見出し画像

新世紀探偵(3:ミネルヴァのふくろうを象ったノッカーを鳴らすと)

 ミネルヴァのふくろうを象ったノッカーを鳴らすと、すぐに教授邸の扉が開いた。執事のような格好をした美しい青年がうやうやしく頭を下げて、私を出迎えてくれる。モダンな外観に負けずおとらず、内装も近未来的なまでに清潔だった。白を基調とした中に赤と青の家具が効果的に配置されていて、それ以外の色は神経質なまでに排除されている。どうやら教授はトリコロールにいたくこだわりがある人物らしい。ジャック・タチの映画にでも出てきそうな建物だ、と私は思った。

 執事に連れられるがまま、私は非現実的なデザインのエントランスを通り抜け、応接室らしきホワイトの空間に通される。執事は黒い革張りのソファを無言で指し示して「おかけになってお待ちください」と言ったようだった(言ったようだったというのは実際には何も喋っていなかったからだ)。私は執事に言われるがままにソファに腰かけた。ガラス製のテーブルが目の前にあり、その上にはメモ用紙の束と簡易的なペン立てが置かれていた。しかし、テーブルを挟んでもう一つソファが置かれているはずの場所には何もなかった。執事は私がソファに座ったのを確認すると、「ただいま主を呼んでまいります」と言うかのように(またしても何も音声を発してはいない)微笑みを浮かべつつ会釈して、応接室を出て行った。私はそのまま待機しているほかなかった。仕方なく私は部屋を見回して時間を潰すことにした。

 教授邸の応接室の壁には額装された絵が何枚か飾られていた。カリカチュアライズされた落書きのような人物の肖像。恐らくエドワード・リア『ナンセンスの絵本』の挿絵のうちの何点かだろう。イラストの横にはリアの五行詩が刻まれたプレートまで飾られていた。どうしてわざわざ応接室にエドワード・リアを飾らなければいけないのか、私にはよくわからなかった。もしかしたら、教授なる人物のユーモアが極端に歪んでいるというだけかもしれない。あるいは来客を揶揄するためにわざわざ飾っているのかもしれない。しかし、不思議とエドワード・リアの作品は近未来的な内装の雰囲気に馴染んでいるようにも感じられた。中でも私がもっとも引きつけられたのは、海辺らしき場所でペンを握っている女性のイラストだった。「There was a Young Person history, Was always considered  a mystery; She sate in a ditch, Although no one knew which, And composed a small treatise on history(どこかの名家のご令嬢 謎めいたるはその素性 ちょんと座したる深い溝 いったい何の嗜みぞ ものする論文歴史が俎上)」という五行詩が刻まれた銀のプレートが注釈みたいにくっついている。

 ソファとテーブルの横のもっとも目立つ場所には、艶のある黒いレコード・プレーヤーが鎮座ましましており、すぐそばのラックに数枚のレコードが並んでいるのが見えた。失礼だとは思いながらも、私はどんなアルバムが並んでいるのかが気になったので、ソファから立ち上がってラックを覗いてみることにした。グレン・グールド『ゴールドベルク変奏曲』、パブロ・カザルス『無伴奏チェロ組曲』、ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビー』、セロニアス・モンク『アローン・イン・サンフランシスコ』、フランク・シナトラのベスト、美空ひばりのカバー・アルバムなど、どちらかと言えば無難な盤ばかりがセレクトされているようだった。アヴァンギャルドと言ってもいい屋敷の建築に比べると、教授本人の音楽の趣味はコンサバティブな方らしい。

「どうもお待たせいたしました」

 しゃがれた声に振り向くと、応接室の扉の近くに車椅子に腰かけた老人がいた。いまどき珍しい片眼鏡をかけ、頭の両側にわずかに灰色の髪を残しているその老人こそ、恐らく教授と呼ばれている人物なのだろう。仕立てのいいスリーピースのスーツを着て、謎めいた柄のネクタイを締めている。先ほど私を案内してくれた執事の姿はなかったので、どうやら教授はここまで一人でやって来たようだった。恐らく屋敷全体が足の不自由な主のために、バリアフリーの構造になっているに違いない。

