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日本語は絶滅しました(第二部:おかしな二人組)

 『東京の鱒釣り』の第一稿を仕上げた私は、武蔵野みなみ病院を退院してからというもの、毎日のようにネネムと打ち合わせをしていた(ネネムは忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ私のために時間を作ってくれた)。ネネムが私の第一稿をテキストファイルとして書き起こしてくれたので、第二稿からは私は自分のラップトップで作業をしていた。スターバックスなんかで直接会って話すこともあったし、リモートでビデオ通話をすることもあった。

 毎朝、目を覚ますと、私はまずデスク上のラップトップを立ち上げ、『東京の鱒釣り』のテキストファイルを開き、第一稿を推敲していった。文体をぎりぎりまで締め上げ、さらに描写が必要だと判断した部分には書き込みをし、逆に不要だと判断した部分は徹底的に削り、細部にいたるまで気を配ってテキスト上の整合性をとった。ネネムは私が推敲した箇所をさらにチェックし、編集者としての視点と一読者としての視点から厳しくコメントを寄せた。あくまでも最終的な判断は作者の私に一任されていたが、ネネムが一言でもコメントを付けたポイントは必ず見直したし、必要があればブラッシュアップをした。私はレッドブルを何本も飲み、その都度空き缶をゴミ箱に放り投げながら、ラップトップのキーボードを叩き続けた。毎日がそのような地道な作業の繰り返しだった。

 週に一度は武蔵野みなみ病院へ通院して、担当医とセッションをしなければならなかったし、生活費のために再開したフリーライターの仕事で大幅に時間を取られはしたが、それでも何とか小説を推敲する時間を作った。恐らく私一人では続けられなかったと思う。書けばネネムが読んでくれるとわかっていたからこそ、何とか苦しい仕事を続けることができたのだ。



 私とネネムは毎日いっしょに顔をつき合わせて作業をしていく中で、自然と精神的な距離を縮めていった。もちろん話の中心は『東京の鱒釣り』のことだったけれど、それ以外の話もたくさんした。

「田中さんのいちばん好きな作家って誰?」と私はあるとき聞いてみた。

「宮沢賢治」とネネムは即答した。

「もしかしてと思ってたけど」と私は言った。「田中さんの名前ってやっぱり『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』から取ってるんだ」

「『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』」

「何?」

「ネンが一つ抜けてます」

「『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』」と私は言い直した。

「正解」とネネムは言った。「親が私を授かったとき、ちょうど宮沢賢治全集を読んでいたからだそうです。ちなみに妹はマミミと言います。二人揃って子どものころは、さんざんキラキラネームだ何だと揶揄されましたが」

「でも、ネネムってとても素敵な名前だと思う」と私が言うと、ネネムは「恐縮です」と両手を合わせて拝んだ。

 私はそれからネネムの出身地と家族構成を知り(岩手県出身で両親二人に妹のマミミ)、ネネムの血液型を知り(AB型)、ネネムの星座を知り(みずがめ座)、ネネムの学生時代の専攻を知った(近代日本文学で卒論は『宮沢賢治の詩と小説におけるトシのイメージ』)。ネネムも同じように、私の出身地と家族構成を知り、血液型を知り、星座を知り、学生時代の専攻なんかを知った。私たちはそのようにしてゆっくりとお互いについての知識を増やしていった。

 初めてネネムをデートに誘ったのは、『東京の鱒釣り』の推敲作業をいっしょに始めて一ヶ月ほど経ったころだった。そのころには原稿は第二稿と言える状態になっていたが、もう一度全体を見直してリライトし、第三稿を完成稿として提出しようという話になっていた。正規の担当編集である佐藤には全く話を通していなかったので、どういう反応をされるのかはわからなかったが、それでもここまで来たら最後までやってみるしかなかった。

「ところで田中さん、今週の土曜日、もし暇だったらどこかに行かない?」と私はある日のスターバックスでの打ち合わせのときに言った。その日の作業はすでに一通り片付いていて、我々はコーヒーを飲みながら他愛もない雑談をしていたところだった。

「どこかというのは」とネネムは黒縁眼鏡の奥から私をまっすぐ見つめて言った。「どこのことです?」

「熱海」

「熱海?」

「別に田中さんと行けるならどこでもよかったんだけど」と私は慌てて言った。「いまふと思いついたんだ」

 ネネムは私と熱海に行くことについて検討していたみたいだったが、やがて返事をした。

「一泊二日の予定ならいまから宿を──」

「宿?」と私はびっくりして聞き返した。「日帰りのつもりだったけど」

 ネネムは顔を真っ赤にした。



 週末を前にした夜、私は鈴木と「鯨飲」でひさびさに会う約束をしていた。

 鯨飲というのは私たちが新人賞を受賞した日、受賞記念パーティーで意気投合した二人がそのまま二次会をやった高円寺の居酒屋だった。個人経営のこじんまりとした居酒屋で、カウンター席とテーブル席がいくつかと座敷がわずかにあるだけの店だったのだけれど、さまざまな種類の酒がいつでも大量にストックされていたし、いまでは数少なくなった喫煙可能な居酒屋だった。つまみもベーシックなものから変わり種まで何でもあり(一度シュールストレミングが特別メニューとして出たことがあり、私たちは酔いに任せて注文したのだけれど、あまりの臭さに私や鈴木はもちろん、店中の客がいっせいに逃げ帰ったということもあった)、大将が寡黙なところもありがたかった(まともに喋ったところを見たことがなかった)。初めて行ったときも私たちは何時間も話し込んだし、それ以降行きつけになってからももはやお決まりになったカウンター席で何時間も話をした。私と鈴木にとっては一種のサンクチュアリと言ってもいい場所だった。

 私はまだ、病院代の支払いについての礼を鈴木に言うことができていなかった。何回かお礼のメッセージを送ろうとしたのだが、やはり直接会って言うべきだと思って送らずにいたのだ。虎屋の紙袋に詰めたギネスの8本セットとゴロワーズのカートン(どちらも鈴木が愛好している銘柄だ)を手土産に電車で移動しているとき、鈴木から「早く着いたから先に一杯やらせてもらう」と連絡が来たので、私は「了解」と返信した。電車が高円寺駅に停車すると、私は駅構内を歩いて出て、そのままガード下へと直行した。いくつかの居酒屋を通り過ぎたところで、海面からジャンプしている鯨が描かれた看板が見えた。

 鯨飲の暖簾をくぐって店内を見渡すと、鈴木はいつものカウンター席ですでに上機嫌になっていた。「親友!」と鈴木は叫んだ。クルーカットに刈りこんだヘアスタイルにいかにも陽気そうな顔立ち、カジュアルなテーラードジャケットのセットアップという見慣れた格好で、鈴木は私を出迎えてくれた。元ラガーマンということもあって、服の上からでも相変わらずその体格のよさは際立っていた。

