんは、上の子も下の子も軽んじたことになります。
クラスで小児麻痺の子が隣の席になったのを、大丈夫かなと心配するのはいいのですが、転校を考えるのはおかしいでしょう。自分の子以外の子が小児麻痺の子を大事にしてくれるとでも言うのですか。もしそう考えるとしたら、ずいぶん楽観的とも言えるし、第一、自分の子に対して信頼が希薄ではありませんか。重ね重ね精神的にアンバランスな女性ですね、このお母さんは。お兄ちゃんに、ぼくをぶってといった子なんだから、なんとかやってくれるかも、と期待していいし、何かあったら自分が言って聴かせたらわかるかもしれない・・とか、もうちょっと普通のことを考えてほしい。いったいこのお母さんは子どもを信じているんだか疑ってるんだか。
こういうものをついもてはやしてしまうひとの気持はわかるから、元の投稿にあえてコメントはしませんでしたが、話に無理があるので、いわゆるネットに流布する「いい話』以上のものとは思えません。末尾に鈴木健二の名前を見て、やっぱり、という気持になりました。
ぼくが、こういう感動ポルノを好まないのは、精神主義と地続きだからです。日本は、法華経などというバロックな誇張だらけのお経が天台宗によって輸入されていらい、どうも精神主義がはびこりすぎてきたんじゃないかと、ぼくは思っています。江戸時代、そして明治いらいの近代は、それこそ精神主義のはびこり放題でした。
この投稿をぼくに紹介してくれたひとが、こんなことを言いました。
<気配りオヤジ著だから、胡散臭いけど、私は仮に植松聖がこう言う子だったら、障害者を殺さず寄り添っただろうと思った>
しかし、植松のような人間を作らないために親に求められるものは、こんなことではないでしょう。弟にバカと言われつづける長男のことを忘れている母親では、次男もどうなってしまうやら・・。ここに語られているような不自然なことをしなければ、障碍者とは一緒に暮らせないと思っているのだとしたら、むしろ障碍者に対して偏見強いかもしれません。それじゃ植松になんと言えるのだろう・・・