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“絵画が分かる”とは“『裸の王様』の服が分かる”と言っているようなもの(#42)
先頃、ふと思い出したかのようにこのようなツイートをしてみました。
抽象画を分からないというのは“裸の王様”の服地を分からないといっているのに似ている。そこまで極端ではないが分かりようがない、だから感じるしかないのよ。🙄
— 喬 次郎 Qiao Cilang (@CilangQ) May 13, 2021
きっかけはとある抽象画を制作するアーティストの呟きからでした。
簡単にまとめるとこんな感じです。
都内某所で貸し画廊(アーティスト自身がお金を払ってイベントスペースに作品を展示するビジネスモデルを持つ画廊)に出展している作品を観に来た「美術品愛好家風」のおじさまが(おそらく)アーティスト本人に向けて、こう言ったそうです。
「抽象画なんて誰でも描けるから描く必要がない」
「抽象画なんて絵が分からないヤツが買うものだ」
加えてどういうアーティストが完売するかアーティスト自身に滔々と説いたというではありませんか。
そのおじさまのトーンは分かりませんが、内容は上記の通りで、「面倒くさいな」と思う反面、彼はこのときすでに抽象画に取り込まれていることに気づいていないのが分かりました。
何故って、
抽象とは概念だからです。
つまり、人それぞれ解釈があるものなのです。
「分かる」とは一つの正解がある前提の話です。
たとえば「愛」、この言葉の概念が男女間で行うすることのみを指したなら、当然LGBTの類は不正解になります。
たとえば殺人犯、その犯行動機を「愛」だとしたら、それは当事者にとって正解ですが、一般的にはどうでしょうか。
きっと「不正解」とみなされるでしょう。
また、その逆も然りです。
抽象とは答えがいっぱいある状態だから抽象なのです。
答えがある(=分かる)なら、その時点で“具象画”と言っていいくらいです。
その意味で絵画とはアーティスト本人しか真の意味では分かりません。
または鑑賞者が勝手にそう解釈すれば良いに過ぎません。
それはどんな絵も、幼稚園の子供が母の日の贈り物として描いた絵、中世ヨーロッパの写実画もダ・ヴィンチも、いってしまえば“抽象画”です。
子供がお母さんに喜んで欲しい、とか神への忠誠を示したいだとかも、鑑賞者が必ずしも体よく受け取るとも限らないというワケです(つまり、見る側の問題です)。
そんな数多ある絵画でもより対象が何なのか一目では分からないもの・推測しがたいものを総じて抽象画と呼んでいるような気がします。
ですが、本質的には先の説明の通り、分かった気がするに過ぎないのです。
そうして思い出したのがアンデルセンの『裸の王様』でした。
お洒落な王様は「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」には見えない不思議な生地で出来た服でパレードに出ますが、実際は裸です。
王様は騙されているのですが、そのことに気づかず最上級仕立の服を「着ている」と思い込んでいます。
不思議な生地で出来た服を着た王様の、その生地が何であるかなんて、みなさん分かるでしょうか。
空気以外のなにものでもないですよね。
何故なら透明で、物体が何もないからです。
でもそれが生地だといわれたものなら、それは悪魔の証明です。
何もないのですから、分かりようがありません。
(抽象画も含む)絵画とは視覚対象となって初めて力を発揮します。
しかし同時に目に見えるものこそありますが、原理は裸の王様の生地と同じです。
「分かった」という時点で「何も分かっていないのです」。
そこにあるのはあなたがどう思ったか(感じたか)――。
ついでにいうと抽象画は「誰でも描ける」というのは真理ですが、それゆえに描く必要がないというのはおじさんの主観的意見に過ぎません。
まとめるとおじさまの主観的な意見を、“教養人”的に言いたかっただけなのではないか、と個人的に考察しております。
もっともそんなおじさまに付き合わされたアーティストの方が不憫でなりませんが。
頂いたものは知識として還元したいので、アマゾンで書籍購入に費やすつもりです。😄