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《萬柳堂即席》-趙孟頫- (4)

前回



《萬柳堂即席》の詩は、1461年に完成した明の勅撰の地理書である《大明一統志》に引用されている。

引用箇所は、京師すなわち現在の北京を解説する部分で、名勝を挙げたなかの萬柳堂の項目である。

幸いにも和刻本があるので、詩の読み下しの点検も可能だ。
(《和刻本大明一統志》長澤規矩也、 山根幸夫編 汲古書院 1978)


府の南に在り。元の廉希憲が別墅。 輟耕録に。
堂 池に臨む。數畆 池中 蓮多し。
池を繞(めぐり)て柳數百株を植ゆ。
每夏 柳陰 蓮香 風景 愛す可し。
希憲 嘗て 盧摯 趙孟頫を招き游宴す。
時に小聖詞を歌ひて觴(さかずき)を侑(すすむ)る者の有り。
孟頫 詩を賦ひて云ふ、
萬柳堂前數畆池
平かに雲錦を鋪(しき)て漣漪を葢(おほ)ふ
主人自から滄洲の趣き有り
游女仍(よっ)て歌ふ白雪の詞
手に荷花を把(とり)て來て酒を勸して
歩して芳草に隨て詩を題せんことを索(もと)む
誰か知ん咫尺京城の外
便ち無窮萬里の思 有らむとは


萬柳堂とは廉希憲という人物の別墅、すなわち別宅であった。

廉希憲とはどのような人物か。WIKIPEDIAから抜粋すると以下の通りである。

●モンゴル帝国のウイグル人官僚。
● フビライ即位以前から仕え、即位から治世の中期に至るまで幕下の重臣として活躍した。
● 幼いころから宋学を学んだ。

元朝重臣の邸宅であったものが明代にまで残り、名勝地となっていたということである。

面積が“數畆”の池があり、その周りに数百本の柳が植えられており、池の中には蓮が多く生えていた。夏は“柳陰 蓮香 風景 愛す可し”だ、とは翻訳不要の情景が感じられる表現である。

“畆”すなわち畝(ムー)は現在1/15ha=6.67aであり、唐代以降は概ね6aであると言われているので“數畆”とは1/5~1/3haと考えるべきであろうか。100本の柳も勘案するとなかなか広大な池である。

盧摯という人物は、趙孟頫と同様に翰林學士も務めた漢人官僚で、多くの懐古的散曲を残したことで知られる。

“小聖詞”は金時代の散曲作家である元好問による《小聖樂·驟雨打新荷》という散曲の事で、夏の自然を行楽する情景を以下のように表現している。 この散曲に合わせて興が高じて、杯を勧めあったというのだ。

綠葉陰濃,遍池亭水閣,偏趁涼多。
海榴初綻,朶朶簇紅羅。
乳燕雛鶯弄語,對高柳鳴蟬相和。
驟雨過,似瓊珠亂撒,打遍新荷。
人生百年有幾,念良辰美景,休放虛過。
窮通前定,何用苦張羅。
命友邀賓玩賞,對芳尊,淺酌低歌。
且酩酊,任他兩輪日月,來往如梭。

そして、この場面で趙孟頫で詩を詠ったことから、後世《萬柳堂即席》と通称されることとなったのである。

さて、和刻は江戸期の該博な知識人が施した高品質の“翻訳”である。《大明一統志》の和刻本に従って現代語訳を見直してみると以下の通りとなる。

萬柳堂の前景には何畝もの広大な池がある
雲錦の敷物をたいらに広げて、まるで(池の)波紋のようにはためく
主人自身には滄州の趣が有って
そこで游女が歌うのは白雪の詞
手に蓮の花をもって来て酒を勧めて
歩みよって芳しい草に隨って詩を題することを求めてくる
いったい誰が知ろうか城の外すぐ近くでは
まさに無窮萬里の思いが有ろうということを

ところで、畏友が見た額と《大明一統志》とでは、以下の通り第6句に異同がある。この点については、他の引用史料の状況も併せてまとめて検討したい。

歩隨芳草去尋詩
歩隨芳草索題詩

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