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新世紀探偵(2:イカロスのごとく落下してきた私をキャッチしたのは)

 イカロスのごとく落下してきた私をキャッチしたのは、マンション前の道路で待ちうけていた真っ赤なBMWだった。後部座席にまっさかさまに落ちてきて目を回している私を確認すると、一刻を争うとでも言いたげに、ドライバーはアクセルを踏み、ハンドルを回して、車を急発進させた。私は革張りのシートに寝ころんだまま、頭上を見上げてノッポのコバヤシとチビのカタギリが追跡してきていないかを確認し(まさか自分のように飛び降りてまで追ってはこないだろうと思ったが)ゆっくりと身体を起こした。そして、運転席でハンドルを握るドライバーの姿を目にした。

「御機嫌よう」とドライバーはバックミラーを見ながら、後部座席の私に向かって言った。私もミラーに視線をやった。そして、黒髪をボブ・ヘアーに切り揃え、サングラスをかけた人物とミラー越しに目が合った。真紅と言ってもいいほどの口紅が塗られた唇が目を引いた。いまだに興奮状態にあった私は、即座に拳銃を構えようとしたものの、相手のアクションの方が早かった。しかし、ドライバーが差し出してきたのは拳銃ではなく、プラスチック製のIDカードだった。注意深くなっていた私は拳銃を構えたまま、片手でカードを受け取った。上段に「ミネコ・サカイ」、下段には「新世紀探偵 特務課 スペシャル・エージェント及びエグゼクティブ・アドバイザー」とある。スペシャル・エージェント及びエグゼクティブ・アドバイザー? 私にはその役職が何を意味しているのかは全くわからなかったが、とにかく「新世紀探偵」のお偉いさんであることは間違いないらしい。私は構えていた拳銃を下ろして、IDカードをミネコ・サカイに返した。

「『三四郎』と『青年』」と私は言った。

「あら」とミネコ・サカイは赤信号でゆるやかにブレーキを踏みながら言って、こちらを振り向いた。「インテリゲンチャな探偵さん」

「漱石と鴎外くらい、別にインテリじゃなくたって読んでるだろう」

「それは失敬」とミネコ・サカイは微笑んだ。「でも、初対面で名前の由来を当てたのって、あなたが初めて」

「本当の名前は何て言うんだ?」

「ペーネロペー、シェヘラザード、末摘花……」

 ミネコ・サカイは私の質問をはぐらかすようにそう言って、サングラスを額の上にずらした。二重の大きな瞳、すっきりと筋が通っていて高い鼻、ルーン文字のような金のイヤリングをつけた形のいい耳、艶のある赤の口紅が塗られた厚い唇、そして黒いレザージャケットとコットン地の白いハイネック、ツイードのミニ・スカートに黒いストッキング、赤いハイヒールというビジュアルが私の視線を一瞬にして捉えた。

「まあ、探偵さんも色々聞きたいことだらけでしょうけど」とミネコ・サカイは再びサングラスをかけながら前を向いて、青信号でアクセルを踏んだ。「とりあえず目的地に着くまではおとなしくしていて」

「オーケー」と私は発進する車の後部座席から答えた。「どこだか知らないがその目的地とやらに着くまで、ウィスキーと葉巻をやっていても構わないかい?」

「別に私は構わないけど、作者の許可は得てるの?」

「いちいち作者に許可なんかとらない」と私は答える。「私は私のやりたいようにやる。いままでもそうだったし、これからもそうだ。それに作者の側だって、これから主人公の私に血湧き肉躍る冒険活劇を演じてもらわなくっちゃ困るんだ。酒や煙草の一つくらい、気前よくサービスしてくれるさ」

 第四の壁を超越して私が発言した直後、後部座席のシートの上に、ウィスキーの瓶とグラス、葉巻とジッポが突如として出現する。私は両手をすり合わせながら「サンキュー、作者さん」と言った。ユア・ウェルカム。

