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小澤征爾の二面

 小澤征爾が逝った。皆が悔やみを述べるなかで、こういうことを言うのもなんだが、私にとって、小澤氏は二面的なひとだ。
 一面は、私が中学生のとき、日フィルを指揮したコンサートを聴きに行ったとき見たナマの小澤さん。近所の男の子たちを集めて空き地で野球を教える、どっかの店のお兄ちゃん、という感じがした。きっとそれで、いろんな人に好かれるんだろう。
 もう一面は、たとえば、今日の東京新聞に書いてあったが、ぼくは日本から追い出された、などと言うときの小澤さん。この記者は、物を知らない。
 ほんとうは、ブザンソンのコンクールで優勝した二十代半ばの小澤さんを喜んで迎え入れてくれたN響が、小澤さんをボイコットするに至ったが、その小澤さんを助けて活動の場を提供した日フィルがあったことを、小澤さんは忘れたのだろう。ボイコットされた理由を述べるのは謹んでおくが、N響がワルいとは言えないとだけ言っておこう。小澤さんは、ちょっと軽すぎたんだろうと思う。
 小澤さんは忘れたのだろう、と私が言うのには根拠がある。以前、とっくに世界の小澤と呼ばれるようになってからのこと。あるテレビ番組で自分の経歴をちょっと語っていたときだと思うが、「日フィルで、あ、日フィルというのは今はなくて、新日フィルっていうんだけど」と言い直したのだ。日フィルは今もちゃんとあるのに。
 日フィルは、産経新聞社とフジテレビがつくったオーケストラで、それがフジ産経によって突然解散させられ、そのときから、労組を結成して解雇反対闘争をした日フィルと、経営者に逆らわなかった楽員を集めて新に結成された新日フィルに分裂したのだ。
 NBC交響楽団のメンバーだった経歴をもつコンサートマスターのルイ・グレーラーさんも日フィルに残ってくれたし(「トスカニーニに教わった音楽の喜びを皆に伝えたい」という使命感に燃えた人だった)、それまで常任指揮者だった渡邊暁雄さんも、日フィルと行を共にした。日フィル団員は冬の新宿東口で戸外コンサートまでした。指大丈夫だったのか?
 そのとき、新日フィルを指揮したのが小沢征爾、山本直純などだった。
 小澤さんは出世のためなら、平気でそんなことをする。彼が師と仰いだ指揮者がミュンシュ、バーンスタイン、カラヤンと、ひどく大衆受けする、業界ボスばかりだったのも、なるほどと思う。
 それにしても東京新聞の記事にはがっかりした。どうせこんなことになるだろうと思っていた通りだ。
 小澤さんの名誉のために言うと、日フィル争議では、小澤さんも日フィルのために動いてはくれた。時の首相、佐藤栄作のところに陳情に行ったのだが、その物腰がいかにも「おじさーん、頼みますよう」みたいで、ちっとも権力者を相手にする風ではなかったので、彼が帰ったあと、佐藤夫妻は「面白い人だねえ」と笑いあったと、寛子夫人は回想記に記していたものだ。私はそんな小澤さんが憎めない気はするが・・・

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