 私は隣のスツールに腰かけると大将にビールと適当なつまみを注文し、鈴木もハイボールと追加のつまみを注文した。そして、酒とつまみが来るのを待っている間、私は「病院のこと、本当にありがとう」と言って、ギネスとゴロワーズが詰められた虎屋の紙袋を渡した。鈴木は「礼を言われるようなことは何もしてない」と初めは手土産を断っていたが、私がしつこく礼を言うとやがて受け取ってくれた。「まとまった金ができたら必ず返す」と私が言うと「それは絶対に返さないやつの台詞だ」と鈴木は笑った。

 大将がいつものように無言で私のビールと鈴木のハイボールをカウンターに提供した。「退院に。そして武蔵野みなみ病院に」と言って私たちは二人で乾杯をした。私と鈴木は酒を飲み、それぞれ煙草を吸い始めた。

「親友、それで病院生活はどんな感じだった?」

「想像していたより悪くはなかった」と私は言って、病院で行われていた毎日のルーティンのことや、ブローティガンが夢に出てきて『東京の鱒釣り』を書き始めたことや、一週間に一回ネネムと電話をしていたことや、隊長とイトのことなどをかいつまんで話した(隊長のイラク時代の話や、イトが打ち明けてくれたバイク事故の話は黙ったままでいた。それは隊長とイトが私を個人的に信頼して話してくれたエピソードだったからだ)。

「なるほど」と鈴木は煙を吐いた。「作家としての感想だが、なかなか興味深そうな世界だ」

「確かに興味深い世界ではあった」と私も灰皿の縁で煙草の灰を落としながら言った。「でも、病院にいる間、よく考えることがあったんだ。こちら側とあちら側のいったいどっちが正常な世界と言えるんだろうって」

「こちら側とあちら側というのは要するに精神病院の中と外側の世間ということか?」

「うん」と私は言った。「あるいは両者は一種の合わせ鏡のようなもので、はっきりとどちらが正常かというのは簡単にジャッジできない問題なのかもしれないけど」

「ヘンリー・ダーガーなんかがいい例だが、アール・ブリュットの世界でもよく問題になることだな」と鈴木はハイボールを飲みながら言った。「どちらが正気でどちらが狂気か。どちらがインでどちらがアウトか。そもそも誰がジャッジするのか、あるいはどこにラインがあるのか。難しい問題だよ」

「鈴木は『うわさのベーコン』って読んだことある?」

「猫田道子」と鈴木は私を指差した。「高橋源一郎が絶賛している小説だったよな。出会ったころのお前に薦められて──お前が薦めたんだよ──読んだ。確かにものすごい小説だった」

私はそうしきをしてもらいました。その時、普段泣かない人も泣いていました。私はじょう仏できそうです」と私は『うわさのベーコン』の最後の一節を暗唱した。「あれは文学におけるアール・ブリュットだと思っていて、私もものすごい小説だと思うし、実際ことあるごとに読み返しているんだけど、ときどき考えることがあるんだ。いまこの小説を読んでいる自分は、無自覚にインサイダーの側に立って、勝手にアウトサイダーと定義した猫田道子をジャッジしてしまっているんじゃないかって。もっと言えば『インサイダーなのにアウトサイダーを評価できる自分って気が利いてる』みたいな自己陶酔感を感じているんじゃないかって。それってものすごくエゴイスティックなことだろう」

「確かにそうかもしれない」と鈴木は言った。「でも、身も蓋もないことを言えば、この世界に生きる人間は多かれ少なかれ、誰もがインサイダーで誰もがアウトサイダーだ。ただ、環境や状況によって、インかアウトかが変わるだけで、こちらではインでもあちらではアウトになるかもしれない。今日はインでも明日はアウトになるかもしれない。それに元々作家なんていうのは、どれだけ立派な文学賞を受賞しようが、どれだけベストセラーを出そうが、どのみち──お前の言葉を借りれば──アウトサイダーだ。アウトサイダーが同じアウトサイダーを評価しているんだから、そこまで気に病むことでもないと思うが」

 それから我々はしばらく黙って酒を飲んだり、つまみに箸を伸ばしたり、煙草を吸ったり、大将が皿やグラスを洗っているところを眺めたりしていた。

「ところで親友」と鈴木は言った。「お前は田中さんと付き合っているのか?」

「付き合ってない」と私はすぐに否定した。「どうしてそう思ったんだよ?」

「言わせてもらうが、未婚のお前よりバツイチの俺の方が恋愛経験は豊富だ」と鈴木は冗談まじりに言った。「話を聞いていればそれくらいのことはわかる。それで田中さんのどこが好きなんだ?」

「どこが好きとか具体的なことはまだわからない」と私は正直に言った。「でも、田中さんといっしょにいると、何て言ったらいいのか、宇宙のへこみにぴったりおさまっているような気持ちになるんだ」

「宇宙のへこみだって?」と鈴木は大声を上げて笑い始めた。「宇宙のへこみって何だよ?」

「宇宙のへこみは宇宙のへこみだ」

「わかったわかった」と鈴木は笑い終わると涙を拭いながら言った。「月並みな言い方に翻訳すると、フィーリングが合うってことだな」

「そういうこと」と私は言って、残っていたビールを一気に飲んでしまった。

 それから私たちはさらに何杯もの酒を飲み、さらに何本もの煙草を吸った。大将は(無言で)なみなみと酒が注がれたジョッキを何回もカウンターに提供し、吸い殻でいっぱいになった灰皿を何度も交換した。その夜、私と鈴木は終電を逃し、二次会と称して近くのカラオケ館に移動し、泥酔状態で朝まで歌っていた。明け方ごろになって始発で帰る前、二人で最後にデュエットしたのはいつもお決まりの坂本九『上を向いて歩こう』だった。



 熱海へ行く当日の朝、私とネネムは東京駅の東海道・山陽新幹線のりばで待ち合わせをしていた。私は約束の時刻より先に改札口に着いたので、岩波文庫版の『谷川徹三編・宮沢賢治詩集』を読みながらネネムを待っていた。リュックサックの中には一泊二日分の着替えと万が一何かを書きたくなったときのためにラップトップを詰めてきていた。

 やがてネネムがやって来た。黒縁眼鏡に三つ編みというスタイルは相変わらずだったが、今日は見慣れたワイシャツにスラックスという格好ではなく、上品な花柄のワンピースを身に付けて、旅行用のトランクを引いていた。ネネムは「おまたせして申し訳ないです」とていねいに頭を下げたが、私は「さっき来たばかりだから大丈夫。切符を買いに行こう」と言って、改札横の切符売り場に行こうとした。微弱な揺れを感じ始めたのはその瞬間のことだった。

 特撮の怪獣の唸り声みたいな音が地底から響き渡って、直後に揺れは立っていられないほど激しいものになった。私はとっさにネネムの腕をとり、床に伏せた。駅構内を歩いていた周りの人々も悲鳴を上げながら、同じように床に伏せたり、近くにあるものにつかまったりした。正確なところはわからないが、個人的な印象では揺れは一分近く続いた気がした。本当に地底から怪獣が這いずり出てくるのではないかというくらい、ひどい揺れだった。私やネネムや周囲の人々のスマートフォンにいっせいに緊急地震速報の通知が来て、辺りにはアラートが響き渡った。やがて揺れがおさまると、人々は不安そうな表情で緊急地震速報を確認した。「東京都北部を震源地とする、マグニチュード7.1、震度6強の地震が観測されました。速やかに市区町村指定の災害時退避場所へ避難してください」。

