【読書録】シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』3くらい
バラバラに触れて来たのでナンバリングがどの辺になるのかわからないので、だいたい三回目とする。
語気が強いんじゃ。ベルクソン涙目。
全てを、時間における点と線の関係、直接的な時間というものの考え難さに人生を費やしてきたと言ってもいい、ベルクソンの思想の、あるいはその先駆者たちの真っ向からの否定と見ていい。たぶん、どちらも正面からこの点において相手を反駁するために話そうとか、どちらが真実か言い争うなんてことは、しないだろうが、それでもどちらがどちらの主張を見ても、絶対に納得できない一線があると感じるだろう。キリスト教の「ナチスを許した」発言もそうだけれども、基本的な語調からは想像できないほど、相容れない考えに対する語調が強いんよ。
死へのイメージの作り方も印象的だった。
イスラム教のスーフィズムにおいては、私とは、究極的にはない。自我の消滅を目指して修行をしている。それとパラレルになっているのだろう、この死への恐怖の消滅も。私はないが、前代から当代、次代へと連綿と連なっていくこの神の観念、宗派、血、そういったものは厳然と存在する、私よりそういったものの方が、濃く存在する、と日々言い聞かせている。その先に、この死への恐怖の薄まりがあるのだろう、副作用といっても良いかもしれない。
ここで「働く」と言っているのは、おそらく、たとえば教団の生活に関わる事とか、対外的な講演とかそういったことを指しているのだろう、私たちが普段こなしている、世俗的な仕事だ、そういったものの中にも、来世に持ち込める何かがある、といったことを言っている。仕事や、趣味でも同じかもしれないが、何か一つのことをこなそうと思った時に、それと等倍の努力のイメージを持っていると、うまくいかないことがある。じっさいには、もっと必要なのである。いわゆる「死ぬ気で」やらなければ、こなせないことがあり、それは遠く響くように神学と関わっているのだろう、神がかった仕事をこなすことができる人が、神聖に見えるのは、そういうことなのかもしれない。
私は神を信じているわけではないから、神がいるからそうなる、と結論するわけではないが、ここに何かがあって、自分の身から遠く、消失点のように見えるものへ向かって、天才と呼ばれる人は努力を続けているのだと、世俗的に解釈しており、おそらくそんな風な理解だけ得てもいいのだろう、もともと神学のつまみ食いのような読書だ。
その消失点が、たとえニーチェが言うように、狡猾に組み込まれた仮構されたものだとしても、それが一部の人類を引っ張ってきたことは事実なのだから、大いに価値があるといえる。