【日記】読書記録プログラムの続き

 前回、その日毎に読んだ本のページ数をカウントして、目標管理するプログラムを作った話を書いたが、少し改変を加えて、日毎にどの本をどれだけ読んだか、レポートとして表示させることができた。
 これはなかなか面白い。うまくいけば、ブログに張り付けることもできる。

2024/01/01
合計: 10 ページ
純粋理性批判 上 : 10 ページ
2024/01/02
合計: 44 ページ
純粋理性批判 上 : 4 ページ
アンカット・ファンク 人種とフェミニズムをめぐる対話 : 28 ページ
純粋理性批判 中 : 12 ページ
2024/01/03
合計: 44 ページ
アンカット・ファンク 人種とフェミニズムをめぐる対話 : 44 ページ
2024/01/04
合計: 28 ページ
アンカット・ファンク 人種とフェミニズムをめぐる対話 : 28 ページ

 直近ではこんな感じ。カントの純粋理性批判と、ベル・フックスという、黒人の女性のフェミニズム運動家のような人の、スチュアート・ホールという人との対談集を、今読んでいる。前に触れた、廣瀬純の「新空位時代の政治哲学」の中で出てきたので、読むことにした。
 純粋理性批判は、理解に時間がかかって、遅々として進まない。一方で、「アンカット・ファンク」の方は、もともとが会話だから、内容の理解はともかくとして、読み進めるのにさほど苦労はしない。
 ベル・フックスは、黒人差別への反対と、女性蔑視への反対、この二つが別物ではないという主張をしている。別物ではないというのは、どちらかがあって、しかる後にもう一方も達成される、という具合には進まないということだ。同時に進めるしかない。というのは、黒人差別反対運動をしている人々の主体が男性にある、あるいは、その運動が家父長制を前提としているので、その中で女性という存在がないがしろにされているから、その状態ではその運動が上手くいくはずもない、というのだ。
 一方で、フェミニズムの運動の中心となっている人は、白人の、しかも上流階級のインテリなので、自分のような黒人の女性の権利はというと、やはりないがしろにされてしまう、この時点でもその中で排除が働いてしまうのなら、それは思うように機能しないだろう、ということでもある。
 差別に反対する言説において、逃げ道を許さない、というと言い方が厳しいかもしれないが、ある批判をする上で、「このくらいならいいだろう」と、つい口から出てしまう差別に関して、やはり許さない、というのは、考えてみれば当然のことのようにも思える。
 彼女は、このように否定形でのみ話しているわけではなく、肯定的、というのは何か積極的に言葉にし、行動をしている人であり、またもっと多様な、たとえば時代の違いとか、精神医学との関わりなども視野に入れている。そのあたりの感触は、さすがにたった何ページかの日記には収まらない。

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