 私とネネムは顔を見合わせて、「とりあえず指示があるまでは待とう」と言い合った。私はそれから奇妙な感覚に襲われた。一言では言いづらいのだが、あえて言うなら「もうこの世界はいままでいた世界とは何もかもが違うのだ」という感覚だった。しかし、その奇妙な感覚はやがて後退していき、私は深呼吸をして気持ちを持ち直した。

 東京駅構内の人々は全体としては冷静だった。もちろん誰であれ、気が気ではなかったはずだが、駅員が動き出すまでほとんどの人々はその場で待機していたし、丸の内方面への避難誘導が始まってからはしっかり列を作って歩いた。駅を出てからは皇居外苑や日比谷公園へ退避するようにアナウンスがされていたが、徒歩で別の方面へ移動し始める人たちも数多く見られた。恐らく会社や自宅へ向かうのだろう。ネット上の速報によれば、都内の全ての公共交通機関は完全にマヒしていて、道路の被害状況も不明だったため、現時点で確実な移動手段は徒歩しかないという状態だった。私とネネムは相談の上、一時的に日比谷公園へと避難することにした。東日本大震災のときもそうだったが、本震が終わってもまだ余震による強い揺れの心配がある。ひとまず余震が落ち着くまでは、公共の避難場所で災害の状況を注視しているのがもっとも安全だろう。

 日比谷公園まで行列に着いて歩いていくと、すでに人だかりができていた。中にはベンチに座っている人もいたが、ほとんどの人々は地面に直接座りこみ、スマートフォンの画面を見守っていた。日比谷公園の象徴たる噴水は地震の影響のせいか止まっていた。私は一瞬、『東京の鱒釣り』の冒頭で書いたホセ・リサール博士像のことを思い出したが、いまはそれどころではなかった。私とネネムは適当な場所を見繕って座り、ソーシャルメディアや動画サイトで情報収集することにした。NHKによれば、政府は「首都直下型地震緊急対策本部」を設置し、首相が閣僚クラスを緊急招集したとのことだった。被害状況の詳細が分かり次第、首相による記者会見も行われる予定だった。ソーシャルメディアでは「首都直下型地震」というワードがトレンドの一位になっており、専門家やインフルエンサーや一般の人々がさまざまなことを投稿していた。フェイクニュースもすでに流れていて、「外国人のグループが混乱に乗じて百貨店で万引きした」「動物園からライオンの群れが逃げ出した」「匿名掲示板で一週間前に予言があった」「在日米軍による人工地震である」などといった明らかに虚偽とわかる投稿が数万人の間に拡散されていた。動画サイトではカルト宗教の教祖(長髪のグレーヘアにサングラス、紫のシルク地の服という格好だった)が行っている緊急生放送が一万人以上に同時視聴されており、「堕落した現代日本人に対する神の裁きである。当宗教の信者となり、魂の洗浄をせよ」といったことを繰り返し唱えていた。

 私とネネムはお互いが得た情報を交換し合った。そして地震そのものの直接的な被害も甚大だろうが、ネット上における間接的な二次災害もこれからどんどんひどくなるだろうということを話した。

 日比谷公園に着いてから一時間ほど後に余震らしき揺れがあったが、本震ほどはひどくなかった。役場の職員たちは園内に仮設の相談所や医療スペースを設けていて、昼前から希望者にパンとミネラルウォーターの配給もするというアナウンスをしていた。私とネネムは長いこと配給の行列に並んでパンとミネラルウォーターを受け取り、食事をしながら引き続き情報収集を続けようとした。しかし、被害状況に関する情報はいまだに断片的なものばかりだったし、予定されていた首相による記者会見も行われないままだった。

 私とネネムはやがてネット上に流通する莫大な情報の量に疲れてしまい、スマートフォンを見るのをやめた。どうやら周りの人々も疲れ始めているみたいだった。そして、日比谷公園を後にするグループも増えてきた。余震からさらに一時間が経とうとしていたし、そろそろ勤務先なり自宅なりに移動しても問題ないと考えたのだろう。私とネネムも事態の推移を鑑みるに、一旦自宅に戻って被害状況を確認した方がよさそうだった。ネネムのアパートは明大前にあるということだったので、ひとまずそこを目的地にすることにした。

 私たちは日比谷公園を出て世田谷方面に歩き始めたが、街は不気味なくらい静かだった。人々はそれぞれの目的地に向かってぞろぞろと歩いていた。ときおり遠くからパトカーや救急車のサイレンが聞こえてきたが、私たちの歩いているルートでは表立った被害は(いまのところ)ないようだった。

「田中さんの家、大丈夫かな」と私は何か言わなければならない気がして言った。

「新築に近い物件ですし、一応、個人的に地震対策もしてましたが、あれほどの揺れでしたから」とネネムは言った。「先生の家も無事だといいですが」

「私のところは前世紀から建っているようなおんぼろだから、もしかしたらぺしゃんこになっているかもしれない」

「もしどっちもぺしゃんこになっていたら──」

「それはそのときにまた考えよう」



 表参道を経由して歩いている途中、私のスマートフォンに着信があった。「鈴木」という名前が画面に出ていた。

「もしもし」と私が電話に出ると「よかった」という鈴木の声が聞こえた。

「無事だったか、親友?」

「何とか」と私は歩きながら答えて、ネネムに「鈴木からだ」と囁いた。

「いま誰かといっしょにいるのか?」

「田中さん。いま二人で明大前の田中さんのアパートを見に行くところなんだ。鈴木は大丈夫だった?」

「地震で目が覚めた。昨日は夜遅くまで佐藤さんと打ち合わせをしていて、寝るのが遅かったんだ。さいわい、家具や家電がいくつか倒れて壊れてしまったくらいで、家の中はほとんど無事だったよ」

「それならよかった」

「まず両親の安否を確認して、その次にお前に連絡したんだが、回線が混雑しまくっていてなかなかつながらなかったんだ」

 それから私と鈴木は、東京全体の被害状況やネット上での言論の動きなどについて簡単な会話を交わした。やはり鈴木もメディアから得られる以上の情報は持っておらず、続報を注視して待機しているという状況らしかった。
「とにかく無事でよかった」と鈴木は言った。「また連絡するし、いつでも連絡してくれ。田中さんにもよろしく」

「伝えておく」と私は答えて、電話を切った。

 ネネムは「鈴木先生、何ておっしゃってました?」と私に聞いた。

「地震と同時に目を覚ましたんだけど、何事もなかったって。田中さんにもよろしくって」

「鈴木先生らしいです」と言ってネネムは微笑んだ。



 明大前のネネムのアパートに着いたとき、時刻は夕方になっていた。結論から言うと、ネネムのアパートは無事だった。部屋の中もデスクの上のラップトップや書類や文房具などが床に落ちてしまっていた以外は、目立った被害はなさそうだった。ネネムの言っていた通り、かねてよりの地震対策の効果があったのだろう。