 *

 いまさら説明するまでもなく、トキオ・シティは現在、世界でもっとも多くの人々が暮らす超人口過密都市にして、世界でもっとも先進的なスマート・シティである(ここから数行に渡ってトキオ・シティに関する説明がインサートされるので、コスト・パフォーマンス、タイム・パフォーマンス、その他さまざまの効率を気にかけられる賢明な読者諸兄は次の*までページを繰ることをお薦めする)。

 令和以降、超高齢・超少子化社会となった日本は、労働人口確保のために積極的に移民の受け入れを開始した。結果として、中国、韓国、インド、ベトナム、タイ、フィリピン、その他アジアの国々からの移民が押し寄せ、トキオ・シティに限っても人口の約半数を外国人が占めていた。特に台湾情勢によって先進各国から重い制裁を受けて国力が衰退した中国や、南北境界線付近における北朝鮮との度重なる戦闘に疲弊した韓国からは大量の移民がやってきた。

 21世紀の折返し地点にあって、当時まだ「東京」と呼ばれていたこの都市は、世界に先がけてスマート・シティ構想にもとづいた「トキオ計画」を推し進めていて、赤ん坊から高齢者まで、全ての国民に対してマイナンバーとひもづいたマイクロチップを埋めこむことを推奨していたのだった(のちの法改正によって推奨だったはずのマイクロチップ装着はいつの間にかなし崩し的に義務となった)。

 「トキオ計画」を推進していたのは、東京大学でスマート・シティ構想を研究していたグループの中心人物、ヒデオ・オカ教授だった(オカ教授は東京のスマート・シティ化=全世界初の完全スマート・シティたるトキオ・シティの創始という功績によって、のちにノーベル物理学賞を受賞することになる)。オカ教授の草案によれば「マイナンバーとひもづいたマイクロチップを頭蓋骨に埋めこみ、さまざまな行政システムやサービスと連携させることによって、日常生活を100パーセントデジタル化する」というのが当初の目的だったようだが、世の常としてテクノロジーの発展はビジネスに転用される。

 米アップル社が「iPhone以来の革命的デバイス」と銘打って開発し、50年代後半に発売された「iSee(アイ・シー)」は、計画の一環として開発されたマイクロチップと連動したウェアラブル・デバイスだった。要するに、これまでコンピュータやタブレットやスマートフォンといった形態をとっていたデバイスが人体と直接コネクトされるようになったわけだ。我々はiSeeの登場によって、物理的なデバイスを携帯する必要がなくなった。サイコキネシスよろしく、頭の中で指示を出すだけでウェアラブル・デバイスが起動し、仮想モニターが目の前に立ち上がるという仕組みだった。

 2060年代現在、都民におけるマイクロチップ - iSeeの普及率はおよそ9割、iSeeやマイクロチップを使用していないアナログな人間の方が珍しいくらいだった。しかし、現在の私は(ガラパゴス島の絶滅危惧種よろしく)iSeeもマイクロチップも利用せずに生活しているアナログな側の人間だった。私がアナログでいるのには、それなりに色々と複雑な理由があるのだが、その話はまたいずれ。



 ミネコ・サカイのBMWは世田谷方面を目指しているようだった。世田谷のどこへ向かっているのかはわからなかったが、私はあえて質問しなかった。探偵としての長年の経験則から言わせてもらえば、こういう場合に何かを質問しても、まともな答えが返ってくることはまずないからだ。その代わりに、私は作者からいただいたウィスキーと葉巻をこころゆくまで味わうことにした。小ぶりなグラスに数ミリリットルだけウィスキーを注ぎ、鼻を近づけて豊かな香りを楽しむ。そして、舌先に軽く触れるくらいの量をあおって、そのまま一気に喉の奥まで流し込む。口腔から鼻孔まで香りが突き抜けるように上昇し、喉元が一気に熱くなる。最高だ。そして、葉巻をくわえてジッポで火をつけ、深く煙を吸い込んでから吐き出す。最高だ。ウィスキーと葉巻の香りを味わいながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。そして、再び目を開いてみると、リビングのテーブルの向こうに元配偶者のMが座っていた。

