ペンス副大統領演説が引用した漢籍(1)魯迅
2018年11月4日にペンス米国副大統領がハドソン研究所(The Hudson Institute)で行った対中政策演説(Administration’s Policy Toward China(*))においては、中華人民共和国成立以前の政権・王朝時期の文章が2編引用されていた。
(*)https://www.whitehouse.gov/briefings-statements/remarks-vice-president-pence-administrations-policy-toward-china/
このうち1編は明確に魯迅の文章であることを明言している。当該部分は次の通りだ。
The great Chinese storyteller Lu Xun often lamented that his country, and he wrote, “has either looked down at foreigners as brutes, or up to them as saints,” but never “as equals.”
Today, America is reaching out our hand to China. And we hope that soon, Beijing will reach back with deeds, not words, and with renewed respect for America. But be assured: we will not relent until our relationship with China is grounded in fairness, reciprocity, and respect for our sovereignty.
トランプ政権が行間に込めた意図まで勝手に妄想して意訳すると、こういうことだろう。
中国共産党のみなさん。あなた方が偉大な文学者として尊敬してやまない魯迅を、我々もよく知っているし、尊敬していることに変わりありません。
その偉大な魯迅ですら、あなた方の歴代王朝・政権の外国人に対する態度が、野獣として見下すか、聖人として持ち上げるか、の2種類しかなく、友人として同等に接したことがない、と嘆いているではありませんか。こういう態度だから、あなた方と外国との摩擦が絶えないのですよ。
それに引き換え、現在のアメリカの要求は、あなた方が我々と共に繁栄する為の改善提案として手を差し伸べているのですよ。しかも、あなた方がすぐにでも我々のこの好意に応えてくれる意思がある、それも言葉だけではなく、これまでのように我々を野獣として見下すような態度を改めるであろう、と信頼しているのですよ。
そうは言っても、これだけは覚悟しておいてください。我々とあなた方との関係が、公平で、どちらか一方が優位に立とうとせず、我々が正当な主権や権益であると判断する領域にまであなた方が入り込んでこないようにならない限りは、我々は容赦ない手段に訴えるようなことはしません。
この引用分の原典は何か。ハドソン研究所自身は明らかにしていない。
中華人民共和国の投稿サイトへの書き込み(*)では、《新青年》第六巻第二号(1919.2.15.)に初掲載された「随感録四十八」の冒頭にある以下文章が原典であると言う。
(*)https://user.guancha.cn/main/content?id=43449
「用鲁迅和古文指责中国,彭斯你好歹得先读懂吧」
中國人對於異族,歴來只有兩樣稱呼:一樣是禽獸,一樣是聖上。從沒有稱他朋友,説他也同我們一樣的。
確かに、この部分のみの逐語訳として英文に違和感は感じられない。
1919年ともなるともはや現代文の領域だが、無理して訓読すると・・・
中國人の異族に對するは、歴(ことごと)く來たるに只だ兩樣の稱呼有るのみ、一樣は是れ禽獸、一樣は是れ聖上、從(よ)りて他(かれ)を朋友と稱(よ)び、他(かれ)も也(また)我們(われら)一樣に同じと説くことなし。
一方で、同サイト投稿は、「随感録四十八」全体の論旨は、ペンス演説の理解とは異なる、と主張している。
「随感録四十八」
中國人對於異族,歷來只有兩樣稱呼:一樣是禽獸,一樣是聖上。從沒有稱他朋友,説他也同我們一樣的。
古書裡的弱水,竟是騙了我們:聞所未聞的外國人到了;交手幾回,漸知道“子曰詩雲”似乎無用,於是乎要維新。
維新以後,中國富強了,用這學來的新,打出外來的新,關上大門,再來守舊。
可惜維新單是皮毛,關門也不過一夢。外國的新事理,卻愈來愈多,愈優勝,“子曰詩雲”也愈擠愈苦,愈看愈無用。於是從那兩樣舊稱呼以外,別想了一樣新號:“西哲”,或曰“西儒”。
他們的稱號雖然新了,我們的意見卻照舊。因為“西哲”的本領雖然要學,“子曰詩雲”也更要昌明。換幾句話,便是學了外國本領,保存中國舊習。本領要新,思想要舊。要新本領舊思想的新人物,駝了舊本領舊思想的舊人物,請他發揮多年經驗的老本領。一言以蔽之:前幾年謂之“中學為體,西學為用”,這幾年謂之“因時制宜,折衷至當”。
其實世界上決沒有這樣如意的事。即使一頭牛,連生命都犧牲了,尚且祀了孔便不能耕田,吃了肉便不能榨乳。何況一個人先須自己活著,又要駝了前輩先生活著;活著的時候,又須恭聽前輩先生的折衷:早上打拱,晚上握手;上午“聲光化電”,下午“子曰詩雲”呢?
社會上最迷信鬼神的人,尚且只能在賽會這一日抬一回神輿。不知那些學“聲光化電”的“新進英賢”,能否駝著山野隱逸,海濱遺老,折衷一世?
“西哲”易卜生蓋以為不能,以為不可。所以借了Brand的嘴説:“All or nothing!”
1919年2月は、どういう時期であったのか。
1919年と言えば5月の五四運動である。そして五四運動を牽引した重要な思想運動は魯迅らが中心となった新文化運動で、思想を発表する主要メディアこそ「新青年」であった。
新文化運動は、儒教を中心とする旧来の規範を批判し、科学と民主主義とによる社会改革を実現させようとするものであり、「随感録四十八」の趣旨を簡単にまとめると以下の通りだと解釈する。
これまで漢族は、他民族を猛獣とか聖人様と言って、まともに相手にしてこなかった。
辛亥革命以降、海外から多くの新しい技術や思想が伝えられてきて、呼び方を西哲とか西儒に変えているが、相変わらず真面目に学ぼうとしていない。
表面的に取り繕っているばかりで、本質は何も変化していない。
投稿者は、魯迅は中華民国初期の状況を批判しているのであって、この反省を基礎に成立した現政権の体質を表現したものではない、と主張している。
ペンス演説は、外交上の知的揺さぶりであり、原典の趣旨に沿っていようといまいと関係ない。俺たちは、ここまで知っているぞ、国内のあらゆる知識を総動員しているのだぞ!、と言い放つことが重要なのである。中国共産党も、重々承知しているだろうから、報道を見る範囲内ではまともに正面からは反発していないように見える。
さて、この投稿者は果たして中国共産党の政策に沿ってアメリカを批判したのだろうか?
私には、1919年の魯迅を借りて、中国共産党もまた従来の王朝と何も変わらないことを言っているような気がしてならない。アメリカ人は「随感録四十八」全体を読んでいるのだろうか?と問いかけているが、何よりも国内に対して読んでほしいと訴えているように思えてならないのだ。
《1915~1919年の出来事》
中華民国が成立したが、袁世凱は帝制を復活させた。
袁世凱は、議会制民主主義を主張する宋教仁を暗殺した。
袁世凱死後、軍閥が割拠する。