「おかけください」と教授はガラステーブルの向こうに車椅子を移動させながら向かいのソファを指し示した。

 ラックから離れた私はもう一度ソファに腰を下ろした。教授は咳払いをして、私の顔を興味深そうに眺めた。私も教授の顔を眺めた。(片眼鏡と髪型のせいかもしれないが)教授はどことなく欧州の哲学者みたいな雰囲気があった。額には何重もの皺が寄っていて、眉毛には白髪が混じっており、年齢の割には眼光が鋭かった。顔の中央を占めるわし鼻と先端にかけて尖っている両耳のせいか、深い森に暮らしている年老いた妖精みたいに見えないこともなかった。我々はしばらくお互いの顔つきを点検し合っていたが、やがて教授の方が含み笑いをもらした。

「あなたはいい顔をなさっている」と教授は口を開いた。

「いい顔?」

「そうです」と教授は頷いた。「あるいは信用に値する顔つきと申し上げた方がよろしいでしょうか」

「もし本当にそうだとしたら、なぜいまだに私はC級探偵のままなのでしょう?」

「むしろあなたはあなた自身の意向によって、C級探偵であることを甘受していらっしゃるようにお見受けしますが」

「というと?」

「ありていに言えば、C級探偵であるという状況にくつろいでいらっしゃるように見えるということです」

「それはいわゆる処世術というやつです」と私は言った。「長い人生、何もかもが思った通りにいくわけじゃない。ガンジス川の上流をめざしてあくせくと泳ぐよりも、下流でゆっくり浮かんでいる方がいいこともある」

「禅僧のようなことをおっしゃいますな」

 どうやら教授はひとまず私のことを信用したようだった。別に探偵業に限ったことではないが、人と人の関係はまず第一印象が重要だ。その点において言えば、私は第一関門を難なくクリアーしたようだった。わざわざ断るまでもないだろうが、私は誰にでも好かれるというタイプの人間ではない。どちらかと言えば、自分のことを「善良な市民」だと自認しているような人々からは嫌われることの方が多い。何故なのかはいまいちよくわかっていないのだが、どうも私は善良な市民のみなさんの善良な魂を刺激してしまう何かを持ち合わせているらしい。

 そこで応接室の扉がノックされ、先ほどの若い執事が再び姿を現した。執事が持ってきた銀のトレーの上から、ソーサーとコーヒー・カップが二組、ガラステーブルの上に給仕され、「ミルクと砂糖はいかがなさいますか?」とサイレントで質問された。コーヒーに関しては私はハード・コアと言ってもいいほどのブラック原理主義者なので「ミルクも砂糖も結構です。どうもありがとう」と断った。執事は短く頷いて、銀のトレーを脇にかかえると、帝国ホテルのスタッフもかくやという深い礼をして、応接室から出て行った。

「さて、そろそろ用件を申し上げましょう」と教授はコーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を注ぎながら言った。いささかこちらがびっくりしてしまうくらいの量を注いでいたので、私はすっかり恐れ慄いてしまった。教授の側のカップの中身はほとんどコーヒー牛乳みたいになっている。「用件?」と私は聞き返した。

「もちろんティータイムを楽しむためにこちらまで来ていただいたわけではありませんから」と教授はあたかも冗談のような口ぶりでそう言ったが、顔つきは真剣そのものになっていた。「今回は依頼したいご用件があって、わざわざ成城くんだりまでお越しいただいたのです」

「その用件というのはいったい何なのでしょう?」と私はまだ熱いコーヒーをすすりながら質問した。

「孫娘のつぐを捜索していただきたいのです」

 教授はそう言って、ジャケットの内側から一枚の写真を取り出した。ガラステーブルの上に置かれたその写真には、まだ年端もいかない子どもの姿が写っていた。フィルムカメラで撮られた写真のようで、全体的に画質は粗い。つぐは制帽のように見える黒い帽子を亜麻色の髪の上から被り、眠たげな表情を浮かべていた。コットン地らしい白いブラウスにサスペンダーの付いた黒いスカート、レースで縁取られた白いソックスに革製の黒いバレエ・シューズのようなものを履いている。撮影されたのは戸外であるようで、被写体のつぐの後ろには一面のひまわり畑が広がっている。