「あなたにも原因がある」とMは泣きはらした目で言う。「私ばかりに非があるわけじゃない」

「もちろん」と私は煙草を吸いながら言う。「もちろんそうだと私も思う」

 私とMはテーブルを挟んで、それぞれの椅子に腰かけていた。外では一週間近くも降り続けている雨が街中を濡らしていた。そのうちに雷も鳴り始めそうだった。私は唇の前までグラスを持ち上げて傾け、ゆっくりとウィスキーを流し込んだ。

 MがWの不倫を私が知ったのは、全くの偶然からだった。私はまさかMとWが不倫しているなどとは夢にも思っていなかったので、その事実が露呈したとき、一種のショック状態に陥ることになった。

 Mと婚姻関係にあった当時、警視庁に務めていた私は何かにつけて家を空けがちだった。Mと二人で過ごす時間より、凶悪犯罪の犯人を追いかけ回している時間の方がはるかに多かった。当時、Mはそれまで働いていた大学病院の精神科医としての仕事を休職していた。私とMの間には子どもがいなかったので、必然的にMは一人で過ごす時間をもてあますことになった。Wはそこにつけこんだわけだ(ベンチャー企業専門の弁護士として多忙を極めていたWが、不倫するだけの時間をどのように確保していたのかはいまもって謎だった)。

 元々、私たちは社会人の演劇サークルで知り合った仲だった。私は職場に貼ってあったポスターでその演劇サークルの存在を知って、特に演劇に興味があるわけではなかったが、職場以外のコミュニティに所属するのも悪くないだろうと思って、初めはおためしのような気持ちで参加したのだった。それから月に二回の練習に参加するうちに、だんだんと私も演劇に興味を持つようになっていった。そして、その「興味」のうちには、少なからずMの存在も影響していたかもしれない。何しろMはその美貌によって、参加者の中でも一際目立っていたから。しかし、それはWとしても同じだったようだ。

 私とMとWが初めて役者として舞台に出たのは、杉並公会堂を借り切って安部公房の『友達』を演じたときのことだったと記憶している。私が主人公の「男」役、Mが「次女」役、Wが「次男」の役だった。

 M 気分はいかが?
 私 さあね……(食事を眺め、少しずつ、まずそうに口に搬ぶ)
 M 食がすすまないわねえ……早く、外に出て、体を動かせるようにならないと……
 私 いやに静かだな。誰もいないの?
 M (腰を下して、格子ごしに、じっと男を見つめながら)久しぶりの天気だから……
 私 (たのむように)新聞、見出しだけでもいいから、ちょっと見せてくれないかな。
 M 駄目。治療中は、安静にしてなけりゃ。
 私 君って、かわってるよ。親切かと思うと、同じくらい杓子定規だし、やさしいかと思うと、同じくらい頑固だし……
 M (微笑して)それは、あなたが、自分のことしか考えないからよ。
 私 (軽く笑って)ふん、そういう君だって……
 M 変だなあ。私の頭の中は、いつもあなたのことでいっぱい。
 私 (呆れて)それでいて、これほどぼくの気持が分らないなんて……いや、おかげで、隣人愛の有難味だけは、たっぷり勉強させていただきました。


 MとWは練習に参加するうちにどんどん親密になっていった。あくまでも当時の私は傍観者に過ぎなかった。初めのうちは私とMとWの三人で食事をしたりしていたのだが、そのうちにMとWは二人きりで会うようになった。言い方を変えれば、指をくわえて見ていることしかできなかったということだ。正直に言えば、私もMのことが好きだったし、Wにはげしく嫉妬してもいた。Wはそのころ弁護士の卵に過ぎなかったが、センターで分けた黒い髪と細いフレームの眼鏡をかけた風貌はいかにも知的だったし、それでいて背格好もがっしりしていた。恐らくこれからどんどん社会の中でのし上がっていって、成功をおさめるのだろうという雰囲気があった。Mもまた、ひと目で人を引きつけるような美しさを持っていて、誰とでも親しくなるというわけではなかったものの、かえってそういった性格がミステリアスな印象を与えるというタイプだった。どこからどう見ても、MとWはお似合いのカップルだった。

