【読書録】ベルクソン『物質と記憶』4

『物質と記憶』の終盤に差し掛かって、終盤というのは、「要約と結論」という章に入ったからなのだが、今までわからなかったことが、ここへきて全体的視点を得ることができる、あるいは、そこまでいかなくとも、今まで読んできて全く分からなかった点を、何かしら読み換えるヒントのようなものがある、ということに期待をしていたのだが、それは完全に裏切られた。この「要約と結論」においてまとめられていることは、今まで辿ってきた理解しにくさが、理解しにくいものとして凝縮されていたのだった。失望したわけではないが、まさかそこまで理解できない本を読んでいたとは思わなかった。
 本質的に、理解されない、理解を前提としていないものというのは、掩蔽されているだけで、世の中にごろごろ転がっている。デビッド・リンチの映画などに、最終的な現実がどこにあるのか、とか、これは何だったのか、などと問うても意味がない。しかし、普通、人が一つの本を著し、何百ページにも及ぶ文章を努力して書き、重要なのは、それを読んだはずの人が無数にいる筈であろうような本が、ここまで理解を拒んでいるということが、あるものなのか、という点は、やはり、今まで味わったことのない経験だった。
 そう、今回のことで、全く意味が分からなくても読み進めるということができる勇気みたいなものをもらった。
 あと、事前に持っている、理解しやすさみたいなもののイメージも、捨てるべきだろう。
 唯一理解できたことは、ことごとくが、否定形でしかない、まるで宗教の原典だ。脳はイマージュの貯蔵庫ではない、つまり、記憶は脳に存在しない。ここからして、やはり、読んだ最初に思ったことだが、前提を共有できないのだ。共有できないだけではなく、仮にそう前提して、という、そこからの推論もまた、どうしたって頭に定着しないのである、前提が間違っているという気持ちが邪魔をする。でも、この自分の読みが非力であるとか、そういったことに集約しもしないであろうという気もある。ネットで見た読後の感想を読んでみたら、やはり理解に苦しんでいた。
 肝心なのは、この理解しにくさは何なのか、どこから出て来たのか、そして、その中で、わかることは何なのかということ、これらのことだ。
 わかる点、先ほどの、ベルクソンがいう否定形の事実、知覚と空間と時間と意識、これらは、点のように固定して理解することはできない。ベルクソンの、本当にお家芸と呼びたい、中心的な概念、ものすごく便利な概念として、持続と延長という考えがある。曰く、ある運動があるとして、その運動を、軌跡とスピードで、数学的に記述する方法があるが、それは既にして死んだ運動であり、もともとあった運動と、けっして一致しない。意識は、点のようにどこかにあるのではない。知覚は、空間と結びついており、空間の側にも広がっているのだから、内的な一つの状態ではない。時間は、その中にある点を思い描いて、直線的に動いているのではない。持続は、時間の表象である数直線のように幾何学的記述をすることができない。そこには、持続と延長があるからだ。全てのものには持続があるので、分割すること、記述することは不可能である。
 と、ベルクソンは言っている。どこかを引用して切り取ったのではない、一生懸命自分なりに理解し、解釈したこの本の一部のイメージを自分なりに語っているのだ。だが、だったらどうすればいいというのだ。全ては語り得ない、と一生懸命説明して、じゃあ語れないじゃないか、おわり、とならんか。
 ここまでソラで書けるくらい読み込んだのに、尚理解できないなんて、やっぱりかつてない体験であり、ただ事ではない。

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