新世紀探偵(4:キタロー・ユカワ邸を後にして)
キタロー・ユカワ邸を後にして、門の前まで歩いて戻ってきたとき、ミネコ・サカイはまだ運転席で紙の本を読んでいた。あたりはちょうどマジック・アワーと言ってもいいような時刻になっていて、私が赤いBMWの助手席のドアを開けると、ミネコ・サカイはようやく書物から視線を上げた。
「依頼の概要は何となく理解できた?」とミネコ・サカイは再び車のエンジンをかけつつ言った。BMWが巨大な獣のようにぶるぶると振動し、排気音を立て始める。
「正直に言って、半分も理解できたとは言えない」と私はシートベルトを締めながら正直に答えた。「でも、依頼はちゃんと承諾した。ざっとではあるけれど君の素性も聞いた」
「それはよかった。これで私と探偵さんは名実ともに相棒というわけね。素敵な二人組になれることを期待するわ」
「それはどうだろうね。私は基本的に誰かと仕事をするのが得意ではないから、素敵な二人組になれるかどうかは運に任せるしかない。ところで私を待っている間、ずっと何を読んでいたんだ?」
「『日本語は絶滅しました』」とミネコ・サカイは私に色あせた書物のカバーを見せながら答えた。「昔の恋愛小説だそうよ。この間、古本屋で偶然見つけたの」
「へえ」と私はカバーに書かれた作者の名前を見ながら言った。「全然聞いたことのないタイトルだけど。おもしろいか?」
「まあ、決して悪くはないわね。あくまで物語の基本構造としては古典的な悲恋ものなんだけど、登場人物がみんな少しずつ病理をかかえている変わった人たちなの。全体的にはちょっと奇妙なラブ・ストーリーってところかしら」とミネコ・サカイは車のグローブボックスに書物をしまいこみながら言った。「ところで探偵さん、お腹は空いている?」
「そういえば今日は朝からまともな食事をしてなかった」と私は思い出したように答えた。「馬鹿みたいな二人組に襲われたり、謎の別嬪さんに車で拾われたり、オッペンハイマーの箱だの何だの意味のわからない話を聞かされたりして忙しかったから」
「オッケー」とミネコ・サカイはBMWのカーラジオをオンにし、チャンネルのつまみをくるくると回しながら言った。シティ・ポップが流れているチャンネルになったところでつまみを離すと、ミネコ・サカイは助手席の私の顔を見て何とも意図を分析しがたい微笑みを浮かべた。山下達郎が『スパークル』を歌う伸びやかな声があたりに響きわたって、きらきらとしたギター・フレーズのリフレインが耳元を通り過ぎていった。
「中華料理とインド料理とエスニック、探偵さんはどれの気分?」
*
「聊斎志異」という六本木にある中華料理屋の回転テーブルに、餃子とエビチリと麻婆豆腐と春雨サラダと炒飯とラーメン(!)がそれぞれ大皿に盛り付けられて提供されたとき、私は思わず目を疑ってしまった。ミネコ・サカイの行きつけだというその中華料理屋は、あらゆるメニューが超大盛りで提供されるようだった。恐らく私一人では3分の1も食べられないだろう。そのとき、私はミネコ・サカイがフード・ファイター並みのとてつもない食欲を持っているということを初めて知ったのだった。
ミネコ・サカイは料理が運ばれてきた瞬間、感無量といったような表情で目を輝かせ、口元を両手で押さえた。それから、いかにも幸せそうに自分の分を取り分け始め、そのままこの店のコマーシャルに使えるくらい、美味しそうに食事をした。私もミネコ・サカイの底知れない食欲に圧倒されながら、餃子とエビチリをいくつか食べ、麻婆豆腐と春雨サラダを何口か食べ、炒飯とラーメンを息を吹きかけて冷ましながら食べた。確かにミネコ・サカイがわざわざ推薦しただけあって、いままで食べた中華料理の中でも一、二を争うほどの美味だった。
「そういえば」と私はナプキンで口元を拭きながら言った。「スペシャル・エージェントの君にこんなことを聞くのも野暮だろうが、ユカワ教授はこの依頼について『もはや一刻の猶予も許さない』と言っていた。こんなところでのんびり食事していても大丈夫なんだろうか?」
