30年を経て『河殤』を振り返る(4)
前回
北京週報1989.8.22.付「『河殤』は何を宣伝したか」、即ち“易家言”こと王震による《人民日報》1989.7.17.付記事「《河殇》宣扬了什么?」の結語は、『河殤』を完全には否定しない、あるいは明確に否定することを躊躇っている表現となっている。
さらに、結語に至るまでの5ページに展開されている激しい批判についても、詳細に見ると、中国共産党“王朝”としてどこまで許容するのか、何を絶対に許容しないのかが見えてくる。
まず記事は、“易家言”記事掲載の2日後である7月19日に《人民日報》に掲載された「編者按」を引用している。
「編者按」は、まず6月に失脚した趙紫陽を批判している。
●趙紫陽は、“易家言”原稿を読み、発表してはならぬ、と言った。
●しかも、『河殤』の録画ビデオを海外からの訪問客に贈った。
“易家言”的这篇文章成文后,赵紫阳同志明确表态:不要发表。而他却把《河殇》的录像带送给外宾
(なお、北京週報は“而”を“しかし”と訳しているが、後段で見る《王震伝》から判断しても誤訳である。)
この経緯は《王震伝》(2008 人民出版社)にも記載されているという。以下はネット上に掲示されたものである。
《河殇》经中央电视台两次在黄金时段向全国播出后,
・・・
赵紫阳扶持的一批“文化精英”立即带头在报刊上刮起了一阵吹捧风,
・・・
赵紫阳对《河殇》不仅表示赞赏,还让有关单位复制500套录像带迅速传遍了全国;
他还送给来访的新加坡总理李光耀一套录像带,并推荐说值得一看,让它“冲出亚洲,走向世界”。
趙紫陽は、放映後に全国500か所の“有関単位”に対して《河殤》の録画ビデオを送ったというのである。“有関単位”は思想教育・宣伝教育部門というところだろうか。
そして、来訪したシンガポールのリークワンユー首相にも「一見の価値あり」と薦めた、と指摘する。
6月の放映直後から党幹部と意見交換し、李先念や彭真ら長老にもビデオを送った。
8月の再放送により評撃することを決意し、9月には《人民日報》編集部を呼んで激しく批判した。
王震激愤地说:“《河殇》的片子我看了两遍,解说词的本子也看了两遍,引起很大的火!它把我们的民族一顿臭骂,把中国共产党一顿臭骂,把公有制一顿臭骂,实质上是主张搞私有制的。它说我们黄种人的人种不好,连我们的女排也骂。是可忍,孰不可忍!”
9月 三中全会において趙紫陽に対して《河殤》を激しく批判。趙紫陽は明確な回答を避ける。
10月 《河殤》ビデオの輸出禁止。国内発禁。
同月27日 林默涵(当時の文壇・文芸界の要人。文化部副部長など歴任。)らにより執筆された「《河殇》宣扬了什么?」を、作者“易家言”として以下文言とともに胡啓立と趙紫陽とに送付。
我找林默涵同志谈话,请他写了这篇文章。我认为该文说理充分、明白,特建议作一家之言,由新华通讯社发通稿,人民日报全文刊载。
理ある文章なので新華社通信から発信し、《人民日報》に全文を掲載する、との通告である。
11月 林默涵より、趙紫陽から発表を禁止された、との連絡あり。
由于赵紫阳的阻挠,这篇文章未能见报。当时赵紫阳明确表示:不要发表。他是利用职权压制对《河殇》的批评,为《河殇》思想的畅行无阻提供保护。
経典、伝記、史書は生き残った人間による記録であり、どこまでが事実なのか、事実であったとしても真意はどこにあったのか、判断し難いところではある。
少なくとも、王震は胡耀邦を追及したのと同様に趙紫陽も追及した、という事実のみは間違いない。
次回も引き続き「『河殤』は何を宣伝したか」を見ていきたい。
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