(不意に、隣の部屋から次男が現れる)
 W (シャツに袖をとおしながら)おいおい、何をめそめそ……
 M あら、兄さん、いたの?
 W (次女の様子に、はっとした表情で)なんだ、おまえ、またやってしまったのか!
 M だって、仕方がなかったのよ。
 W しょうがねえなあ……済んだことは、とやかく言っても始まらないけど……また、なんだかんだと、忙しくなっちゃうぜ。
 M とてもいい人だったわ。やさしくて。そっと触っただけでも、心が、鳴りだすような……
 W (頭のフケを落しながら)まあ、退職金の前借りも、してしまったことだし……損得勘定の上では、べつに言うことはないけどさ……
 M すこしは口をつつしんで。私が失くしたものと、あんたが失くしたものとでは、わけがちがうのよ。
 W (部屋を見まわし、誰に言うともなく)荷物ってやつは、おかしなもんだなあ、どういうわけだか、引っ越しのたんびに増えてやがる……
 M (檻の上を、ひろげた両手で、いたわるようにさすってやりながら)さからいさえしなければ、私たちなんか、ただの世間にすぎなかったのに……


 しかし、ある時期から、Wの人間的欠陥とでも言うべきものが目立つようになってきた。たとえば肉体関係(演劇サークルのメンバーである何人かがWから言い寄られたと証言した)。たとえば借金(同時に演劇サークルの複数のメンバーに借金があることも判明した)。もちろん、肉体関係や借金などというのは「人間的欠陥」と言うには、いささかありふれたトピックではあったものの、私とMが問題視していたのは、Wが自らの失敗や欠陥を隠蔽するためにつき続ける嘘、ひいてはWの致命的なまでの虚言癖だった。

 Wはありとあらゆることに関して嘘をついた。あまりに嘘ばかりつくので、私にもMにもいまWが話していることが本当なのか嘘なのかわからないくらいだった。どうやら弁護士の卵であるということは本当だったみたいだが、それ以外のプロフィールについては全てが真実と虚構の狭間にあるような人間だった。言ってしまえばWは典型的な社会病質者(サイコパス)そのものだった。

 そのうちに私はMからWとの関係について、相談を持ちかけられるようになった。もちろん私としてはMのことが好きだったから、二人で時間を過ごせるのであれば、どんな用件だろうと構わなかった。私とMはよく週末に都合を合わせて、新宿御苑を歩きながら話した。そして、散歩の後に映画館に行くのが定番のコースになった。初めて二人で観た映画は鈴木清順『殺しの烙印』だった。正直、一般的にはデートで観るような映画ではなかったけれど、私もMもいわゆるカルト映画が好きなタイプの人間だったから、二人ともむしろ興奮しながら鑑賞した(『殺しの烙印』の主役は米が炊ける匂いに性的興奮を覚える殺し屋というかなりユニークなキャラクターだったし、全体として非常に奇妙な映画でもあった)。私とMは映画館の暗闇で、ときおりスクリーンの光に照らされるお互いの顔を見ては笑い合った。

 ぼくらは出合う。
 ぼくらは色々やってみる。
 なにも起こらない、だけど
 その後ぼくらは会うたびに
 いつもどぎまぎする。
 そしてぼくらは視線をそらすのだ。


 週末にそのようなデートを繰り返していくうちに、私とMは親密になっていった。そして、我々の関係がある段階まで進んだころ、MはようやくWとの関係を清算することを決めた。Wの側としても、私とMが仲を深めているということは認識していたようで、特にトラブルもなく別れ話は済んだということだった(Wの性格を考えると面倒な事態になることも予想していたので、その知らせを聞いたときに正直私はほっとした)。それから私とMは正式に交際関係に発展し、長い年月をかけて仲を深めていった。その間に私は警視庁での研修期間を終えて捜査一課に配属され、Mは大学病院の精神科に職を得た。交際を始めてからというもの、我々は演劇サークルを辞めてしまっていたし、Wともすっかり疎遠になっていた。人づてに聞いたところでは、それまで務めていた弁護士事務所を退職し、個人で弁護士事務所を開いたということだった。そのようにして、私とMは結婚した。