「大丈夫よ」とミネコ・サカイは食べ物を飲み込んでから言った。「慌てる乞食はもらいが少ないって言うでしょう。まともにプランも練らないうちから動いてもしっかりとした仕事はできないわ」
「まあ、その意見にも一理ある」
「一応、私もプロフェッショナルですから、プランの大枠はすでに構想してます。今日はとりあえず二人で詳細を詰めて、さらに今後の行動方針を検討していきましょう。実際につぐちゃんの捜索を開始するのは明日からよ」
「わかった」と私は言った。「君がそう言うのならそうしよう。何しろ君は元S級探偵だそうだし、会社組織というシステムで言えば上司にもあたる人間だ。C級探偵の私にもC級探偵なりの意見がないではないが、基本的には君の意向を優先しよう。その方が私にとってもいい気がする」
「ありがとう」とミネコ・サカイはピッチャーからコップに烏龍茶を注ぎながら言った。「そう言っていただけると、こちらとしても仕事がしやすいわ」
「どういたしまして。それに私としても、君のような美しい人にこき使われるのであれば、決して嫌な気分はしない」
「あら、そういう口説き方ってあなたの常套手段なの?」
「でもない」と私は言った。
*
「聊斎志異」を後にした私たちはひとまずミネコ・サカイの住んでいる南青山のマンションへ向かった。私は殺し屋のターゲットにされている以上、のこのこと宇田川町のマンションまで帰っていくわけにもいかなかったので、最初は適当なビジネスホテルにでも泊まろうとしたのだが、「ビジネスホテルなんかより私のマンションの方がよっぽどセキュリティがしっかりしているわよ」とミネコ・サカイが言うので、ありがたくお言葉に甘えさせてもらうことにしたのだった。
大貫妙子の『都会』がカーラジオから流れる中、赤いBMWは聳え立つ高級マンションの駐車場に吸い込まれていった。そして、車を駐車してエントランスまで歩いた私たちは、ちょうど降りてきていたエレベーターに乗り込んで15階のボタンを押した。上昇していくエレベーターの中で、私はポケットに両手をつっこみ、ミネコ・サカイは腕組みをして、お互いにこれからのことを考えていたようだった。
ヒデオ・オカ教授の隠し子でありキタロー・ユカワ教授の養子でもある「つぐ」、その深層意識の中に隠されているかもしれない「オッペンハイマーの箱」、そしてつぐ誘拐の犯人と目されている「第二のミスター」、元S級探偵にして現スペシャル・エージェント及びエグゼクティブ・アドバイザーのミネコ・サカイ、それから私を襲ったコバヤシとカタギリとかいう間抜けな殺し屋の二人組。この依頼にはさまざまな要素が輻輳しているみたいだ。「ゆえにこの依頼はもはや一刻の猶予も許さないのです」とキタロー・ユカワ教授は言った。確かに一刻の猶予も許さない状況なのかもしれない。しかし、ミネコ・サカイが言ったように急いては事を仕損じるということもある。『老人と海』ではないけれど、死にものぐるいで巨大な魚を捕まえたと思ったら、帰ってくるころにはほとんど骨だけになっていたということにもなりかねない。ひとまず今夜は相棒どうしで今後のプランをブラッシュアップして、明日から仕事に取りかかるのがベストだろう。15階でベルが鳴って、エレベーターが停止する。そして銀色の扉が開いたとき、通路に黒いスーツの二人組がいるのを発見する。ノッポとチビの凸凹コンビ。
コバヤシとカタギリ、と私は思う。何やら二人してミネコ・サカイの部屋の前にかがみこんで、ドアに付いているデジタル錠前をこじ開けようとしているみたいに見えた。エレベーターの私 - ミネコ・サカイと通路のコバヤシ - カタギリの間にはかなりの距離があったものの、エレベーターが到着したベルの音で、コバヤシとカタギリは私とミネコ・サカイの姿に気がついたようだった。コバヤシとカタギリはお互いに一瞬顔を見合わせてから、すぐに立ち上がってこちらに向かって走り始めた。私はミネコ・サカイのために「開」ボタンを押していた人差し指をすぐさま「閉」ボタンにスライドさせ、一刻も早く扉を閉めるべくボタンを連打した。