「つぐ」と私は教授の孫の名前を繰り返した。

「今日の明け方ごろから行方がわからなくなっています」と教授はつぐの写真を見ながら言った。「昨日の夜は確かに寝室で眠っていたことを確認しています。眠る前に私も会話を交わしましたし、マイクロチップの位置情報でも照合が取れました。しかし、今朝になって、つぐは突然姿を消していたのです。朝食に来るのがあまりに遅いので、うちの者がつぐの寝室まで様子を見に行ったのですが、ベッドの中はもぬけの殻でした。部屋が荒らされた形跡はありませんでしたし、玄関口や庭に設置されている防犯カメラにも異変はありませんでした。しかし、逆を言うと異変がなさすぎたのです」

「異変がなさすぎた?」

「つぐがここを出て行った姿が記録されていないのです。昨日の夜から今朝にかけてのビデオを一秒ももらさず全てチェックしましたが、人間はおろか犬猫一匹出入りしていませんでした。つぐのマイクロチップの位置情報履歴も今朝までで途絶えてしまっています。つまり考えられることは一つです。何者かがつぐを誘拐し、つぐのマイクロチップとここの防犯カメラをクラッキングし、全ての痕跡を削除したのです。ただ、この何者かはかなりの技術を持った人間のようで、うちの者が確認しても防犯カメラのデータが操作された履歴は見つけられませんでした。しかし、上田秋成の怪談でもあるまいし、一人の人間が幽霊のように消えてしまうということは考えられません。つぐは間違いなく誘拐されたのです」

「それでは、あなたのおっしゃる通り、つぐさんの失踪が誘拐事件であると仮定して、犯人に何かこころ当たりはあるんでしょうか?」

「ミスター」と教授の口からその名前が出た瞬間、私は思わず戦慄してしまった。

「ありえません」と私は反射的に言った。「ミスターことイッセイ・スズキはかつて警視庁時代に私が逮捕しました。現在は死刑囚として、東京拘置所に収監中のはずです」

「もちろんそのことは存じ上げております」と教授は顔の前で両手を組みながら言った。「あくまでもこれは私の直感に過ぎません。しかし、まだ年端もいかない子どもがターゲットにされていることといい、クラッキングの手口といい、偶然にしてはミスター事件と似通った部分が多いのです。つまりイッセイ・スズキではない、第二のミスターのような人物が現れたということかもしれません。あるいは何らかの形で収監中のイッセイ・スズキが関与している可能性もなくはない。まだ被害者こそ出ていませんが、つぐがその最初のターゲットになったということは存分に考えられるでしょう」

「いいでしょう」と私はひと呼吸はさんでから言った。「そのさる情報筋とやらの情報が正しければ、第二のミスターが現れたということなのでしょう。ただ、私にはいくつか、どうしてもお尋ねしておきたい疑問があるんです」

「何でしょう?」

「『新世紀探偵』経由でいただいた今回のこの依頼は国家機密法に関係するものだと伺っています。つぐさんの失踪とミスターの関連性についてはここまでのお話でよくわかりました。しかし、いったいこの依頼のどこが国家機密に該当するのでしょう? それになぜS級の探偵ではなく、最下層のC級の私なんかを指名して依頼してきたのでしょう? そして赤いBMWを乗り回している、あのミネコ・サカイという人物は何者なんです? ついでに言っておくと、私はここに来る前に二人組の殺し屋にだって狙われています。あいにく私の性格上、いくら報酬がよくても不確定要素の多すぎる依頼は受けないことにしているんです。このままではとても依頼を承諾できません」

「わかりました」と教授はよりいっそう深刻な顔つきになって言った。「クライアントと探偵は何より相互の信頼関係が重要です(そうですね?)。あなたには私の口から全てをお話しましょう。ただ、いささか長いお話になるかと思います。そちらのラックにあるレコードでも何かお聴きになりますか?」

「できれば、ジョン・ケージの『4分33秒』でも聴きたい気分ですね」

「それでは、このまま話を始めましょう」と教授は私のひねくれたジョークに応えて(あるいは無視して)言った。「話は『トキオ計画』前夜の時代までさかのぼります。ヒデオ・オカ教授と私とは同じ大学に勤める同僚どうしでした」



「ヒデオ・オカ教授と私とは同じ大学に勤める同僚どうしでした」と教授は話し始めた。「オカは当時から海外の学会などにもひんぱんに招待され、国際的な論文誌にもたびたび論文が掲載されている世界的な計算機科学の第一人者でした。一方で私の専門は都市社会学でしたから、専門とする分野こそ全く違いましたが、どことなく初めて会ったときからウマが合って、相互補完的にお互いをサポートし合う関係を続けておりました。

