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《萬柳堂即席》-趙孟頫- (2)

前回


趙匡胤による宋の建国は960年とされる。

その後、10世紀末には西方の遼、11世紀前半には同じく西方の西夏、そして12世紀前半には満州の金から圧迫を受けて、これら3勢力に金品を贈答することで征服を免れる状況となったが、1126年には金により華北を奪われ江南に逃れ南宋となった。

その3勢力も13世紀前半にはモンゴル族により征服され(元の建国:1271年。首都:北京(大都))、南宋は1279年に滅ぼされた。

これが、中学高校の世界史で教えられる大まかな変遷である。

もう少し詳しい状況を、以下で確認してみた。

中国詩人選集二集  第2巻 『元明詩概説』(吉川幸次郎・小川環樹編 岩波書店 1963)

金は、北宋を滅ぼした際に、欽宗・徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちをも連行し、妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられたという史実など、南宋(=漢民族)の視点から野蛮で残酷との印象が強いが、科挙を継続して実施し、中央官僚として従来通り漢民族を登用するなど、漢民族政治制度や文化が継承された。そして詩文が重視された。

かたや元は漢民族文化の継承に興味がなかった。

元に徹底して抵抗したのが、《正気の歌》で名高い南宋の文天祥である。

文天祥は宰相として抵抗するも、モンゴル軍の捕虜となる。北京に護送される途中に脱走し、南宋亡命政府のある福建省福州に逃げ延び、抵抗ゲリラ軍を指揮する。

しかし、宋の帝室と共に広東まで逃げたところでモンゴル軍に降伏する。これが南宋の滅亡(1279年)である。

北京に護送された文天祥は、フビライから厚遇を持ち掛けられるが決して帰順しようとせず、汚れて湿った牢獄「土室」に入れられる。

「土室」入牢3年目に作られたとされるのが次の句で始まる《正気の歌》である。

天地有正気
雑然賦流形

非常に長い詩である。語られているのは、虐げられて非常に劣悪な環境にあるが『正気』があるのでものともしない、という強い決意である。そして次の句で終わる。

哲人日已遠
典型在宿昔
風簷展書読
古道照顔色
優れた古人の足跡・教えは今は失われているが、牢屋の中で読めば永遠に不滅の教えが自分の顔に照り映えるのだ。

当初は色目人を重用したフビライも、南宋征服後は徐々に漢化を進め、南宋が支配していた江南での人材発掘を行った。

そうして見出されて、元朝の勧誘に比較的初期に応じたのが趙孟頫である。元への入朝が1286年(33才)というから、南宋滅亡から7年しか経過していない。

また文天祥がフビライ直々の帰順要請を拒否して刑死されたのは1282年である。

このような抵抗の意識がいまだ強い状況での入朝、しかも宋室の末裔という身分であることから、趙孟頫は激しい批判を受けることとなる。

しかし、彼の入朝以降、宋人の抵抗意識が薄まり、元朝側の受け入れ体制が整備されたのが実態である。科挙は1315年に復活している。

趙孟頫は、フビライ以降の皇帝にも官房に相当する翰林に出仕し、死の3年前である1319年まで務めた。


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