 MとWが密会していたことを私は全く知らずにいた。サークルを辞めて以来、Wとは一切連絡をとっていなかったし、Mの方も同じだろうと思っていた。当時、私は新米刑事として、通称ミスターというシリアルキラーを追っていて、ほとんど家に帰らない日々が続いていた。クライアントの自殺が度重なった影響から仕事を休職していたMは、必然的に毎日一人で過ごす時間が多くなった。私もMのことが気がかりではあったものの、仕事を休むわけにはいかなかった。そのようにして(いまだにどのような経緯で再会に至ったのかは謎だが)MとWは再び肉体関係を持つようになったのだった。

 ミスターと名乗るそのシリアルキラーは、無差別に子どもを拉致しては殺害しているという極めつきのサイコパスだった。その一方で手口は極めてソフィスティケートされていて、誤解を恐れずに言えばインテリジェンスさえ感じると言ってもよかった。ミスターはまずターゲットのマイクロチップを何らかの手口によってクラッキングし、一面が赤いビロードで囲まれた奇妙な空間に監禁する(ミロのヴィーナスの彫像、大きな緑の葉をつけた観葉植物、L字型に配置された二組の黒い二人がけソファ、ガラス製のテーブル、古めかしいラッパ型の蓄音機などが動画には写り込んでいた)。それから被害者が発狂するまで洗脳を続け、しまいには自殺してしまうように仕向ける。ミスターは被害者が自殺にいたるまでの全てのプロセスを撮影しており、ダーク・ウェブにはびこるフリークスたちと動画データを取引していた。

 ミスターは巨大な目玉の被り物にシルクハット、黒いタキシードにステッキという特徴的なコスチュームで動画に登場するのが常だった。一都三県の子どもがターゲットという共通点こそあったものの、それ以外の法則と言えるものはほとんどなく(動画という揺るぎない証拠があるにも関わらず)ミスターと思われる人物の特定もいまだ一進一退の状況だった。要するに捜査本部もお手上げの状態だったのだが、新米刑事だった私はそれこそ24時間365日、ミスターの捜査にかかりっきりになっていた。どんなに完璧に見える犯罪にも、必ず突破口があるはずだというのが私の信条だった。

 MとWの不倫現場に遭遇したのは、そのように「ミスター事件」で多忙を極めていた時期だった。ミスターにあまりに執着している私を見かねて、直属の上長だったドン(ときとして風車を巨人に見立てるような無謀な捜査をする大胆な性格とそのがっしりとした巨体からドンというニックネームが付いた)から「上司命令として言わせてもらうが、お前もたまには帰ってゆっくり休め」と言われたのだった。

「ワーカホリックのあなたが言います?」と私は覆面パトカーの助手席で笑いながら言った。

「俺にはもう嫁も子どももいないからいいんだ」とドンは笑いながら言った。「でも、お前はまだ結婚したてのほやほやだろう」

「でもないですけど」

「それに今日は結婚記念日なんだろう」とドンはハンドルを握りながら言った。「今夜くらいは奥さんといっしょにいてやれ。お前にとってもそれがいちばんいいはずだ」

「そういうものですかね」

「そういうものだよ。仕事に夢中なのは結構なことだが、たまには息抜きもしろ。それに一日くらい、ペーペーの新人が休んだところで、チーム全体に何の影響も出ないだろう」

「それは言いすぎです」と私は声を上げて笑った。

 それから、ドンは「記念日なんだから花束の一本くらい買っていけ」と途中でわざわざ花屋に寄って、私に花束を買わせた。これまで私はMに花束をプレゼントしたことなんて一度もなかったので、どの花を選んだらいいのかさえわからなかった。でも、ずっと昔に交わした会話でMが青いバラが好きだと言っていたことを思い出した。「青いバラって素敵だと思わない? だって自然界には存在しなかったものを『あったらいいのに』と夢見た人々が現実にちゃんと作ってしまったんだもの」。店内を見渡すとちょうどブルーローズの花束があったので、私はそれを買った。真っ青な花束をかかえて車に戻ってきた私を見て、ドンは大柄な身体に似合わない小さな声で「神の祝福」とつぶやいた。

