最近の記事

20240915

ああ、まったく。相対主義者はいつも同じことを口にする。 そうあなたはため息をつくにちがいない。そこにいたならば。 この先のわかりきった展開をわざわざ追わせることがないように、内容を示しておこう。SNSは本人がしばしば自らの意識からも隠し立てる秘密をただ暴露することを正しいこととする公共空間、身体性、その緊張感を、目的や手段といったものをごっそりと欠いており、感情を交わす余地も必要もない場所、ただ否認と論破が織りなす空間(もちろん誤配がないなんて言わないが、それは時間の中に、

    • 20240912

       対立的な世界観を掲げるふたりの候補者がいて、人びとはそのどちらかに投票することになっている。 もしこれが、たとえば戦争か平和かというような選択であるとすれば、多くのひとにとって、必ずや一部の人間にあって、答えの明らかな選択肢であるに違いない。「希望は、戦争」という言葉を思い起こすなら、そう表現し、共感的であれ侮蔑的であれ何事かを感応することができるということを思うなら、それがごくかぎられた、狭い見解にすぎないことが理解されたのかもしれない。 もしその対立が偽物だとすれば、ど

      • 20240902

        まずはじめに、これはきわめて反動的な考え(方)であるということを注意しておく。といって魅惑的だとか過激だというわけでもないことについても注意しておく。これはいわば残念で余計なOne more thingにすぎない。 ポスト・ヒューマニスト  その企図が誰にとっても明らかであるような明白な攻撃ではなく、意図的でない、そもそも意図の有無とは関係がない、無意識に、しばしば善意的、常識的になされる「攻撃」、こう言ってよければ暴力というものとはたしかに区別されるだろう加害という現代

        • 20240618β

          Peaceful Lockdown  「正義が平和に優越する時代」という表現が可能であるのなら、そのままそっくり反転させて「平和が正義に優越する時代」と表現することもできるはずである、という発想は、その構想を理解できていない証左なのだと指摘されるところかもしれない。 とはいえ、平和について呆けることなく、冷静に、理性的に、「残酷である意味で暴力的な側面も含む概念」などと考えられるなら、一択の選択としてまごうことなきハッピーエンドに一直線の概念であるなどとは考えないのであれば

          20240618

          平和というバカンス  「政治の外部としての平和」、その平和論というものをこの短いレポートから理解することはそもそも想定される物事でないだろうし、これはつまるところこちらの世界観の話、視点、課せられる命題にすぎないのだとして、「正義を貫こうとするかぎり、戦争は終わらず平和は訪れない」、すなわちそのいわば震源について相変わらず等閑視する構図、戦争というより戦禍がもっぱら気にかけられている様は、いかにも一貫したものに思える。   その「正義」は何を指しているのか。非ナチ化という

          20240322

          ナマケモノは怠け者か? act1 言葉  それをモダン操作という、つまるところ「遊び」でしかないようなものの特定の文化慣習上の環境において認められる、せいぜいが「ゲーム」一般に観られる問題事、つまりもっぱらローカルな話題としてではなく、たとえば「配慮」が見られるところには通用するような、制度論的な視点を提供するものと視るとすれば、問題となる喧騒が、必ずしも小さかったり狭かったりしボリュームに乏しいとはかぎらないにしても、やはり限定的に起こるものであり、いかにも当事者にしか

          20240315

          政治的なものの文法  さる講演に参加した知人は、その内容に大いに刺激を受けた一方で、ある一点においてほんの少しの、しかしわだかまりのように底に沈みこむような苦みをおぼえているようだという印象を、その話を聞きながら覚えていた。 障がい者支援においては、いわゆる福祉という制度内の慣習に染まった人材よりも無資格で未経験で不案内であるような、多種多様な背景をもつ人物の方が望ましいという講演の一節に、では資格者であり経験者でありそれなりに道に通じて〈しまって〉いるだろう介護従事者で

          20240227

          最悪と災厄 自然なもの、あるいは無垢なものは、たとえば善悪以前の存在である。  たとえば性加害の被害者が警察ではなく週刊誌に話をすることは、警察に頼ることの実際に鑑みれば、不自然なことではないと述べられる。 被害に遭った人間がすぐに被害者として告発者に至らないのは、雨の日に傘をさすことのように不自然ではないことであり、どんなに雨が降ろうと傘をさすつもりのないひとがいることは知ったことではないだろうし、晴れた日に同じように傘をさすことについての議論がどのようであろうが関係が