「待て!」「待て待て!」という声が響きわたる中、エレベーターの扉は再びゆるやかに閉まり始め、至近距離まで近づいてきたコバヤシとカタギリの伸ばした指先が危うくエレベーターの扉に触れようかというところで完全に閉まった。ひと呼吸置いてから、私は1階行きのボタンを押した。ミネコ・サカイは黒いレザージャケットの内側から拳銃を取り出しながら「いまのがあなたの言っていた殺し屋?」と聞いた。「ビジュアルがあまりにも殺し屋的すぎて、とても殺し屋には見えないだろう?」と私も拳銃を取り出しながら聞き返した。私とミネコ・サカイは同時に拳銃のロックを外して、エレベーターの扉に向かって構えた。それから、エレベーターが1階で停止し、再びエントランスに降りてきた私たちは、不審な人物がいないことを確認してから、BMWを停めたばかりの駐車場へと一気に走った。マンションの駐車場を走り抜けている間、なおも私はあたりに注意払っていたが、どうやらコバヤシとカタギリのほかには誰もいないようだった。真っ赤なBMWのもとまで戻ってきた私とミネコ・サカイは、それぞれ運転席と助手席に飛び乗るように乗り込んだ。
「ねえ、いまからどこへ行くべき?」とミネコ・サカイがすかさずエンジンをかけながら尋ねてくる。
「ホテル街」と私は助手席でシートベルトを締めながら即答する。
「名案」とミネコ・サカイは指を鳴らした。「木を隠すなら森の中ね」
「C級探偵にしておくには惜しい頭脳だろう」と私は助手席からもう一度車体の周りを確認しながら自画自賛した。「オーケー、馬鹿どもが来る前にさっさと行こう」
ミネコ・サカイの真っ赤なBMWは唸りを上げながら急発進し、再び駐車場から夜の街へと繰り出していった。
*
「日本は日本ではじまり 日本で終わる この物語をほかにはだれも知らない ……銀河の中の日本という塵」と『東京日記』の中でリチャード・ブローティガンは書いている。もうすぐ日付が更新されようかという週末の夜のトキオ・シティは、ブローティガンが滞在した昭和時代の東京とは大きく変わってしまっていることだろう。しかし、もちろん変わらない部分もたくさんある。相変わらず都市の高層では大量のきらびやかなネオンサインが明滅し、その下層を底知れない欲望に取りつかれた群衆が闊歩している。ビルに貼り付けられた巨大モニターの中では、マンガ/アニメ調のキャラクターたちが大企業の商品(化粧品、育毛剤、健康サプリ、運動器具、学習塾、マッチングアプリ、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……)をさかんにアピールしているか、見たくもない脂ぎった政治家の顔がクローズ・アップになって「日本をもっと笑顔に! もっと元気に! もっと幸せに!」などとと胡散臭い笑顔で美辞麗句を並べ立てる与党のコマーシャルが流れているかのどちらかだった。ミネコ・サカイの赤いBMWは唸りを上げながら、そのような夜のトキオ・シティをさっそうと駆け抜けていた。私はサイドミラーを確認して、コバヤシとカタギリの車が追いついていないかを定期的に確認していたが、いまのところ二人の姿は視認できていない。だが、しばらく拳銃は構えたままにしておくことにした。キタロー・ユカワ教授が言ったように、コバヤシとカタギリはあくまでも「有象無象」の一部なのかもしれないからだ。岡本喜八の『殺人狂時代』みたいに、これから色々な趣向を凝らした殺し屋たちが私たちを襲撃しに来るのかもしれない。実に胸躍る話だ。
「あのコメディアンたち、意外とやるわよ」とミネコ・サカイはハンドルを握りながら言った。「私のマンションっていわゆる要人クラスも多数住んでいる物件だから、セキュリティに関してはわりと厳重だったはずなんだけど、少なくともそれくらいの防壁は突破する技術を持っていたようね。あなどりすぎていたわ」
「あるいはあいつらをバックアップしている誰かがいるか」と私は言った。「恐らくそっちの線の方が濃厚だろうと思う」