 ときの首相はそのころ『スマート・シティ構想』なるものを政策の目玉にしていて、国会などでもさかんにアピールしていました。あの首相が──オカと私はとっつぁん坊やというあだ名を付けていましたが──東京大学のオカ研究室に話を持ちかけてきたころ、内閣の支持率は歴史的下落を見せていました。とっつぁん坊やがじきじきにやって来て、銀座の老舗料亭なんかでオカと会食したこともあったそうです。オカは政治的にはリベラルでしたし、もちろん政治家としてのとっつぁん坊やを支持していたわけでもありませんでしたが、『東京のスマート・シティ化を実現するなら研究資金の提供は惜しまない』というひと声で、政府からの協力要請を承諾したということでした。まあ、オカは決して正義漢みたいなタイプではありませんでしたし、利用できるものなら何でも利用するという現金な性格でしたから、そばで経緯を見ていた私としてもむべなるかなというところではありました」

 教授の話をそこまで聞いて、私は目の前で車椅子に腰掛けている人物が誰なのかがようやくわかった。ヒデオ・オカ教授とともに「トキオ計画」に携わっていたキタロー・ユカワ教授に間違いない。「トキオ計画」を理論的側面から推進したのがオカ教授なら、現実的側面からサポートしたのがユカワ教授だった。マスメディアなどにも積極的に出演していたオカ教授とは違って、ユカワ教授が表舞台に出ることはまれだったので、一般的には「計画」におけるその貢献度がいかほどのものだったのかは知られていないが、少なくとも名前を聞けば、誰もが「トキオ計画」プロジェクト・チームの主要メンバーだったという知識くらいはすぐに出てくるような人物だ。

「オカから聞いたところによれば、まず最初にプロジェクトのメンバーとして頭に浮かんだのが私だったということでした」とキタロー・ユカワ教授は話を続ける。「『トキオ計画、このプロジェクトには都市社会学者としてのユカワくんの知見がぜひとも必要なんだ』とオカは言いました。もちろん私は二つ返事でその申し出を承諾しました。私としましても東京のスマート・シティ化などという歴史的プロジェクトに名前をつらねるのはやぶさかではありませんでしたし、旧知の友人のオカにそのように頼まれたら断る理由もなかったからです。

 そのようにして、東京大学の研究者たちで構成されたプロジェクト・チームは、政府の提供する潤沢な研究資金のもと、順調に『トキオ計画』を推進していきました。後は歴史の教科書の一番後ろにも書かれている通りです。チームが構想した緻密なプラン通り、東京は順次スマート・シティ化し、50年代には東京全体のデジタル化が完了しました。探偵さんもご存知でしょうが、ここまでが表向きの物語です」

 キタロー・ユカワ教授はそこで一旦話をやめ、カップを持ち上げてコーヒー牛乳みたいな色合いになった飲み物を口にした。私も飲みごろになったコーヒーをすすりながら、話の続きをゆっくりと待つことにした。

「『オッペンハイマーの箱』とオカは呼んでいました」とキタロー・ユカワ教授は言った。「箱と言っても具体的に目に見える形で存在しているものではなく、あくまでもプログラムの名称に過ぎません。『オッペンハイマーの箱』のことを初めて聞いたのは、オカがハワイで客死する二週間前のことでした(ご存知の通りオカはハワイでバカンスを過ごしていた際にホテルで心臓発作を起こして亡くなりました)。オカと私は行きつけの麻布十番の寿司屋でひさびさに顔を合わせていました。オカは晩年に至るまで『トキオ計画』のリーダーとして、メディアに引っ張りだこでしたし、オカ本人としてもそういう仕事が嫌いではありませんでしたから、何しろいつも多忙を極めていました。そういうわけで同僚の私ですら、そのころはおいそれとオカと食事をするというわけにはいきませんでした。ですから、そのときは本当にひさびさに二人きりで食事をしていたのです。オカと私は寿司屋の個室席で、差し向かいに座って話をしていました。

