【日記】書かれたものはいずれ必要じゃなくなる運命にあるのではないか

 情報というものだけが、物質的軛から外れて永続するものである、という考えに僕は抵抗がある。情報が、仮に私達の目の前にあって生き生きとしているのであれば、まさにその生命性によって不滅ではなくなる道理である。だから、情報を永続させるとは、それが端から死滅しているということにもなるはずだ。
 新しい職場に入って、よくメモを取るようになった。今までは、他の人よりメモを軽視して、周りにいる人に聞きまくっていた。余りいい態度ではない。しかし、今の職場は現場に入ると一人だから、どれだけメモを詳細に取るのかが命に関わる。なので、見たことをほとんどそのまま書き付けるような調子でメモを取っていた。
 そのような調子で、約1ヶ月半が過ぎた。気がついたら、メモのほとんどは不要になった。既に記憶しているからだ。手で行う作業を、逐一言葉にすると膨大になるのだが、それは言葉で覚えるより手が覚える方が早く、要素数が少なく感じられ、記憶に強固に定着する。メモは、その意味で、振り返る暇はないし、冗長だし、その文字で覚えても仕方のないものに変化した。
 この感覚が、昔からどうにも苦手だった。気合いを入れて取ったメモが、たった数ヶ月で、全く不要になるのだ。一方で、腕が覚えるという感覚に酔うので、メモを取らずに身体で覚えた方がいいと思っていた。
 けれども、今は少し考えが違ってきた。そのメモの中で、一割でも忘れていたことがあったとすると、その価値を強く発揮する。忘れるまでは、どの部分を忘れるのかわからない。そして何より、後々身体に染み付いて、要らなくなるというところまで含めて、書かれたものの運命の流れなのではないかと、大げさだが思った。

 製本された本は、メモ書きとは違い、永続するもので、ひとたび書かれたらどこかにアーカイヴされ、そこで何度も何度も参照され、価値を発揮し続けるのだという、こう言ってよければ無邪気な発想が、どうも本を書くこと、出版すること、書き手として書かれたものを考えるときに纏いついているような気がする。その考えが、一度でも書かれれば、読み手さえいればその本は価値を発揮し続けるのだという、権威の固定化を招き、その権威みたいなものを夢見るようにして、書き手を志望する人は書いているようなところがある気がする。
 しかし、どれだけ永続しているかに見える本も、実際には物としての寿命は決まっている。褪色と紙の劣化、内容もそうだがそもそも言語が固定的なものではない、読みうる文字ではなくなるなんてこともある、こうしたさまざまな理由で、本は読めなくなる。それに抵抗するようにして、いや情報とはコンテナーさえしっかりしていれば運ばれるのだ、と何度も継ぎ接ぎをして維持されたような本もある。だが、それは最初に生み出された価値が今に至るまで継続しているというよりは、更新するその都度その都度、新たに価値を賦与しているといった方がいいのではないか。
 そうしなければ、何十年とすらいえない、数年で本は読めない、読む価値の特にないものに変化していく。嘆かわしい、もっと本に価値を、と言いたくなるかもしれないが、考え方を変えて、その場でしか価値を発揮しないメモ書きのようなものと捉えて、書かれたもの全体の運命は、時間の経過はそれぞれだが辿る道は同じであると割り切って、いつまでに読んで価値を使い果たして身体化させて不要にする、という意志を持って読むべきなのではないか、と思った。

 町田康の姿を、YouTubeで久しぶりに見た。思いのほか年を取っていて、なんだかショックだった。少し面白いことを言うおじさんのようになっていた。そんな町田康だが、その動画の中でこんなことを言っていた。
「読むことの価値、それは最初からあるものじゃない。自分の中の読みを鍛えて、その読みを読むんだ。
 今の人は忙しいから、本を読むようなゆっくりとした価値の作り方に付き合えない人がいる。あるサラリーマンに、僕の本読んで下さいって言ったら、『いや、本だけは勘弁して下さい。お金ならいくらでも払います。読めません』と言われたことがある」
 云々。町田康らしい面白いエピソードだ。読むことは、その都度新しい意味が賦与されると信じて読まなければいけない。読んだら、一度目を通して終わりではなく、身体化するまで読んで、その本は捨てていいようにしなければいけない。そこまで付き合えない本だったら、手に取らない。
 というのが、本来の本とか文章との付き合い方なのではないか。

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