「いずれにしても、もうあなただけじゃなくて、この私もマーキング済みってことがよくわかったわ。これからはもっと注意して行動しないと」
そのとき、サイドミラーの中に青いフォルクスワーゲン・ビートルが姿を現した。ビートルの運転席にはカタギリの姿があり、助手席の側のウィンドウからはコバヤシが身体を乗り出して、こちらに向けて拳銃を構えている。私はすかさず助手席のウィンドウを下ろし、こちらも身体を乗り出して、後方のビートルに銃口を向けた。そして、唸りを上げて走り続ける車の中から一瞬で狙いをつけると、ためらわずに引き金を引いた。
後方で走っていたビートルのサイドミラーが割れ、コバヤシが慌てて顔をひっこめる。私はそのままもう一度狙いをさだめると、続けて拳銃をぶっぱなした。また頭を出そうとしていたコバヤシは再度頭をひっこめて、ぎりぎりのところで銃弾をかわした。私は助手席に座り直して、ミネコ・サカイに「振り切れるか?」と叫んだ。
「いま、やってるわよ!」とミネコ・サカイは素早くギアをシフトチェンジしながら叫び返すと、さらにBMWをぶっ飛ばした。スマートに車線変更を繰り返しながら、前方をのろのろと走っている車を次々に追い越していく。後ろから追いかけてくるコバヤシ - カタギリのビートルも必死でくらいついてくる。私はもう一度助手席から身を乗り出し、拳銃を構えて後方のビートルのタイヤに照準を合わせた。BMWが轟かせる排気音とタイヤが路面にこすれる走行音が持続する中、私はもう一発お見舞いしてやった。
拳銃からいきおいよく発射された銃弾は、空中をまっすぐつきぬけていってタイヤに着弾し、ビートルの車体を一気に傾斜させた。カタギリは慌てふためいてブレーキを強く踏み、つんのめりながら停車したビートルの助手席からコバヤシが拳銃を構えて飛び出してきた。しかし、そのときにはもう我々の赤いBMWははるかかなたへと走っていった後だった。「こんちくしょう、覚えてろよ!」とコバヤシは叫んだ。「こんちくしょう、覚えてろよ!」とカタギリもクラクションを鳴らしながら復唱した。
「しつこい殺し屋どもだ」と私は助手席に座り直して、前方の街並みを見ながら言った。そして、西部劇のガンマンのように銃口に息を吹きかけ、予想外のうちに再び活劇を演じることになった拳銃をポケットにしまいこんだ。
「コバヤシとカタギリ」とミネコ・サカイはギアを落として車の速度をゆるめながら、殺し屋たちの名前を唇にのぼらせた。「いま『新世紀探偵』のデータベースで個人情報を照会してみた。新顔の殺し屋みたいで、あんまり情報らしい情報はなかったけど、どうやらチンピラ上がりの二人組みたい。『昇龍会』って反社組織の下っ端だったのが、麻薬の売買でドジを踏んで逮捕されて(そしてもちろん『昇龍会』を破門にもなり)、刑務所を出所したのちに殺し屋稼業へ転職って経緯らしいわ。直近で一件、うちのC級探偵ともトラブルを起こしている」
「へえ」と私は言った。「ちなみにどんなトラブルだった?」
「そのC級探偵はクライアントから配偶者の浮気調査を依頼されていたんだけど、ミイラ取りがミイラになる的に、いつの間にかその探偵とクライアントの配偶者がいい仲になってしまったみたい。それに気がついた大元のクライアントが差し向けてきたのがあの二人組だったってわけ」
「なるほど」
「コバヤシとカタギリはうちの探偵をオフィスに拉致して、ひと通りの脅迫をした。リンチが始まる前にうちの探偵が平謝りしたものだから、それ以上ひどいことにはならなかったみたい。探偵は報酬としてもらう予定だった金額と同じだけの慰謝料をクライアントに支払って、何とか事なきを得た」
「身から出た錆とは言え、同じC級探偵として同情せざるをえない話だ」と私は率直な感想をもらした。「私にも似たような経験がある」
「というと?」
「ひとときのアバンチュール、禁断の恋、邂逅するべきではなかった二人、激動の時代に翻弄され、運命のいたずらに引き裂かれる……」