 ネネムの部屋はいたってシンプルだった。巨大な本棚には本がぎっしり詰まっていたが、家具や電化製品などの色調はすべて白黒で揃えられており、ネネム個人の秩序に従って、空間全体が一ミリ単位できっちり整理整頓されているといった印象があった。壁にはマンガ版とアニメ版の『銀河鉄道の夜』のポスターが一枚ずつ貼られていて、その横にはドライフラワーが吊られていた。私たちは二人で床に落ちてしまったものを拾い始めた。

「田中さんの部屋は無事だったみたいでよかった」と私は言った。

「備えあれば憂いなし」とネネムは親指を立てて言った。

 しかし、私たちはその後で電気、ガス、水道、ネットワークといった全てのインフラが止まってしまっていることを発見した。こればかりはもうどうしようもなかった。ソーシャルメディアを確認すると、まちまちではあったが、やはりインフラが止まってしまっているという投稿が大量に見られた。

 ネネムはクローゼットの中からオレンジ色の防災バッグを引っぱり出してきて、中のものを確認した。一週間分くらいのインスタント食品や缶詰やミネラルウォーター、簡易コンロ、懐中電灯、ろうそく、医療キットなどが床に並べられることになった。そのころにはもう外が暗くなりつつあって、さっそくろうそくを使う必要がありそうだった。

「先生」とネネムは私の方を見た。「今日のところはここに泊まっていってください」

「でも──」

「もうそろそろ夜になりますし、ここから荻窪までは歩いて一時間以上かかります。暗くなってからまた何が起こるかわかりませんし、それに──」とネネムはそこで言葉を区切った。「私が一人だと不安なので、先生にここにいてほしいんです」

「わかった」と私は言った。「今日のところは田中さんのお言葉に甘えて、ここに泊まらせてもらう。明日になったら、一度荻窪まで行ってアパートの様子を見てくることにする」

「それがいちばんいいと思います」とネネムは頷いた。



 私とネネムはろうそくを一本つけて、床に座った。二人ともスマートフォンのバッテリーは残りわずかだったが、電気はいまだに復旧していないようだった。私もネネムもなるべくスマートフォンを見ないようにして、何かあったときのためにバッテリーを温存しておくことにした。

 私たちは何かを話そうとしたが、お互いに何を話せばいいのかわからなかった。「地震のときは窓を開けておいた方がいい」といういつかどこかで聞いたアドバイスに従って、部屋の窓は全て開け放たれていた。私とネネムはしばらく外から聞こえる街のざわめきに耳をすませていた。都会の明かりは一つ残らず消え、近代以前と同じ暗闇が全てを覆いつくしていた。東京中の人々がいま自分たちと同じようにこころ細い夜を過ごしているのだ、と思った。

「そういえば」とネネムは言った。「今日の待ち合わせのとき、何を読んでいたんですか?」

「宮沢賢治の詩集」と言いながら、私はリュックサックから『谷川徹三編・宮沢賢治詩集』を出した。

「私も同じ岩波文庫の本、持ってます」とネネムは本棚を指差した。確かにそこには同じ岩波文庫の緑が並んでいた。「もしよかったら、何でもいいからその詩集から一篇読んでくれませんか?」

「もちろん」と私は言った。そして詩集のページをぱらぱらとめくった。

眼にて云ふ」と私は偶然目に止まった一篇のタイトルを読み上げた。

だめでせう
 とまりませんな
 がぶがぶ湧いているですからな
 ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
 そこらは青くしんしんとして
 どうも間もなく死にさうです
 けれどもなんといゝ風でせう
 もう清明が近いので
 あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
 きれいな風が来るですな
 もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
 秋草のやうな波をたて
 焼痕のある藺草のむしろも青いです
 あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
 黒いフロックコートを召して
 こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
 これで死んでもまづは文句もありません
 血がでてゐるにもかゝはらず
 こんなにのんきで苦しくないのは
 魂魄なかばからだをはなれたのですかな
 たゞどうも血のために
 それを云へないがひどいです
 あなたの方からみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
 わたくしから見えるのは
 やっぱりきれいな青ぞらと
 すきとほった風ばかりです


 ネネムは私の朗読が終わった後、しばらく黙っていた。ろうそくの光に照らされる横顔は、何とも言えない表情をたたえていた。私は自分の朗読がまずかったのかと思って、しばらく表情をうかがっていたが、やがてネネムが泣き始めていたことに気づいた。私はびっくりして、慌ててティッシュを数枚取って差し出した。ネネムは涙を拭きながら「ごめんなさい」と言った。

「読み方が優しかったから」

 38万4440キロメートル先の宇宙から、月の光が部屋を照らしていた。そして、開け放してある窓からはさわやかな夜風が吹いてきてカーテンを揺らした。ネネムは「ハグしてもいい?」と囁くように聞いた。私は頷いた。ネネムは私の体に腕を回してハグをした。私もハグをし返した。ネネムの体は思ったよりもとても柔らかくて、温かかった。私たちは見つめ合い、あらかじめそう決められていたかのように唇を重ねた。私たちはそれから何度もキスを繰り返し、やがてベッドに倒れこんだ。



「あの震災のとき、私は一週間ほど前に高校を卒業したばかりでした」とネネムは話し始めた。ろうそくはいつの間にか消えてしまっていて、私はネネムの隣で真っ暗な天井を見上げながら、何を考えるともなくぼんやりしていたところだった。二人ともまだ裸のままで、私たちはベッドの中で手をつないでいた。「うん」と私が返事をすると、ネネムは話を続けた。

「4月から東京の大学に進学することが決まっていて、月末にはもう岩手から引っ越す予定でした。だから、あの日も引っ越しの準備に追われていて、地震が発生したとき、私は本棚から本をとるために椅子の上に立っていました。揺れが始まったとき、一瞬何が起こったのか理解できませんでしたが、さいわい椅子から落ちてしまっただけで致命的なけがはありませんでしたし、本棚はぎりぎりのところで私の身体を逸れて倒れていました。私はすぐに『マミミ!』と叫びながら二階から一階へ階段を駆け降りていきました。その日はちょうど妹のマミミも期末テストを午前中で終えて、帰ってきていたんです。一階のリビングでは家具や家電が倒れたり、食器や花瓶が全部割れたりしてめちゃくちゃになっていましたが、マミミは何とかダイニングテーブルの下に避難していました。マミミは『お姉ちゃん』と言いながら震えているようでした。私はマミミへ手を差し伸べ、テーブルの下から連れ出しました。そして、取るものもとりあえず外に出て、いちばん近くの避難所に指定されていた母校目指して走りました。しかし、それは大きな間違いでした。