「何です?」と私は助手席でシートベルトをしながら聞き返した。

「神の祝福」とドンは繰り返した。「ブルーローズの花言葉だよ」

「あなたが花言葉に詳しいだなんて意外です」

「言っておくが、俺は見かけによらずポエティックな人間なんだ。リチャード・ブローティガンの詩を読んで泣いたことだってある」

「冗談でしょう?」

死につつあるきみが最後に思い浮かべるのが溶けたアイスクリームだとしたら」とドンは巨人のような両手でハンドルを回しながら詩を暗唱した。「そうだな。そういうのが人生かもな

「確かに素晴らしい詩ですね」

「お前さえよければ、今度ブローティガンの詩集を進呈しよう」

「いいんですか?」

「もちろん。俺はいつでも人にプレゼントできるように、ブローティガンの詩集を二冊ずつストックしているんだ」

 ドンは車を私とMが住んでいるマンションの前に停車させた。送ってもらった礼を言って、私はブルーローズの花束をかかえながらマンションのエントランスまで歩いて行った。後ろから軽めのクラクションが聞こえたので振り返ると、ドンが運転席から親指を立ててグッドサインをよこしていた。私も親指を立てて返事をすると、ドンは笑いながらうなずいた。そして、覆面パトカーはゆるやかな速度で走り去っていった。

 その後でエントランスまで降りてきたエレベーターに乗りこむと、花束の匂いはよりいっそう強くなったようだった。ピンポンと音がして、エレベーターの上昇が止まる。エレベーターの扉が左右に開く。花束をかかえた私は通路を歩いていって、Mと暮らしている部屋のドアの前に立つ。208号室。錠前のリーダーにカードキーをスライドさせ、ドアを開ける。そして私は寝室から響いてくるMのあえぎ声を聞くことになる。

 ブルーローズの花束をかかえたまま、私はゆっくりと寝室の方に歩いていく。Mのあえぎ声はどんどん大きくなる。ときおり低い声が何かを言っている響きを聞き取ることができる。リビングを通ったとき、二人分の食事の形跡があることを確認する。そして、部屋のいちばん奥にある寝室のドアを開け、配偶者のMと旧友のWがセックスしている光景を目のあたりにする。まずMが驚いたような表情で私の顔を見る。続けてWが振り返って私の顔を見る。ブルーローズの花束がスローモーションで床へと落ちていく。そのまま私は玄関まで後戻りし、再びドアを開けて外へ出る。軋むような音を立てながら玄関のドアが閉じ、私とMの関係は(もはや取り返しのつかないほど)破綻してしまっていたのだということを知る。



「あなたにも原因がある」とMは泣きはらした目で言う。「私ばかりに非があるわけじゃない」

「もちろん」と私は煙草を吸いながら言う。「もちろんそうだと私も思う」

 私とMはテーブルを挟んで、それぞれの椅子に腰かけていた。外では一週間近くも降り続けている雨が街中を濡らしていた。そのうちに雷も鳴り始めそうだった。私は唇の前までグラスを持ち上げて傾け、ゆっくりとウィスキーを流し込んだ。

「さびしかったのよ」とMは沈黙に耐えかねたように口を開いた。「いつもあなたは仕事で外にいる。私は病気でずっと家にいる。たった一人でこんな場所に閉じこめられていると、本当に頭がおかしくなっちゃいそうだった。そんなとき、目の前に現れたのがWだったっていうそれだけ。ひさびさの再会だったのにも関わらず、Wはとっても優しかった。Wはちゃんと私の目を見て、私のとりとめのない話にも親切に耳を傾けてくれた。そして『Mの病気はいつかきっと治る。この暗闇がいつまでも続くわけじゃない。必ず明るい光がもたらされる』と慰めてくれた。全部あなたがしてくれなかったことよ」

