20240618
平和というバカンス
「政治の外部としての平和」、その平和論というものをこの短いレポートから理解することはそもそも想定される物事でないだろうし、これはつまるところこちらの世界観の話、視点、課せられる命題にすぎないのだとして、「正義を貫こうとするかぎり、戦争は終わらず平和は訪れない」、すなわちそのいわば震源について相変わらず等閑視する構図、戦争というより戦禍がもっぱら気にかけられている様は、いかにも一貫したものに思える。
その「正義」は何を指しているのか。非ナチ化という言葉を信じるなら、あるいは「正義の反対はまた別の正義」よろしく、行動は一般に正義であると勘定するなら、露もまた正義を貫こうとしているのであり、よって侵攻のせいで「戦争は終わらず平和は訪れない」と考えることも可能であり、まずもって戦争をやめれば、やめさせることができれば戦争は終わるものと素朴に考えることもできるはずである。しかしその文章の前段にあるのは、侵攻は正義に反するものであるため徹底抗戦すべきであり妥協してはならないという「専門家の論調や国際世論」だけであり、よってその「正義」には抵抗が、一方の停戦しない者、させない側だけが該当するのは明らかなことだとすれば、戦争を問題視し、戦争をしかけた者と続ける側とに区別しながら、前者を除外し後者だけを現実の戦争主体、つまり戦禍の責任者とする判断、操作、否認、視野の欠落は何を示しているのだろうか。
侵攻当初、その関係がDVとして喩えられていたことを思い出すなら、一方の視認を欠くその平和的な停戦論はさながら、DV夫から子どもを連れて逃げた妻に対し、平和、つまり子どものために夫とよりを戻してはどうか、片親の子どもは不憫だしいろいろと不便もあるだろう、そもそもキミひとりで生活できないだろう、あいつも反省したと言っている、もう一度信じてやれないか、誓いを保証するのは行政機関とかの仕事であってぼくがどうこう言える話じゃないがこのままでは子どもがかわいそうだ、などと現実を説きながら寄り添う友人といった感がある。
そのようにまなざすなら、自分は当初からその暴力を批判していると声高に叫ばれるところかもしれない。まるで「自分はレイシストではない」というように、そのように相手をラベリングして貶しめようとすることこそレイシスト的な所業である、というように*¹。たしかに一言目に暴力を咎めているが、続いて身を隠していたり係争することで結果的にその緊張関係を継続し周囲に悪影響が及んでいるという点に目を細め、より頻繁に、幾度となく、執拗にこだわることが果たして中間的なのか、それのどこがよいというのか、いまだにまったく理解できそうにない。
「破局が起こる、しかも必ず起こると考える」とき、「そのように信じてはじめて、「計算」の罠に陥ることなく、破局回避のため真剣な努力を始めることができる」のだとすれば*²、もし戦争が起きていなかったとしたら、と仮定することではじめて、その戦争の残酷さについて知ることができるのだとすれば、「哲学」にはたしかに意味があるのだろうし、それが「喧騒」なり「訂正可能性」に賭されているものであり、それが本当に実現したならたしかに緩衝地帯ともなるのだろうが、破局が起こらなかったときに罪状は存在していないのだし、破局が起こってしまったときにはそれでも罪に問うかそれとも許すかという選択に迫られる、すなわちこの目の前にあるのは、「戦争」が終わりさえすればかならず実現するような平和観、特別軍事作戦が想定通り三日でなし遂げられた場合だろうと、どちらか一方にとってどれほど妥協的な停戦だろうと、ともかく平和が訪れたことになる数え方、正義の”プロパガンダ”が成功して訪れる静寂も失敗して訪れる静寂も、そろって平和と呼ぶことのできる観光の都合であり、破局をすでに起こってしまったものとして、その収束を課題化し平和という名のもと損切りのため「計算」を働かせるリアリズム、未実の仮定を試みることが要はそれだけ悪いということだという非難のかさ上げとして賠償金相場を吊り上げるための梃にしかならないような世界、それを結果的に支援する哲学、「グローバルサウス」を新しい流行歌のように、いつものように語らっては、一人シャワーを浴びながら愚かさという名の睾丸を愛でては涙していられるような批評である。
しかしたしかに、約束が果たされなかったのはどうしてなのか、遂行するということはどういうことかということは、評論家なり観客にとってはどうでもいいこと、その生活、予感にもスケジュールにもまったく関係がない話かもしれなかった。
注
*1 『アンチレイシストであるためには』p13-15参照。
たとえば人種差別主義の観点においては事実適示によって「わたしは○○人を差別していない(いなかった)」という状態がありうるとして、人種主義の観点においては自分はレイシストではないということはアンチレイシストであることにおいてしかありえない状態だという具合に、その著述は、是非はさておき、中間が存在しない状態について、友か敵かというつまりは視線の問題としてではなく、また結論ではなく導入として、記述できているように思えるのだが、これは印象にすぎない話かもわからない。
それはある意味では白票や棄権をめぐる問題、つまり投票、選挙、民主主義の問題であり、白票や棄権が「完全服従の証」としてまっさらな委任票を表すものだと捉えることを視線の問題としてみれば、積極的棄権という概念が再考されるところかもしれない。それは、妥協することなしに選択肢はないような状態において、なお迎合することなく選択することを試みるとすれば何ができるかという、切実な問いのなかにあるものだったとすれば。
*2 ゲンロン11/p44
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?