 私が住んでいたのは海辺の町でしたから、当然津波の危険性も考えなければいけなかったんです。毎年の避難訓練でも何度もそのことは言い聞かされていました。しかし、そのときの私は『何とか避難所まで行かなければいけない』ということで頭がいっぱいでした。私たちは走っている途中で津波が押し寄せてくるのを目にしました。津波は車や建物を押し流しながら、走っている私たちへと迫ってきました。そして、私とマミミは一瞬のうちに津波に飲み込まれました。私はそのとき、しっかりつかんでいたはずのマミミの手を離してしまったんです。私は『マミミ!』と叫んで必死に泳ごうとしましたが、無駄な抵抗でした。私はそのまま津波に押し流され、どこかに引っかかっていた瓦礫に思いきり頭をぶつけて気絶してしまいました」

 ネネムはそこで一旦話すのをやめた。私はネネムの手を強く握った。

「次に気がついたとき、私は避難所の床の上に寝かされていました。そこは私とマミミが避難しようとしていた母校の体育館でした。後から聞いた話では、倒れた電柱にもたれかかっていたところを地元の漁師の方に助けていただいたそうです。さいわい、そのとき波が引いていったところで、私は気絶したままそこに倒れていて、避難所へ移動するところだったその方が私を発見してくれたということでした。私はぼんやりとした頭で起き上がりましたが、すぐにマミミのことを思い出しました。そして避難所を歩き回ってマミミの姿を探しました。もしかしたらマミミも私と同じように誰かに助けられて、この避難所に運ばれてきているかもしれないと思ったからです。しかし、どれだけ探してもマミミの姿はありませんでした。仕事に行っていた両親の安否も不明でした。私は一週間近くの間、たった一人で避難所生活を送ることになりました。そのときのこころ細さや不安はいまでも覚えています。私は昼も夜もマミミと両親の無事を祈っていました。

 一週間経ってから、ようやく両親と会うことができました。両親はそれぞれ勤務先で被災し、それぞれ近くの避難所へ退避していたということでした。私たちは三人で抱き合いました。私は泣きながら『マミミの手を離しちゃった。マミミの手を離しちゃった。マミミの手を離しちゃった』と繰り返し言いました。両親は私のことを優しく抱きしめ、『みんなでマミミを探そう』と言ってくれました。そして、マミミの行方を捜索する日々が始まりました。

 私たちは県内の全ての避難所を見て回りました。しかし、どこにもマミミはいませんでした。恐る恐る死亡者のリストや身元不明の遺体も確認しましたが、やはりマミミはいませんでした。県内には同じように生死不明の行方不明者がたくさんいるということでした。それでも私たちは諦めずに捜索を続けましたが、やがて一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、三ヶ月が経ちました。ようやく避難所生活が終わって、仮設住宅へと引っ越すことができた半年後には、私たちはもうマミミがいなくなってしまったという現実を理解し始めていました。でも、それと同時に、まだどこかで生きているのではないかという希望も捨てることができませんでした。

 翌年、私は一年遅れて上京し、元々合格していた早稲田大学に被災者の特例措置で無事進学しました。両親も親戚のつてで、県内でも被害の少なかった別の市に移住することができました。私たちは地震が起きる前の『普通』だった人生に何とか戻ろうとがんばりました。もちろんマミミのことを忘れたわけではありません。地震から何年も経ったいまでも、私たちはマミミの話をする際には『いなくなってしまった』という言い方をしますし、私たちが被災したことを知らない人に家族構成なんかを話すときには──先生に聞かれたときもやはり私はそのように答えたと記憶していますが──マミミがあたかも生きているかのように話をするんです。私なんかはときどき人に話しながら、自分でも本気でマミミが生きていると信じてしまっていることがあります。それを病んでいるとかおかしいとかいう人たちもいます。でも、私たちはそのように物語を語ることによって、ある意味でマミミを生かし続けているんです」

 ネネムはそこまで話すと、寝返りを打って私の顔を見た。暗闇に目が慣れてきたおかげで、明かりがなくてもネネムの顔をしっかり見ることができた。私は何かしら言おうとしたが、やはり何も言うべきではない気がして黙っていた。「話を聞いてくれてありがとう」「うん」。そのうちに私とネネムは二人とも眠りこんでしまったみたいだった。眠っている間も私たちはずっと指を絡め合ったままだった。



 翌朝になって、ようやく首都直下型地震の被害状況が明らかになった。首相の緊急記者会見が朝方になって開かれ(ネット上で対応の遅さが厳しく批判された)、マスメディアも昨日から溢れ出していた膨大な情報をようやくまとめ上げ、ネットやテレビやラジオなどで発信し始めていた。

 私とネネムが知り得た限りの情報を総合すると、昨日の地震による死者は現在までのところ3046名、負傷者は9558名、行方不明者は1124名(しかし数字だけを見ても私たちには地震がどれくらいの規模のものだったのか全くと言っていいほど実感が湧かなかった)、都内ではいまだに公共交通機関の運行及び電気・ガス・水道・ネットワーク等インフラが寸断された状況が続いており、復旧のめどは立っていないということだった。かねてより首都直下型地震において危惧されていた東海第二発電所・浜岡原発のメルトダウンや、都心の高層ビル群の倒壊こそいまだ確認されていなかったが、郊外では住宅の倒壊が相次ぎ、一部では道路も陥没し、あちこちでガス漏れによる火災や、水道管の破裂による浸水が起こっていた。首相は記者会見で今回の地震を「長年危惧され続けてきた首都直下型地震がついに発生してしまいました」と言い「仮称ではありますが」と断った上で「今回の災害を令和東京大震災と命名します」と発表した。

 私とネネムは一通りニュースをチェックした後、明大前から荻窪まで歩いた。途中でいくつか倒壊している建物を見て、私は「絶対に自分のアパートもだめだろう」と想像していた。予想通りというか何というか、私の住んでいたアパートはやっぱり倒壊してしまっていた。築年数から言っても耐震などといったコンセプトは全くなさそうなアパートだったし、恐らくだめだろうと想定はしていたものの、実際に住んでいた場所がばらばらに破壊されてしまっているところを見ると、何だかあまりにも呆気なさすぎるような気がした。しかし、私が何よりも真っ先に思ったのは「ラップトップを持ち出していてよかった」ということだった。もし(ネネムと行くはずだった)熱海旅行にラップトップを持っていかなければ、『東京の鱒釣り』が危うくパーになるところだったから。これからはクラウド上にも原稿を保存しておこう、と私は場違いに思った。

「不幸中の幸いというか、一編集者としては先生の原稿が無事でよかったです」とネネムがホッとしたように言った。

「不謹慎なことに一作家としての私も全く同じことを考えていた」と私は微笑んだ。

 それから我々はどうしようもなく明大前へ引き返すことになったのだが、道中でネネムが私に「先生さえよければ、しばらくいっしょに暮らしましょう」と言った。私もネネムといっしょにいたかったから、異論はなかった。