「もちろん」と私は繰り返す。「もちろん全部君の言う通りだと思う」

 正直、私にとってはもう何もかもがどうでもよかった。Mの言う通り、私が家庭を顧みなかったのも事実だが、MがWと不倫関係にあったこともまた事実だ。そして、私とMの関係は決定的に損なわれてしまった。それ以上でもそれ以下でもない。Mはまだべらべらと話し続けていたが、もはや私は配偶者の話を聞いてはいなかった。私はMの唇が独立した器官のようにさまざまな形に動くのを見ていた。いろはにほへとちりぬるを、いろはにほへとちりぬるを、いろはにほへとちりぬるを。そう、恐らくMは私なんかと結婚するべきではなかった(あるいは私はMと結婚するべきではなかった)。MはWと付き合い続けて、幸せになるべきだった(あるいはWがMと付き合い続けて、幸せにしてあげるべきだった)。言ってしまえば、私とMがいっしょに過ごした年月は全くの徒労に過ぎなかったのだ。そのようにして、私とMは離婚した。以来、私はMと連絡を取っていない。

 MがWのもとに身を寄せた後、一人きりになったマンションで私はひたすらウィスキーを飲み、煙草を吸い続けるという生活を送った。ひさびさに一人になってみて、全くの孤独という状態がどういう気持ちをもたらすものだったかということを嫌というほど思い出した。ときとして過剰な孤独はウイルスのように人間の魂を蝕み、最悪の場合には死に至らしめもする。もちろん私は自殺こそしなかったものの、人並みに精神を病みはした。そして、性機能に致命的な障害を負うことにもなった。

 ED(インポテンツ)になったのだ。

 *

 すばらしいこと
 朝目が覚めたときに
 たった一人なのは
 誰かにむかって愛していると
 言わなくてもすむのは
 なぜってぼくはもう誰も
 愛していないのだから。




 ミネコ・サカイの運転する赤いBMWは、世田谷区は成城に建つ豪邸の門前で速度を落として停車した。巨人のような門の両脇に取り付けられた監視カメラが動いて、スポーツカーに乗っているミネコ・サカイと私の姿を捉えたようだった。それから軋むような音を立てて、ゆっくりと門が開いた。門の奥にはル・コルビジュエと安藤忠雄が激しく口論しながら設計したようなポストモダンな建築の豪邸が聳えていた。一個人の邸宅というよりも巨大なスペース・シップと言われた方がしっくり来る。

「それでは、行ってらっしゃい」とミネコ・サカイはサングラスを外して後部座席の方へ振り向いた。「私はここで待っているから」

「?」

「先方があなた一人で来るようにとおっしゃっているのよ」

「その先方というのはいったい誰なんだ?」

「教授」とミネコ・サカイは答えた。「私の口からはそれ以上言えない」

「教授」と私は繰り返した。「非常に有益な情報をありがとう、ミス・サカイ。それで森羅万象がよくわかった。要するに私はいまからあの豪邸までのこのこと歩いていって、生成文法なんかをネタにした気の利いたジョークを言ってくればいいわけだ」

「この際だから聞いておくけど、あなたってフィリップ・マーロウのものまねでもしているわけ?」

「精神分析的に言えばロール・プレイングというところだ。それに、フィリップ・マーロウに影響されていない探偵なんてこの世には存在しない」

 私はそう言って、真っ赤なBMWの後部座席から降りた。ミネコ・サカイはもうすでにどこからともなく紙の本を取り出して読み始めているようだった。門の向こうには青いバラの植えられた庭が広がっているのが見えた。ブルーローズ、と私は思う。「プーティーウィッ?」という鳥の声もどこからか聞こえてきた。やれやれ、と私は(さらに)思う。しがないC級探偵としての予感によれば、どうやら私は国家レベルの陰謀や策略に満ちたとんでもない事件に引きずりこまれることになりそうだった。ハードボイルド・ミステリー、サイバーパンクSF、モダン・ホラー、ネオ・ファンタジー。新感覚のスリップストリーム・ドラマ『新世紀探偵』は、ご覧のスポンサーの提供でお送りします。

 プーティーウィッ?

3へ続く)

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thx :)