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20230605

神的アイデンティティ


フロイト的ユーモアの文学的問題、「人は文学の「ユーモア」に笑う。だが当人の心は笑ってはいない。むしろ苦しんでいる」という提起に、その殉教のありさまによってコメディアンの守護聖人にも、いわば転生したといった話を思い出したというツイートによって、私は誤配の運動を想起していた。

ユーモアに笑うのもそのような”転生”に居合わせるのも観客であるという、「当人」不在の状況は、いかにもそれを思わせる。
「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」という言葉はいまやうまいボケという印象が強いにしても、そこに抵抗の意志や情念といった、なにかしら別の企図がありえなかったわけでもないだろうとすれば、これはまったく「死後」の問題であると考えられる(これはまた、「尋常の言葉」が「いままでも実は恋愛していたのだ」という経験に通じるといった恋愛の問題を想起させるものだが[『郵便的不安たち』p113-114]、ここでは示唆にとどまる)。
そこで興味深いのが、「ポジティブな能力であるよりむしろ病に近いものであるらしい」ユーモアについての苦しみが、「こと文学に関して言えば」と断られつつも、「死後になっても世間から評価されるような能力によって、当人はむしろ苦しんでいる」というように述べられることである。

「当人」というとき、一般的には自認、セルフイメージとの不一致を問題視する人権上の概念といったきらいがあるとすれば、ユーモアにおけるそれはたんなる自画像の問題ではないように思われる。というのも、まず「能力」であるとすれば、自認が誰しも持ち合わせているだろう自己にかんするものであって、才能というようにあったりなかったりするものではないという点から明らかにも思われるし、一般にそれは生きているあいだの感触として気にされるのであり、死後の評価(これはただ生きている延長線上ではない)を気にするということは、通常ほとんど実質をもたないように思われるからだ。ユーモアに苛まれる死後-以前の感覚は一般的感性とは言いがたいし、これはたとえば親が我が子を眺めながら明日の情勢を気にするというのとも異なるものだろう。

死後への意識という観点において想起されていたのは、まさしくフロイトのエピソード、『夢解釈』の刊行年をめぐる操作の話だった。

 これはよく知られている事実ですが、『夢解釈』はじっさいには一八九九年に出版されています。でもフロイトはかなり誇大妄想的な性格なので、自分をニ〇世紀を体現しにやってくる人物と考え、刊行年を一九〇〇年と記載して『夢解釈』を出しました。

新記号論(p126)

一般的な「当人」の感覚からその苦しみを推察すると、共感性、共有性ゆえに同じ痛みとして、悲劇的性格に回収されたりそんなのは大したことがないと逆に軽んじられてしまうばかりで、死後にも評価されることを意識するということの尋常でなさへの思慮を欠いてしまうように思われる。
それはたしかに「苦しみ」に違いないが、登頂ルートの違いというように、同じ山を登ったという言葉を飲み込ませるところがある。

あるいは、誤配と誤解との違いを参照するのが手っ取り早いかもしれない。

市川:なるほど。ただ、東さんが言う「私生児」は本来、「父と子」みたいな直近の関係じゃなくても勝手に固有名を介して転移していくような、そういう関係ですよね。だから、父にされた側もそれに必ずしも気づかない。
東:それこそが他者です。しかし柄谷さんは、むしろそういう存在は理解できなかった。『批評空間』一八号で[…]柄谷さんに「東くんの『誤配』というのは『誤解』のことで、そんなことはおれが昔から言ってる」と言われたことがあります。でも誤配と誤解はちがう。柄谷さんは、ぼくの言う「郵便的関係」を父と子の関係だと捉えていた。

ゲンロン1(p60-61)

続いて、「散種」概念から「だれがだれの子だかわからない状態」だとか、「私生児というのは、たとえば勝手に本を読んでいる読者のこと」だとか語られていくのだとして、このとき一般的感性における「当人」が、いかにも(柄谷的な)父と子の様相で捉えられていることを指摘することができる。
ユーモアは「勝手に」生じてしまうのであり、たしかにそのかぎりで不当さを訴えることもできそうだが、文学者は一般人と違って、拡散されること、「父」になることを前提的に意識し、そのうえでかくあろうという意志の、いかにも”不能さ”を苦悩しうるというのであり、これは対象が顕名的な血縁関係、こう言ってよければ母権型血縁主義の世界観においては生じがたい。
(ところで、本とTwitterサブスクのようなメディア=「壁」において引用性が異なるとすれば、つまり一方が比較的自由に引用したり参照できるのに対し、他方があくまで課金者に閲覧がかぎられるように統制されたり自粛が促されたりするのだとすれば、「勝手に読む」関係はどうなるだろうかという問いが浮かぶところでもある。そのとき観客はどのように定義されるだろうかという問いがあり、その試みは、オーバーツーリズムへの回答だとか思想としてのグローバリズムの終わりというような、ニ次創作における原著作者への回帰というような、プレイヤーが観客からゲームの主導権を取りもどす運動というように思われるところがある。あるいは本における文章と動画やツイートの発言・発信が同じステータスのもとで考えられるのかといった、つまり言質=種のあり方やその所在の問いが存在する)

ここには、なぜそれが「父」という表象性を頑ななものにするかという問題があるように思われるし、血縁関係をまぎらかす「イエ」でも、自己選択的な「姓」でもない…がゆえに厄介であるような関係性をめぐる問題が控えているようにも思われる。そして、これは第一に尋常ではない人間のもとに、さながらサラブレッドにおいて父になることは普通のことではまるでないというように、出来するというのである。




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