「こういうことははっきりさせておきたいから言うけど」と私は言った。「私は田中さんのことが好きだよ」

「私も」とネネムは言った。「先生のことが好きです」



 私とネネムはそのようにして、明大前のアパートでいっしょに暮らすようになった。私たちは同時に『東京の鱒釣り』第三稿の推敲作業も開始した。てにをはレベルでの文章の細かい調整、キャラクターの造形や情景描写の書き込み、引用の取捨選択、事実関係のリサーチなど、ひたすらディテールを詰めていくハードな作業だったが、さいわいなことに我々は一つ屋根の下で暮らしていたから、私はネネムにいつでも意見を聞くことができたし、ネネムもいつでも私にコメントを寄せられるようになった。だから第二稿のときよりは格段に効率が上がっていて、二週間後には何とか第三稿と言える形に持っていくことができた。レイモンド・カーヴァーはかつて「ひとつの短篇小説を書き、それをじっくりと読みなおし、コンマをいくつか取り去り、それからもう一度読みなおして、前と同じ場所にまたコンマを置くとき、私はその短篇小説が完成したことを知るのだ」と書いていたが、まさにそのような地道なプロセスを経て、私たちもその夜、『東京の鱒釣り』最終稿が出来上がったことを知ったのだった。

 その二週間の間に東京は少しずつ都市機能を回復させ始めていた。電気、ガス、水道、ネットワークなど各種インフラは順次復旧し、公共交通機関は被害が甚大だった一部区間を除いて通常通り運行するようになった。佐藤からネネムにも連絡があり、「**社本社はインフラ関係や外壁の損傷はあったものの、建物そのものは倒壊を免れた。一ヶ月ほど全社員の出社を見合わせることが決定したため、当面はリモートワークでの業務となる」ということだった。

 一方で、毎日のように死者や負傷者や行方不明者の数は増え続け、ネット上にはより過激な投稿が跋扈するようになっていた。左派の論客や芸能人の政治的発言が毀誉褒貶にさらされ、震災直後に動画サイトで生放送をしていた例のカルト宗教の教祖がより注目を集めるようになり、明らかなデマとわかるフェイクニュースがたちの悪いウイルスのように増殖し続けていた。私とネネムはしばらくの間は情報を追っていたが、やがて気分が憂鬱になってくるだけだということがわかると、ソーシャルメディアや動画サイトを開くことをやめ、ネット上で配信されている映画を見るようになった。私たちは毎晩寝る前にラップトップで一本だけ映画を再生した。私もネネムも何となく最近の映画ではなく、古い映画を観たいという気分だったので、D・W・グリフィス『国民の創生』、ジガ・ヴェルトフ『これがロシヤだ』、オーソン・ウェルズ『市民ケーン』、セルゲイ・エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』、チャールズ・チャップリン『キッド』、バスター・キートン『キートンの大列車強盗』、ジョン・フォード『駅馬車』、ジャン・ルノワール『ゲームの規則』、アルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』、フリッツ・ラング『メトロポリス』、ロベルト・ロッセリーニ『イタリア旅行』、ロベール・ブレッソン『スリ』、ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』、小津安二郎『東京物語』、溝口健二『山椒大夫』などの白黒映画を(初見も再見も含めて)大量に観た。私もネネムも恐らくいまここにある今日という一日から、少しでも隔絶された古典映画に夢中になっていたかったのだと思う。

 *

 『東京の鱒釣り』が完成した直後、ネネムは佐藤にメールで「**先生の新作原稿です。ご確認よろしくお願い致します」と書いてテキストファイルを送った。佐藤からはすぐに返信があり、「明日夜までに確認して連絡する」と言ってきた。私とネネムはハイタッチした。



 佐藤との出会いは最悪と言っていいものだった。**社新人賞の受賞記念パーティーが行われたとき、一通りの挨拶を済ませて、私は同時受賞した鈴木と会場の隅で話していた。鈴木とは午前中の授賞式で顔合わせだけはしていたが、しっかりと話すのは午後の受賞記念パーティーのそのときが初めてだった。私は鈴木の『わが神わが神何故に我を見捨てたもうや』がいかにものすごい小説だったかを語り、鈴木もまた私の『新世紀探偵』がいかにおもしろい小説だったかを語ってくれた。私と鈴木は作家としてのタイプこそまるで真逆だったが、初めて会ったときから不思議とウマが合った。そして二人がお互いの作品について批評をし合っているところに、佐藤はやって来たのだった。ひと昔前の急進的な左翼の学生がそのまま定年間近になったという雰囲気で、髪の長さといい顔つきといい何となく往年の武満徹に似ていた。いかにもやり手の編集者という印象だった。

「お二人の担当編集になった佐藤です」と言って佐藤は鈴木と握手した。一応という感じで私とも握手をしたのだが、それがいかにも儀礼的なものだった。顔を合わせる前からすでに佐藤は私のことを嫌っていたのだと思う。

「鈴木先生の『わが神わが神何故に我を見捨てたもうや』、非常に素晴らしい小説でした」と佐藤は感想を言い始めた。その間、私はダビデ像のごとく黙って立っていることしかできなかった。佐藤は鈴木の「大江健三郎直系でありながら印象として完全に新しかった」という文体を褒め、「信頼できない語り手」の方法論を用いて読者との間に共犯関係を構築した鮮やかなテクニックを褒め、サルトルのフローベール論の引用が素晴らしく効果を発揮していたと褒め、作家としての将来が非常に楽しみだと褒めた。そしてひと通り鈴木のことを絶賛してしまうと、誰かに「佐藤さん」と声をかけられて「一旦失礼します」とか何とか言ってどこかへ行ってしまった。

 それが私と佐藤の出会いだった。

 佐藤の依怙贔屓はそれからもずっと続いた。鈴木に対してはマメに連絡をしていたようだったけれど、私には事務的な連絡以外はほとんどよこさなかった。佐藤はやがてプライベートでも鈴木と付き合うようになり、二人でよくゴールデン街に飲みに行っていた。もちろん言うまでもないが、私は佐藤と飲みに行ったことは一度もない。別に個人的に仲良くしたいとは思わなかったが、担当編集である以上は私に対して然るべきリスペクトを持って接してほしかった。

 しかし、佐藤は私の『新世紀探偵』については「二流のスタイルに二流のストーリー。サブジャンルのマテリアルを表層的にサンプリングしただけで全体としてホラ話以上の何でもない」という評価をしていたようだったし(私が鈴木にしつこくせがんで聞き出した話だ)、私が新作についてのアイディアを相談しようとしても、いつも「いまは忙しいのでまた」などと言って取り合ってくれなかった。担当編集の佐藤にそのように接せられたことで、私はだんだんと作家としての自信をなくしていった。もしかしたら『新世紀探偵』は何かの偶然で新人賞を受賞しただけで、私にはもう何も書けないのかもしれない。佐藤の言う通り、自分の書くものは全て「二流のスタイルに二流のストーリー」で「全体としてホラ話以上の何でもない」のかもしれない。そのようにして私は次第に何も書けなくなり、何も読むことすらできなくなった。それからのことは第一部ですでに語った。

