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過剰な節制と自己肯定感

 最近は自己肯定感がかなり上がってきたので、色々な場面でフットワークが軽くなったのを感じます。その中でも支出が増えてきたことが一番の変化のように感じたので、それに対する雑感を書くことにします。

 私は以前しっかり病んでいたのですが、とにかく自己肯定感がありませんでした。何をしても自分を責めてしまうし、何もしなくても自分を責めてしまう。そんな「生きてるだけで負け」状態に、とことん自分を追い詰めていました。

 理由としてはシンプルで、身分がないからでした。一応、大学に所属はしているけど、既に何度か留年・休学を挟んでいる。カウンセリングも行っていたが、意味があるとは思えなかった。そんな状態で就職はおろか、大学卒業というビジョンも全く見えず、自分が所属していると言い張れる身分が1つもなかったのです。なんだか不法に「大学生」という身分をもっているだけの人間であって、君はそのじつただの無職だろう、というのが本音だったのです。

 そんな時期をいくらか過ごしていると、とにかく節制するようになりました。食事代やその他生活費、娯楽に対する支出はかなり渋りました。当然ほぼ無職でお金が無かったからというのもあります。ですが、そこは本質でなく、根本にあたるのは「自己肯定感が無かったから」なのではないかと思うわけです。

 すなわち、自分にはこのくらいの節制をするだけの禊が必要だ、これくらいはしないと生きている資格なんてまるでない(していてもないくらいなのに)というを自分に押し付け、その枷をなんとか自分で背負い、守り抜くことによって最低限の償いをしつつ、その活動に自分なりの尊さ・美学を覚えていた、というわけです。

 というのはこの時期の自分にとってとても重要なワードで、これすらなかったら、とうに自分は崩壊しきっていたと思います。枷があって、これを背負っているという構図があるからこそ、自分はまだ生きていいとまではいかないけれど、それでも何かに生かされているという感覚がありました。究極的に、枷というのは自我を保つための最終手段なのかもしれません。

(細かく言うと、枷というのはなにも節制だけの話ではありませんでしたが、ここでは省略します。とにかく、一番わかりやすい例がお金周りだという話です。)


 最近の話で言うと、特に食費が多くなりました。といってもまだまだ平均以下だと思いますが、そういう時期に比べると5~10倍とかそのレベルで増えています。仕事や普段の作業に対して自分の効率を上げるために食事が重要であることに気づき、自分をいたわるために意識的にバランスよく食べるようにしたためです。自分がこのレベルの食べ物を食べていいという自己肯定感がないと、こういった行為はできません。

 だからといって、食事をよくすれば自己肯定感が上がるわけではないでしょう。自己肯定感が低い状態で急に食費のレベルを1段階上げても、ただただ申し訳なくなるだけです。自己肯定感が変わるには、自分の中でなんらかのパラダイムシフトが起きる必要があって、そんなの不確定要素でしかないので、結局運次第なところがある感じがしています。

 枷なんて今からしたら「何のために」、と思うこともなくはないです。皮肉にも、枷は当時の自分を生かす材料でありながらも、自分をそのままの生き方に固定するしがらみでもあったと感じます。当時の自分からしたら重要な生命線でしたが、ずっと囚われていると本当にそのままのルーティンで消えてしまう。この枷を破るような何かを起こす必要がどこかであるのではないかと思うのですが、その具体的なやり方は分からないままです。


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