「経験豊富な探偵さん」とミネコ・サカイは言った。「これからも頼りにしているわよ」
「こちらこそ頼りにさせてもらうよ、ミス・サカイ」と私も言った。
*
「いとなみ」というラブホテルに宿泊することにした私たちは、提携駐車場に赤いBMWを駐車した。ビジネスホテルなんかよりラブホテルの方がよっぽど追跡されにくいし、ホテルのスタッフやほかの宿泊客に顔を見られるリスクも低い。それに鶯谷という場所柄、あたりは私たちのような二人組みでいっぱいだった。ミネコ・サカイが言ったように、まさしく「木を隠すなら森の中」だ。
私たちはフロントのパネルで空いてる部屋を適当に選ぶと、マシンから吐き出されたカードキーを受け取ってエレベーターに乗った。2階に到着したエレベーターを降りて、「208」というランプが点滅している部屋のドアを開けた。そして、後ろで閉まったドアにオートロックが施錠された瞬間、ようやく私たちは落ち着くことができたのだった。
「いとなみ」はよく言えばごくありきたりの、悪く言えばうらぶれたラブホテルだった。フロントのパネルにも書いてあったのだが、どうやら208号室には「美術館」というコンセプトがあるらしく、壁にはラファエロやダ・ヴィンチやミケランジェロなどのルネサンス絵画と、アンディ・ウォーホルやらジャン=ミシェル・バスキアやらキース・ヘリングやらのポップ・アートの複製が対になるように何点か飾られていた。なぜラブホテルの一室に対してわざわざ「美術館」などというコンセプトを設定しなければならないのか、そのあたりは私にはよくわからながったが(もっと言えばルネサンス絵画とポップ・アートを並置して額装する趣味嗜好もよくわからなかった)、恐らく経営者のちょっとしたユーモアなのだろうと考えることにした。あるいはラブホテルという場所の通俗性をより強調するための趣向なのかもしれない。部屋のそのほかの部分についてはこれといった特徴はなく、ダブルサイズのベッドが一つ、チープなテーブルとソファがひと組、湯沸かしポットや電子レンジやミニ冷蔵庫などの簡易的な電化製品が記号的な存在として設置されているだけだった。コンドームが二個、ベッドサイドでさり気なく存在感をアピールしていた。
「先にシャワーを使わせてもらってもいい?」とミネコ・サカイが聞くので、「もちろん」と私はベッドに寝ころがったまま答えた。そして、ベッドサイドにくっついていたつまみを回して、とりあえず何かしら音楽でもかけることにした。クラシック、ジャズ、ロック、テクノ、ヒップホップとさまざまなジャンルの有線放送を聴くことができるみたいだったが、最終的に私はアンビエントの専門チャンネルにつまみを合わせた。今日という一日は本当に色々なことがあった。眠る前にアンビエントくらい聴いても罰は当たらないだろう。天井のスピーカーから降り注ぐゆるやかな環境音楽は私の疲れきった精神と身体をゆっくりとときほぐしてくれるようだった。私はそのまま目をつぶった。
「Now we are all sons of bitches(これで俺たちはみんなクソ野郎だ)」という声がして、私は再び目を開いた。それから、奇妙な音声が聞こえてきた方向を確認するためにベッドから起き上がった。
ピンク色の豚が部屋の真ん中あたりに出現していた。しかし、その豚は何だかものすごく奇妙だった。部屋のサイズに対していまいち縮尺が合っていなかったし、巧妙に実写映像に合成されたコンピュータ・グラフィックスみたいに見えた。それにいくらピンク色の豚とは言ってもあまりにピンクすぎるような気もした。豚はもう一度「Now we are all sons of bitches(これで俺たちはみんなクソ野郎だ)」と言った。豚はその小さな目であたりを睥睨していたが、ベッドの中の私には特に興味を持たなかった。小ぶりな鼻をひくひくとさせながら、どこかに餌がないか探しているようだった。