          20240114

          狼は国境を越えるが、都市を歩けない よってこの試みは、あたかも「家族」や「訂正可能性」について正しい理解を示そうとするかぎり、反動的ということになる、とすれば、しかし、訂正するということは、「正しくないに違いないが」と遠慮がちに、ちらちらと顔色をうかがい身体を縮こませながら、「正しいなんてことはありえない」と諦念をにじませながら、理解を示しながら、覚悟はしているといった風になされるものではない、そうあるべきものというわけではないだろうという理由から、いまはそっと目を閉じて、

          20240109

          収容都市と神の淫らさ(、狼と家族) 何かしらのわけ、それだけでうまくいくひとが全部ではない。そして、それこそは「人生の多様性」である…というとき、しかしこれは何を言っていることになるのだろうか。 その第一印象は、いかにも「〈それ〉については〈あれ〉もあれば〈これ〉もあるということを(私は)知っている」という知、言外に真理(の不在)をほのめかす教条的な知を前にしたかのような虚無感であり、つまらなさであった。 たとえば、なるほど教養というものがあれば「それぞれ良いところがある」

          20231221

          homo-automatos 「公正さ」をめぐり見出されるパングロス博士の精神は、つまるところ逆説的に組織される、それとしてはポジティヴなものをなにひとつもたない共同性、こう言ってよければ「否定神学的共同体」*¹の問題として問われていたのだが、救国内閣なる提起を目にしたとき、〈具体的、実証的に名指されるなら、それは自ずと議論を誘うだろう〉という具合に、私も同じ穴のムジナにすぎなかったことに気づかされる。というのも、救国内閣は「公正さ」と違い、誰を総理大臣にし誰を官房長官にし

          20231220

          現代を生きるパングロス博士の精神(と非実在のカンディード) 「”庶民”出身で貴族とも渡り合える教養を持ち、低報酬で国民のために滅私奉公する政治家」という、まるで聖人君子、あるいは聖少女か白馬の王子様でもあるかのような政治家像は、ワイドショーなどの批判をすべてまとめたところで生まれている像であるから、ひとりひとりがアンケートのなかに書くようなものではないわけだが、興味深いのはその空虚さ、具体をまったく欠いており、実体を結ぶことがないだろうことである。 それはさながらバッファロ

          20230826

          ゲーム・ルール・プレイヤー 検証 ナチスは「良いこと」もしたのか? - 岩波書店 (iwanami.co.jp) 試し読みとしていかにも気軽に臨むことのできる「はじめに」は、しかと目を通すなら、あとは一瞥を交わすだけでも今日日の混乱について、フェイクニュースが渦巻くポスト真実の様相に射す一筋の光だとか、由々しき分断を架橋する頼もしい理性の働きというように共有される、というのが通常の、いわば健康というように異論なく望ましい、そうであるはずの感性なのだとすれば、ここではいわゆ

          20230721

          Third Person Sociality それは節約か貧困か、自助努力、いわゆる自己責任の範疇か、それとも社会問題なのかといった活気を招き、これはあたかも箱のなかで運命定まらないままにたゆたうネコのようであるーなどと述べるのはあまり適当でないかもしれない。 それは、同じ人物の肖像は手がける作家が違えば異なる像をもたらすだろうといった安直な推定、「誰もが思いつきそうな見方」から自ずと描出されるような、のっぺりとした画にはない骨組みを有している。 まず目の前にはウィンナ

          20230703

          理性と感情 専門知をめぐる喧騒がある。 それ自体はつまるところ、中止でなく失敗だと認めさせたかった記者の話のようなもの、あるいは「議論」を占拠することで何かを阻止する運動の一環であるにすぎず、専門知やら市民感覚だのが問い質されているというわけでなく、異なる原理に基づくために相容れないそれらをつなぐメディアの問題として考えられるために当事者でもあるはずの火種となった人物が追及されもする一件だった、として、「だから「媒介」機能のない直のツイッターの議論がおかしくなるのは当然」

          20230605

          神的アイデンティティ フロイト的ユーモアの文学的問題、「人は文学の「ユーモア」に笑う。だが当人の心は笑ってはいない。むしろ苦しんでいる」という提起に、その殉教のありさまによってコメディアンの守護聖人にも、いわば転生したといった話を思い出したというツイートによって、私は誤配の運動を想起していた。 ユーモアに笑うのもそのような”転生”に居合わせるのも観客であるという、「当人」不在の状況は、いかにもそれを思わせる。 「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」という言葉は