【試し読み用】五月二十九日、夜

 全然足りないわ。
 と、女は言う。
 「し、しかし……」
 「当たり前じゃないの。明日の依頼を今頃持ってきた上、ここに書いてあることを全部やれだなんて、物理的にも無理よ」
 広い机の半分をも占拠する大ぶりなトランク、そこにぎっちりと詰め込まれた札束。
 もし一枚一枚数えるとするならば途方もない時間を費やすのだろうし、金額にするならば一般的な市民が働いて得る年収をも超えるだろう。
 しかし、女はそれを手に取るでもなく、ましてや横目に見ることすらなく、顔色のひとつも変える様子はない。まるで、そんなモノはとうに見飽きているかのように。
 トランクと一緒に渡したメモを一瞥し、呼吸に乗せて続ける。
 「これだけだと、一つだけしかできないわよ」
 「と、いいますと?」
 「ここに書いてあることのうち、一つだけ」
 「そ、そうですか……」
 「これでもオマケしてるのよ? あいにく、明日はこういうのが得意な子は出払ってるし」
 そっけなく答えた女は、たっぷりと余裕を含んだ微笑を浮かべながら、おもむろに煙草の缶を手に取り、ゆるりと蓋を開けると、ほっそりとした指でふわりと解す。
 その一連の所作に漂う色気にうっかり見蕩れていると、真横から急かすような小声が飛んできた。
 「おい、どうすんだよ!」
 我に返りそっと見ると、その顔の上で苛立ちと不安とがマーブル模様を描いている。そうだ、ここには仕事の依頼をしに来たのだし、そもそも本部はかなり忙しいらしく、終わり次第すぐに戻るように言われているということは、この話はなるべく手短に終わらせなければならないのだろう、しかし自分達は代理の代理の代理で来ただけで、本来ならば決定権すら持ち合わせていないし、だからといって一旦戻って再検討する余裕などない。
 静かに慌てる二人に向け、女は気怠げに続ける。
 「で? どうするの?」
 ここに来る前に言われたことを必死になって思い出す。ええと……このトランクとこのメモとこの封筒を持ってこの場所へ行け、そうやって入ると中に女主人が居るはずだからそいつらを渡せ、かなり癖のある人だから何か言われるかもしれないがひたすら流せ、無理だと言われても出来るだけ譲るな、それでも駄目ならこれだけはどうにかしてやってもらえ……ということは。
 「あ、じゃ、じャアですね、とりあえず最後のだけで大丈夫です、はい」
 声は裏返ったが、この状況では最善の選択をしたはずだ。おそらく。多分。きっと。
 「あら、そう」
 女はパイプに葉を詰めながら答える。顔はおろか視線すら上げる気配はない。慣れた手つきでマッチを擦り、その火をパイプに移し、少し蒸かしてから押し付け、また火を入れた。良く言うならばおっとり優雅な仕草、悪く言うならば、うんざりする程に長く遅い。
 視界の斜め前に居る柱時計を確認するに、この部屋に入ってから既に二十分以上が経ったようだが、契約に至る様子も、それどころか具体的な商談に移る様子も一向に無い。ここの主だという女はずっとこの調子で、しかしあまりにも巨大で柔らかく気怠い威圧感があり、とても急かしたりなどできる状況にはない。癖のある人らしいと聞かされてはいたが、しかし〈癖のある〉という言葉から想像できる範囲を大きく超えていた。この数分、誰の口も開かれることはなく、だいぶ古惚けた時計の秒針だけが饒舌に語り続けている。
 「ねぇ、アイザック」
 ようやく緩く発された女の声と視線は、立ち尽くす二人の間を通り抜け、その後方に落ちていく。
 「ちょっと見てもらえる?」
 一呼吸くらいの間を置いた後だろうか、女の声が届いたあたりから何かが軋む音がした。思わず二人同時に振り返ると、そこにはソファが向かい合うように二つあり、入口側のそれに誰かが座っていたらしく、ゆっくりと立ち上がりこちらを見ている。