「Mr. President, I have blood on my hands(大統領、私の手は血で汚れています)」と豚はまた違うことを言った。「Mr. President, I have blood on my hands(大統領、私の手は血で汚れています)」
「換喩(シネクドキ)」と私は寝ぼけまなこで言った。
「陽気なエノーラ」と豚は答えた。「エノーラ・ゲイ・ティベッツ」
ピンクの豚のかたわらには、いつの間にか一人の子どもが現れていた。制帽のような黒い帽子、さらさらとした亜麻色の髪の毛、眠たげな表情を浮かべた顔。コットン地の白いブラウスにサスペンダーの付いた黒いスカート、レースで縁取られた白いソックスに革製の黒いバレエ・シューズ。ピンクの豚と同じように、子どもの存在もまた奇妙な非現実感をまとっていた。
つぐ、と私は思う。
「陽気なエノーラ」と繰り返すピンクの豚をなだめるように、つぐは産毛の生えたその背中をなでていた。「ポール・ティベッツ」
「つぐ、君はいまどこにいるんだ?」
「オッペンハイマーの箱、3504771131974883513907933530872901、Not Found」とつぐは豚をあやしながら答える。
「オッペンハイマーの箱?」と私は繰り返した。「つまり、君はいまどこにいるんだ?」
「ロスアラモス」と豚が興奮したように言った。「ヒロシマ、ナガサキ」
天井のスピーカーからは奇妙に歪んだシャンソンのような音楽が流れていた。傷だらけになったレコードを壊れたプレーヤーで再生しているみたいなひどい音だった。私はいますぐベッドから抜け出して、つぐのもとへ行こうとしたが、なぜだか身体が言うことを聞かなかった。なぜならここは夢の中だからだ、と私はようやく気がつく。天井のスピーカーから流れるシャンソンの音はどんどん高まっていった。
「E=mc²」とピンクの豚が叫ぶように言う。「しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」
「わかった」と私は頷く。「必ず君を迎えに行く」
ピンクの豚とつぐはそのままフェードアウトするようにゆっくりと輪郭が薄くなっていき、だんだんとその姿を消滅させていくようだった。
「必ず君を迎えに行く!」と私は消滅していくつぐに向かって繰り返した。
ピンクの豚とともに消えてしまう直前、つぐはわずかに微笑みを浮かべて私に片手をひらひらと振ったようだった。私はその瞬間、ものすごい眠気に襲われて、もうこれ以上目を開けていられなくなった。ピンクの豚とつぐが完全に消えた直後、私は気絶するように眠りに落ちていった。
*
青みがかった暗闇の中で目覚めたとき、私はいまいる場所が現実の論理で動いているのか非現実の論理で動いているのか、いまいちよくわからない感覚に陥っていた。時刻を確かめると、まだ明け方と言うべき時間のようだった。隣ではミネコ・サカイが眠っており、何やらあいまいな寝言を言っていた。私はベッドから起き上がって、バスルームへ行った。ひと通りシャワーを浴びて、そなえ付けのシャンプーで頭を洗い、ボディソープで身体を洗った。それから洗面所に出て、鏡の中の自分を確認しながらドライヤーのスイッチをオンにした。そこまでやって初めて自分は現実にいるのだという実感を持つことができた。
つい先ほどまで見ていた夢の中で、私はつぐと邂逅した。「君はいまどこにいるんだ?」という質問につぐは謎めいた答えを返してきた。オッペンハイマーの箱、数字の羅列、ノット・ファウンド。私には何のことだかさっぱりわからなかった。もちろん夢の中での出来事に論理性をもとめるのは筋違いというものだろう。しかし、私には先ほどの夢がただの夢であるとはどうしても信じられなかった。もちろんただの気のせいかもしれないが、探偵業においては気のせいというものがのちのち重要なきっかけになったりもするのだ。
「必ず君を迎えに行く」と私は鏡の中の自分に言った。
(5へ続く)
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