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《萬柳堂即席》-趙孟頫- (5)

前回


《大明一統志》にも言及あった《輟耕録》にも《萬柳堂即席》の引用がある。

《輟耕録》についてWIKIPEDIAの記述を以下の通りである。

《輟耕録》(てっこうろく)は、元末の1366年に書かれた陶宗儀の随筆。30巻。正式な題名は《南村輟耕録》(なんそんてっこうろく)という(南村は陶宗儀の号)。主に元の時代のさまざまな事柄を詳しく記している。
至正丙午(1366年)に孫作によって書かれた《輟耕録》序によると、作者の陶宗儀は元末の戦乱を避けて松南に隠棲し、農耕の手を休めて(「輟耕」の名はここに由来する)文章を書いては壺に収めて木の根元に埋めていたが、そうするうちに10年がたって、壺が多数になったので、人々を集めてそれを書物の形にまとめさせたところ、30巻になったという。
《輟耕録》は雑記であって、その内容はさまざまであるが、中でも元の時代の政治、制度、風俗、文化などを多く記していることが特筆される。


《輟耕録》にも和刻版があり、長沢規矩也氏が以下の通り解説している。
(和刻本漢籍隨筆集 第2集 汲古書院 1972-78)

著者自らの見聞に基づき、元代の王室一族、法律制度より政治経済、争乱、世情人心、宗教相ト、詩文書画その他上下朝野の実情を記したもの。従って、従来、元史の専攻家は固より、「院本名目」(巻二十五)・「雑劇曲名」(巻二十七)の如き、戯曲研究家にも珍重していた文献である。四庫子部小説家類収入。提要に俚俗戯虐閭里鄙穢の事を雑入すれど、元代朝野の旧事実の本書によって存することを得ることは、史学に益あるものと評したのは当たっているといえよう。(原文は旧仮名遣い。)


《欽定四庫全書》とこの和刻版とでは数か所の表記に異同あるが、和刻版に従い読み下す。

亰師城外の萬栁堂も亦た一宴游の處なり。
野雲の廉公一日中に於いて置酒して䟽齋の盧公松雪の趙公を招て同飲す。
時に歌兒劉氏觧語花と名る者の左手に荷花を折り、
右手に杯を執りて小聖樂を歌ひて云はく、
綠葉は隂濃にして池亭に徧(あまね)し、水閣は偏(ひとへ)に凉の多を趁(お)ふ。
海榴の初めて綻ぶこと朶朶、紅羅を蹙(しば)し乳燕雛鶯の語を弄して對す。
髙栁の鳴蝉相和す。驟雨過ぎて瓊珠の亂撒して打ちて新荷に遍(あまね)きに似る。
人生百年幾くの念か有る。良辰美景は放虚して過ぐることを休めよ。
富貧は前に定る。何ぞ用いてか張羅することを苦しむ。
友に命じ賓を邀(むかへ)て宴賞して芳醑を飲む。
淺酌低歌且つ酩酊し教えに從ふ。 
二輪来往は梭の如くなることを既にして酒を行く 
趙公喜びて即席に詩を賦て曰はく
萬栁堂前數畝の池
雲錦を平鋪して漣漪を盖ふ
主人自ら滄洲の趣有り
遊女仍歌ふ白雪の詞
手に荷花を把て来て酒を勸む
歩して芳草に隨て去て詩を尋ぬ
誰知ん咫尺亰城の外
便無窮萬里の思有んと
此の詩集の中に小聖樂乃小石調の曲無し。
元遺山先生(好問)製する所にて名姫多く之を歌ふ。
俗以て《驟雨打新荷》と為る者の是なり。

乳燕雛鶯:小娘
張羅:接待

《大明一統志》での記述内容がより多くの豊かな表現により彩られている。美しい庭園の中でのにぎやかな宴の光景が生き生きと描かれている。

そして、“即席”の所以、小聖樂の由来も解説されている。


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