『ユカワ、いまさらなんだが、お前に一つ話しておかなければならないことがある』とオカは言いました。

『銀座のクラブのホステスとホテルにしけこんだっていう話か? それなら先週のゴシップ記事を読んだから、わざわざ本人が話すには及ばない』

『いや、あれは単なるハニートラップでね』とオカは照れ笑いを隠しきれずに言った。『ずっと私に付きまとっていた記者にしてやられたんだ』

 それからオカは湯飲みを持ち上げて緑茶を飲むと、雰囲気を一変させました。いかにも深刻な顔つきをして、重い口を開くというようでした。

『ユカワ、いまから君に話したいのは、オッペンハイマーの箱のことだ』

『オッペンハイマーの箱?』

ロバート・オッペンハイマー、トリニティ実験、1945年7月16日午前5時29分45秒、ニューメキシコ州ソコロ、Now we are all sons of bitches(これで俺たちはみんなクソ野郎だ)』とオカは言いました。『箱と言っても実際にそういう箱が存在しているわけじゃない。仮の名前として便宜的にそう呼称しているだけで、実際にはプログラムの一種に過ぎない。ちょっとやそっとのことではアクセスできないように、偽装クラウドを経由したゴースト・フォルダにつっこんだ上で、幾重にも厳重なパスワードをかけてある。わかりやすく譬喩を使わせてもらうなら、金庫の奥深くにしまって、南京錠をかけて、その上に鎖でがんじがらめにして、太平洋の底に沈めてしまったということだ。だからよほどのことがない限りは害を及ぼすことはないだろうし、そもそも誰も発見できないだろう』

『ちょっと待ってくれ』と私は慌てて言いました。『オカ、君が何の話をしているのか、さっぱりわからない。そもそも、そのオッペンハイマーの箱とやらはいったいどういうものなんだ?』

『簡単に言えば、ポスト・インターネット時代の原子爆弾(リトル・ボーイ)だ』とオカは額に皺を寄せながら言いました。『一発で世界中のスマート・シティを機能停止させてしまうほどのパワーを持つ。トキオ・シティ、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、ベルリン、オタワ……。世界中の全てのスマート・シティの都市機能が一瞬にして破壊され、その被害は常時都市そのものとコネクトしている我々のマイクロチップにまで及ぶだろう。つまり、我々のこの頭蓋骨に埋められたマイクロチップが、強制シャットダウンされた都市から逆流してくるデータ量の負荷に耐えきれずに熱暴走し、一瞬にして人々の脳髄が焼き切られることになる。まさに大虐殺だよ』

『冗談だろう?』

 オカの荒唐無稽とさえ思える話に私はそのように反応することしかできませんでした。しかし、それはよくできたジョークなどではありませんでした。オカは頭を横に振り、いくらか諦めたような笑いを浮かべました。

『4月1日のくだらない嘘だったらよかったんだが、残念ながらオッペンハイマーの箱は実在する。私はトキオ計画の初期段階で、このプログラムを生成してしまった。初歩的なコードの書き間違いによる、偶発的な事故の産物だったから、いつものように難なく削除できるはずだと思っていたんだ。しかし、どれだけ削除を繰り返しても、オッペンハイマーの箱はタチの悪いウイルスみたいに再び姿を現した。ためしにプロパティの深層を覗いてみたら、これが原子爆弾クラスのとんでもないプログラムであることがわかったんだ。削除ができないなら摘出して、他の場所に移しておくしかない。そして、先ほども言ったように、私はトキオ計画の基幹データからオッペンハイマーの箱だけを注意深く摘出し、厳重なロックをかけた上で、深い深い太平洋の底に放り込んでしまった。しかし、どれだけ慎重に隠したところで、いずれ誰かが見つけてしまうかもしれない。何しろこの世界は予測不可能性に満ち溢れた場所だし、古代ギリシャからこちら、人類の暴力性というやつははかり知れないものだからな。そこでユカワ、君に頼みがある』

 オカはいつになく真剣な顔をして、私の顔を見つめていました。いつもはどちらかと言えばひょうひょうとしているオカがそのような顔をしているところを見たのは初めてのことでした。私は何も言えずに話の続きを待つしかありませんでした。

『一生のお願いだ。もし、オッペンハイマーの箱が誰かに盗まれてしまったら、あるいは盗まれそうになったら、君が全力を上げて惨禍を阻止してくれ。もし、そのときに君が自分で箱を見つけられないような状況にあるのであれば、誰かにこの使命をバトンタッチしてくれ。もちろん私が存命のうちは自分で箱を見張り続けるつもりだが、もうこの年だからいつ死んでしまうとも限らない。明日死んでしまうかもしれないし、一年後に死んでしまうかもしれない。それは私にもわからない。残念ながら、いま私の口から箱のありかを教えることはできないが、来たるべきときが来れば、きっと君は箱の隠し場所に気がつくはずだ。頼まれてくれるか?』