 *

 翌日の夜、佐藤から電話がかかってきた。我々はジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーの交友関係に関するドキュメンタリー映画を観ていた。私は映画を一時停止し、ネネムは電話に出た。二人とも聞こえるように通話はハンズフリーに設定された。

「佐藤です」という音声がスマートフォンから聞こえてきた。

「お疲れさまです、田中です」とネネムは返事をした。

「昨日送ってもらった原稿を読んだが」と佐藤の声は言った。「まずその前に確認しておきたいことがある。私の理解では田中君は**社の社員で、文芸編集部に所属していて、私の直属の部下だということは間違いのないところだと思うのだが、田中君はどう思う」

「おっしゃる通りです」とネネムは私の方を不安そうに見ながら言った。

「であれば」と佐藤の声は続けた。「私には摩訶不思議でならないのだが、どうして社にも私にも無断で、直接の担当編集でも何でもない田中君がこの原稿をチェックしていたのだろう。メールによればすでにこれは最終稿で、君が責任を持って第一稿から見ていたということだったが、まだペーペーもいいところの平社員にそのような権限があるのかどうか、少なくとも私の知る限りではないと思うのだが、まだ年若い田中君は社のシステムに縛られない自由な発想をお持ちのようだ」

「申し訳ありません」とネネムは言った。「その点については──」

「私が田中さんに依頼したんです」と私は言った。

「**先生」と佐藤の声は私が同席していたことに驚いたようだった。「今日は摩訶不思議なことばかりだ。なぜ**先生と田中君がいっしょにいるのか、プライベートな問題なのであえて詮索はしませんが、本題に話を戻すと、**先生の方から田中君に直接原稿を提出されたということで」

「その通りです」と私は言った。「私のたっての希望で、直接田中さんに原稿を提出させていただきました」

「しかし、**先生ももちろんご存知のこととは思いますが、あなたの担当編集は私であり、田中君ではありません。原則として担当編集以外の人間が一から原稿をチェックするなどということはありえないのですが」

「もちろんそのことはよく知っています。その上で、佐藤さんではなく田中さんに原稿を見てもらったんです」

「聞くのも野暮ですが一応お伺いしておきましょう。なぜ担当編集の私ではなく、わざわざ田中君を指名されたのでしょうか」

「あなたが嫌いだからです」と私は言った。「そしてあなたも私のことを嫌っているからです。作家と担当編集がそのような険悪な状態にあっては書くものも書けませんから、田中さんにお願いしたんです」

「**先生も作家とはいえ、曲がりなりにも立派な社会人とされている年齢ですから、差し出がましく私が申し上げることでもないのですが、好き嫌いで仕事をされては困ります」と佐藤の声は言った。「子どもでもあるまいし、いちいちそんなことで社の手順を無視されては、それこそ出版できるものも出版できなくなります」

「結構です」と私は言った。「それに好き嫌いで仕事をしているのは佐藤さんの方でしょう。あなたが担当編集である限り、私は何も書けませんし、もし書けたとしても、あなたが担当編集なら出版なんかしない方がましです」

「**先生」と佐藤の声は言った。「この際だから正直に申し上げますが、できることなら私だってあなたの担当編集などやりたくないんです。社の人員不足で仕方なくあなたの担当もかけ持ちしているだけで、私だって鈴木先生のような将来性のある作家の方だけ担当していたいんです。しかし、一会社員である以上、そのようなわがままは言っていられませんし、何よりも業務を円滑に遂行することを第一に考えなければなりません。ですから、個人的な見解や価値観は別として、それがどれほどつまらない作品であろうと、私はまず無事に出版することだけを最優先に仕事をしているつもりです」

「もしいま佐藤さんがおっしゃったことが本当なら」と私は言った。「どうして私にだけそのようなスタンスで接していただけなかったのか、理解に苦しみます」

「それは誤解というものです」と佐藤の声は言った。「私は**先生の担当編集として、できるだけのことはやってきました。もしそれがご不満だったというのであれば、どこへなりと出版社を変えていただいた方が、私にとっても、あなたにとっても有益だと思います」

「わかりました」と私は言った。「次回からはそのようにします。でも、『東京の鱒釣り』に関してはすでに田中さんとの共同作業で最終稿を仕上げてしまっているし、佐藤さんにも一応送らせていただいていますから、今回だけは**社から──」

「そのお話ですが」と佐藤の声は言った。「まことに残念ながらこの小説は出版できません」

「どうしてですか?」

「担当編集である私がそのように判断したからです。簡単に言えばボツということです」

「納得できません」と私は言った。「もっと詳しい理由を聞かせてください」

「わかりました」と佐藤の声が言った。「**先生がそうおっしゃるのであれば、ご説明させていただきます。まず『東京の鱒釣り』という小説全体の構造ですが、タイトルからしてもリチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』への直接的なオマージュであり、47篇という断章の数もそのように計算されて書かれているのは言うまでもないことです。しかし、正直に言って、私には**先生がブローティガンにオマージュを捧げる必然性が理解できませんでしたし、また実際に作品を読んでみても、ブローティガンの伝記的事実とあなたのエピソードが有機的に絡み合って機能しておらず、ただただひたすら冗長で散漫な印象を受けました。あるいは言い方を変えれば、あなたは自分の小説の強度を上げるために、リチャード・ブローティガンという作家や『アメリカの鱒釣り』という作品の権威を故意に利用しており、それは一種の文化の盗用であるとすら言えます。そのような文学的倫理にもとった小説を**社から出版することは、一編集者としてとうてい認められません。そして、これが何よりも致命的なことですが、小説として全くおもしろくもなければ、全く新しくもありません。一言で言えば、目の前で**先生の文学的マスターベーションを見せつけられているような気持ちになりました。セルバンテスなどをもう一度読み返して、書くことについての小説を書く、あるいは書かれることについての小説を書くということを一から勉強なさった方がよろしいかと思います。私からは以上ですが──」

 私はネネムのスマートフォンの画面をタップし、通話を切った。ラップトップを立ち上げ、『東京の鱒釣り』をごみ箱までドラッグ&ドロップした。そして「ごみ箱を空にする」を選び、「ごみ箱にある項目を完全に削除してもよろしいですか?(この操作は取り消せません)」というメッセージに対して「はい」をクリックした。

 そのようにして、『東京の鱒釣り』は消滅した。



 ほどなくして、ネネムは**社を辞めた。私がどれだけ理由を問いただしても、ネネムは「どのみちそろそろ辞めようと思っていたんです」と微笑むばかりだったが、そのような話は一度も聞いたことがなかったし、実際なぜ辞めざるをえなかったのかは私がいちばんよくわかっていたはずだった。



