【読書録】吉村萬壱『哲学の蝿』3

 最後までこの本を読んだ。色々感想はあるが、最後まで読めば、当初思っていたよりいい本だということがわかった。吉村萬壱は、もう80になるのか。あらゆる作家の中でも、努力によって、努力というより、ひたすら書くこと、しかも文章を周りに読ませるためというより、純粋に、手で書く、書くという行為、文章というより文字を書き続ける、紙面を埋める、ということに情熱を傾けることによって、ここまで来た作家なのだということがわかった。これは、僕にも覚えがある。程度は違うかもしれないし、今はそれほどではないが、自分も、ただひたすら文字を埋めていくということに、何か言い知れない価値を感じていた、今でもあるといえばある、それを肯定されたような気分になった。
 書くことと、哲学はあるにはあるが、それよりも、精神的異常性とか、異常から見た正常性の異常性、といったものに、かなりの紙面を割いている。結論から言うと、本人が言うように、吉村萬壱自身は、正常な人間なのかもしれない。正常というより、ふつう、という所は、中盤から後半にかけて、自叙伝ともいえるこの本の、自分の後半生に入るにしたがって、分裂病とか、神経症とかいったことにかかわる本を紹介しながら、ごくまっとうな意見を述べる部分があり、それはある意味で退屈でもあったが、その退屈性を通り過ぎなければ、作品は生まれえない、ということも思わされた。
 後半はほんとに、ブックレビューのようにもなっており、また読みたい本が増えた。セシュエーの『分裂病の少女の手記』、批判的に扱われているが、偽物だからこその魅力があるといえばそれは古典の偽書にも匹敵するかもしれない、偽物だから価値を失うなんてことは、少なくとも、文章の価値としては、そんなことはない、どこに価値を置くのかにもよるが。それから、ニーチェの諸作、ニーチェがなぜ、簡単に読みうるものでないか、作者がごく簡単に言っている、自我の肥大をもたらすと。
 哲学だといって身構える人には、行ってそうでもないよと言いたい。退屈な講義の類はここにはなく、実体験の中で掠める、哲学の感触のようなものしか、ここにはない。実に正しい触れ方だと思う。
 井筒俊彦も、『ロシア的人間』から読んでみようか。


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