『お前の言っていることはほとんどよくわからないが、とりあえずわかったと言っておこう』と私は迷わずに答えました。『ほかでもないお前の頼みだ。断れるわけがないだろう。それにもし私が渋ったところで、お前は無理を言ってでも、私にその使命とやらを引き継がせただろう?』

『恩に着る』とオカは微笑みながら言いました。『これでこころおきなくいつでも死ぬことができるな』

『縁起でもないことを言うなよ』

 しかし、奇しくもそれがオカと話した最後のときとなってしまいました。二週間後、東京で仕事をしていた私のもとに『オカがハワイで亡くなった』との知らせが来ました。あるいはオカは自分の死期が近づいていることを何となく予感していたのかもしれません。そういったような経緯で、私はオッペンハイマーの箱を監視する仕事をオカから引き継いだのです。しかし、箱そのものがどこにあるのかはいまだにわからないままでした』



「オカの葬儀に参列した際、私はオカの弟にあたる人物から遺書を受け取りました(オカ夫人はすでに亡くなっていましたし、オカには子どもがおりませんでしたので、実の弟さんが喪主を務めていらっしゃいました)。その遺書にはにわかには信じがたいことが書いてありました。それはオッペンハイマーの箱に関係することではありませんでした。何とオカには隠し子がいたというのです。さる愛人との間にできた、まだ小さい子どもがいる。その子どもは神奈川県中郡大磯町の児童養護施設で暮らしている。可能であれば、月に一回でもいいから、ときどき様子を見に行ってやってほしい。オカはそのように書き遺していました。私はオカの遺言通り、毎月一回は大磯の施設まで行って、その子の様子を確認していました。その子はオカのことを祖父だと信じていたようでしたから、私も『ヒデオおじいちゃんの昔からの友だちだ』と名乗りました。オカが亡くなったことは知らないようでしたから、私もわざわざ真実を教えることはしませんでした。ただ、『おじいちゃんはいま仕事が忙しくて海外にいるんだ』と言っただけです。非常に無口な子ではありましたが、月に一回の施設通いを繰り返すうちに私に懐くようになり、少なからず私にも情とも言うべきものが芽生えてきました。さいわいなことに私は独身の身でもありましたし、この広い屋敷ももてあましているところでしたから、私は施設の方々とも相談した上で、その子を養子として迎えることにしたのです。それがつぐです」

 キタロー・ユカワ教授はそこまで話してしまうと、一旦口を閉じた。私はガラステーブルの上のつぐの写真に視線を移してから、もう一度キタロー・ユカワ教授の顔を見た。なるほど、と私は声に出さずに思う。しかし、恐らく話のミソはここからだろうという気がした。

「しかし、話のミソはここからになります」とキタロー・ユカワ教授は再び口を開いた(私は思わず自分の膝を叩きそうになった)。「ここまで聞いたあなたは『なるほど、オッペンハイマーの箱についてはひとまずわかった。つぐがオカの実子でユカワの養子であることもよくわかった。しかし、それとこれとがどう関係してくるんだ?』とお考えのことでしょう。初めのうちは私も全く同じことを思いました。おい、オカ、生前最後に会ったときにオッペンハイマーの箱なんてわけのわからん話をするくらいなら、そのときにつぐの存在も知らせておいてくれればよかったじゃないかと。しかし、その点で言えば、オカは非常に注意深くことを運んでいたのです。ある意味では私を保護するために、あえてつぐの存在は知らせなかった。つまり、オカは私が自分でミッシング・リンクをつなげることを期待していたのです。ただ、これはあくまでも仮説に過ぎません。確証を得ているわけではありませんから、もしかしたら私の壮大な勘違いかもしれないのですが、しかし考えれば考えるほどそうだとしか思えないのです」

「失礼ですが」と私はキタロー・ユカワ教授の話にカット・インした。「話がよく見えません。あなたのおっしゃっているミッシング・リンクというのはいったい何のことなんでしょう?」