 すっかり忘れていた。この部屋に足を踏み入れた時、入口近くに応接スペースのようなものが在るのは確かに見えていた。しかし、ドアを開けるなりすぐに女主人からこの位置に来るよう促され、慌ててそれに従ったので、そこに誰かが座っているかどうかすら確かめていなかった。女とやり取りしている間にも何かしらの音はしていたはずだが、全く耳に入っていなかった。この仕事を始めてから暫く経つが、なかなかの失態だという自覚はある。
 黒い服を着た、黒い髪の青年。いや、背格好からして、まだ少年かもしれない。こちらの顔をじっと見たかと思うと、挨拶の一つもしないまま左横をゆっくりと通り過ぎ、静かに女主人の右後ろに立った。
 女は机に広げていた封筒の中身をさっと集め、一番上に依頼のメモを足し、青年に渡す。彼はそれら一つ一つに目を通し、見終わったものは淡々と机に重ねる。先程まで濃く漂っていた怠さは全て幻だったかのように、実に丁寧な時間が流れていく。ようやく商談らしい商談が始まったのかもしれない。
 紙のノイズとパイプの煙が漂う空間に取り残された。今は机の向こう側の様子を凝視する以外に出来ることはない。女主人は見事なブロンドヘアの持ち主だな、ショートヘアなのが勿体無いくらいだ、長ければさぞかし綺麗だろう、男のほうはチビだし細いし顔も幼い気がするし、やっぱりまだ子供なんだろうか、でも全身から滲み出る空気は大人のそれだ。
 「どう?」
 青年の手元の資料が残り数枚になった頃、女主人が煙草の香り越しに問うと、彼は資料から目も注意も離さないまま言葉だけを返す。
 「オズ、いないんだ?」
 静かなその声はどう聞いても成人男性のそれであった。なるほど、しかしかなり若く見える。
 「一週間前から決まってる仕事があるのよねぇ」
 当て付けかのように少々仰々しく言う女主人に、男は沈黙で返事をした。
 「余裕でしょう?」
 「……最後の一つだけならね」
 青年が最後の一枚を机に積みながらそう言うと、女の眼鏡の向こう側に満足気な笑みが滲んだ。
 「火力が足りないけど、オズになんか借りるよ」
 呟くようにそう言うなり、彼はこちらに視線を向けてくる。
 「場所なんだけど……」
 「あっ、ハい」
 突然話しかけられたので、またしても声を裏返らせてしまった。
 「本屋の交差点のところだよね?」
 「そ、そうです、ええと、」
 「北に曲がって左手の三軒目」
 「あ……そうです」
 「時間は?」
 「零時過ぎ……零時から零時半の間……くらいだと思います。もしかしたら前後するかもしれませんが……はい……」
 そう答えると、男は無表情のまま頷いた。
 黒いスーツに黒いシャツ、ネクタイは無く、一瞬見えた靴も黒、黒く長めの短髪で、毛先があちらこちらを向いている。とはいえ身なりに気を遣っていないわけでもなさそうで、背筋を伸ばし綺麗なシルエットで着こなしており、声色も穏やかに落ち着いている。不釣り合いなバサバサの髪は癖毛なのだろうか。
 黒一色の中で嫌に映える、夕焼けのように燃える瞳がこちらを真っ直ぐに見てくる。
 「……あのさぁ」
 「は、はい」
 「本当にこんなに派手にやっていいの?」
 「か、かまいません、はい」
 「……わかった」
 彼が呆れたようにぽつりと言うと、女はふわりと煙を吐いた。
 「じゃあ、決まりね」
 そう言いながら笑みを浮かべる主人に向け、青年は軽くゆっくりと頷く。
 「ふふふ。さぁて、お兄さん達、お待たせしたわね」
 いったい何十分かかったのだろうか、ようやく女のほうからこちらに声がかかった。それも、ほんの数秒前までは想像すらできなかった程に、愛想良く。
 「あ、いいえ、とんでもないです」
 「これを以て契約成立とします。改めまして、ようこそ、《ボイル=エマーソン・オフィス》へ」

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