オッペンハイマーの箱はつぐの中にある」とキタロー・ユカワ教授は言った。「恐らくはつぐのマイクロチップの中に隠されています。オカの言っていた太平洋の底というのは、つぐの深層意識の中のことではないかと私は推測しているのです。もちろん、先ほども申し上げましたように、あくまでもこれは私の憶測に過ぎませんし、もし本当につぐのマイクロチップの中にオッペンハイマーの箱があるのだとしても、どのようにしてそんな場所に隠したのか、あるいはどのようにすればそこから摘出できるのかということについては、私も全くわかっておりません。(もちろんオッペンハイマーの箱の存在は伏せた上で)生前オカと親しかった計算機科学者たちに相談もしたのですが、一人の人間のマイクロチップの中にプログラムを隠匿するなどということは『理論上は可能だが現実的には不可能だ』という意見がほとんどでした。つまり隠した方法も発見する方法も、もはや亡くなってしまったオカにしかわからないということです。つぐを誘拐した第二のミスターがオッペンハイマーの箱についてどれだけ知っているかはわかりませんが、このままつぐが戻ってこなければ、あるいは世界は滅亡の危機に瀕するやもしれません。

 今回、わざわざあなたを指名させていただいたのは、もちろんミスター=イッセイ・スズキ逮捕に携わった功績を知ってのことです。それに現在、あなたはチップとデバイスの両方を摘出していらっしゃる。ご存知の通り、ミスターがかつて使っていた手口は相手のチップとデバイスをクラッキングし、一種の悪夢のようなものを見せて精神崩壊に至らしめるというものですから、現在のところアナログでいらっしゃるあなたはまさに第二のミスター捜索にうってつけの人物なのです。

 それから、外で真っ赤なBMWに乗っておられるサカイくんのことですが、あの方は私がもっとも信頼している『新世紀探偵』のエージェントです。元S級探偵にして、現在は『新世紀探偵』本社直属のスペシャル・エージェント及びエグゼクティブ・アドバイザーにまで昇進なされたと伺っております。S級探偵時代のサカイくんにつまらない依頼をいくつかお願いしたことがありましてな、それ以来のビジネス・パートナーなのです。ですから、今回の案件ではあなたとサカイくんの二人でコンビを組んで当たっていただきたい。何しろ話が話ですから、どんな有象無象が関わってくるとも限りません。恐らくあなたを襲撃した殺し屋の二人組というのも、その有象無象の手合いでしょう。オッペンハイマーの箱について知っているのは、(私の認識している限りでは)生前のオカと私、そしてあなたとサカイくんくらいのはずですが、すでにどこかから情報が漏れてしまっているということは想像に難くありません。ゆえにこの依頼はもはや一刻の猶予も許さないのです。依頼を承諾していただけますね?」

 「C級探偵お手柄! 世界滅亡の危機を救ったヒーロー!」というニュースの見出しが私の頭の中でちかちかと明滅した。国家機密とは聞いていたが、まさにエベレスト級のデカいヤマだ。もし、私がこの依頼を無事解決することができれば、S級どころかミネコ・サカイと同じスペシャル・エージェントまで一挙に昇進することだって夢ではない。それにここまで話を聞いてしまった以上、もはや引き下がるわけにもいかないだろう。私はキタロー・ユカワ教授の目をまっすぐ見ると、しっかりと頷いた。

「わかりました。ただいまの時刻をもって、あなたからの依頼を承諾します。『新世紀探偵』利用規約はご存知でしょうから、ご説明を省略させていただきます。これより私とあなたは契約上、探偵 - クライアントの関係性となります。異存がなければ、こちらのスマートフォンで指紋認証をお願いします」と私は『新世紀探偵』のマニュアル通りの言葉をすらすらと言った。

 キタロー・ユカワ教授は私が差し出したスマートフォンに親指をタッチした。緑色の✓が画面に現れ、ユカワ教授と私の間に契約が締結される。「ありがとうございます」と私は言って、スマートフォンをポケットにしまった。

「それでは、さっそく捜査を開始します」と私はソファから立ち上がりながら、飲みかけのコーヒーを一気に飲み干した。「それから、いちばん大切なことを聞き忘れてしまったんですが、報酬はおいくらなんでしょう?」

 キタロー・ユカワ教授の唇が動いて、私に報酬の具体的な金額を伝えた。

$$$$$$$$$$

 偉大なギャツビーも思わずびっくりしてしまうくらいの金額だった。

4へ続く)

ここから先は

0字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

thx :)