 それから一年の月日が流れた。



 東京は復興し始めていた。’64年以来、二度目の東京オリンピックが東日本大震災と令和東京大震災の二つの災厄からの復興五輪と銘打って開催され、世界中から集まったスポーツ選手の活躍に人々は熱狂した。オリンピック絡みのいくつかのスキャンダルがあり(五輪委員会のメンバーにスポンサー企業からの収賄疑惑が出たり、開会式の演出担当だった人物が過去に語ったナチス・ドイツ礼賛発言が原因で降板させられたりした)、直前まで反対派の意見も根強かったものの(オリンピックなどといった茶番につぎこむ資金があるなら東北や東京の復興にもっと財政を傾注するべきというのが反対派の主張だった)、蓋を開けてみれば人々はエンターテインメントとしての五輪を楽しんだし、NHKが独占放送したテレビやラジオでの中継や動画サイトでの配信の視聴者数もものすごかったらしい(私やネネムは期間中一度も大会を見なかったがソーシャルメディアでの盛り上がりは確かにすごいものがあった)。

 しかし、その一方で、世界はよりきな臭い場所になりつつあった。国内ではカルト宗教の教祖が衆議院選挙に出馬し、メディアを始め世間一般の見方では泡沫候補という扱いだったものの、あろうことか当選してしまい、国会で「日本という国家をいま一度洗浄し、戦前の大日本帝国時代の栄光を取り戻す」などという発言を繰り返していた。ソーシャルメディアでは教祖の熱烈な支持者たちが過激な発言を拡散し、反対意見を表明するようなアカウントには問答無用でネットリンチを行っていた。海外では中国が台湾への軍事侵攻をちらつかせており、台湾の領空・領海において、度重なる軍事演習を行って世界各国の批判を浴びていた。そして、アメリカでは「チョムスキー病」という言語機能が崩壊する原因不明・感染経路不明・治療法不明の奇病が流行り始めていて、欧州やアジアでも同様の症例が確認され始めているところだった。日本国内ではまだ発症者はいなかったものの、専門家は「もはや時間の問題だ」と警鐘を鳴らしていた。

 私とネネムはそのような困難な時代にあって結婚した。



 私もネネムも正直に言って実際の結婚式を挙げられるほどの資金はなかったので、バーチャル・ウェディングを開くことにしていた。メタバース空間でリーズナブルに結婚式を挙げることができ、両親や友人はもちろん、ソーシャルメディアのフォロワーなんかも招待することができた(私とネネムはそれぞれ何人かの親しいフォロワーを招待した)。オプションとしてウェディングケーキを用意したり、二人の生い立ちを映像として流したりすることもできたが、私たちは追加料金なしのいちばんリーズナブルなプランを選んだ。新郎新婦の我々が入場し、牧師による誓いの儀式があり、友人代表のスピーチがあり(私とネネムは共同で鈴木を指名した)、両親への挨拶と両親からの挨拶があってという本当にシンプルなプランだった。

 牧師のアバターは私とネネムに「病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも、お互いを夫婦として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」と聞いた。私は「誓います」と言い、ネネムも「誓います」と言った。そして私とネネムはたくさんのアバターが見ている前でキスをした。すると私とネネムの顔の間からいっせいにハートマークが飛び出した。会場からは我々の結婚を祝福してくれる拍手が鳴り響いた。

 鈴木のアバターは友人代表のスピーチで「大江健三郎風に言えば、新郎と新婦はおかしな二人組と表現するべきでしょう」と言って会場の笑いを誘った。私とネネムも顔を見合わせて笑った。「そのようにおかしな二人組である親友と田中さんではありますが」と鈴木は続けた。「私の知りうる限り、これほどまでにお似合いのカップルは存在しません。新郎はまだ新婦と付き合う前、私にこう言ったことがあります。『田中さんといっしょにいると、宇宙のへこみにぴったりおさまっているような気持ちになるんだ』。共通の友人である私から見ても、二人はまさしく宇宙のへこみにぴったりおさまっているように見受けられます。お二人とも、本日はまことにおめでとうございます。私をこのようなハレの日の大役に抜擢していただいたお二人に感謝を表して、友人代表のスピーチに代えさせていただきます」

 ネネムのアバターは両親への挨拶の中でマミミのことについて触れた。「それからもう一つ、どうしても話しておきたいことがあります」と言った上で、ネネムは続けた。

「妹のマミミのことです。今日、マミミがここにいないことを私はいまだに不思議に思います。本当なら、マミミはここにいたはずでした。まだマミミが生きていて、大人になっていたら、もしかしたら私と同じように愛すべき誰かと恋に落ち、結婚して、幸せに暮らしていたかもしれません。でも、あの日の津波が全てを奪ってしまいました。津波は私たちからマミミを奪い、マミミからあの先ありえただろう未来を奪いました。私はあのとき、しっかり握っていたはずのマミミの手を離しました。あれ以来、自分がマミミの手さえ離さなければよかったのだと後悔しなかった日はありませんし、恐らくこれからも後悔し続けていくことでしょう。しかし、私は最近、このように思うようになりました。マミミは──あえてこのような言い方をしますが──すでに亡くなった人間であり、私たちは生き延びたのです。死者は永遠に若いままですが、生きている私たちは毎日少しずつ老いていきます。神様は誰しもから、平等に取り分を取っていくのです。そのような長いようで短い、短いようで長い人生において、私たちはいつまでも過去のことばかりを考えているわけにはいきません。僕たちしっかりやろうねえ。ジョバンニの言う通りです。私たちはしっかりやらなければいけません。私たちはやり直すことができない過去ばかりではなく、この先にやってくる不確かな未来をこそ、ちゃんと見ていなければならないのです。僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。お父さん、お母さん、今日まで私を育ててくれて本当にありがとう。そして、マミミへ、いつも遠くから私を見守っていてくれてありがとう。カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。これからもどうか、私の人生の道行きを照らしてくれる、確かな一すじの光であってください」



 結婚式が終わった後で、私たち夫婦と鈴木は鯨飲で落ち合うことになっていた。「いい結婚式だった」と鈴木はいつものカウンター席で乾杯した後で言った。「田中さんのご両親への挨拶、本当に素晴らしかった」

「ありがとうございます」とネネムはグレープフルーツサワーを飲みながら言った。「鈴木先生のスピーチもとても素敵でした。おかしな二人組」

「宇宙のへこみ」と私もビールを飲みながら言った。「鈴木、今日は本当にありがとう。私からもあらためてお礼を言わせてほしい」

「いや、今日の主役はあくまで二人だからな。少しでも式に貢献することができたなら、友人代表冥利につきるよ」と鈴木はハイボールを飲みながら満足そうに言った。

 それからしばらく三人で雑談をしながら飲んでいたのだが、やがてネネムが酔い始めて、そのままカウンターにつっぷして寝てしまった(ネネムは下戸もいいところで今日のような特別な日にしか飲まなかったから)。まだ終電までには余裕があったので、私と鈴木はネネムをそのまま寝かせておくことにした。私もネネムもバーチャル・ウェディングの準備やら何やらで、ここ最近ずっと忙しい毎日を送っていたのだ。

「そういえば」と鈴木は言った。「今日のようなめでたい日にふさわしい話ではないと思うんだが、田中さんのご両親への挨拶を聞いていて、お前に話したくなったことがあるんだ」

「何?」

「元妻の小夜子のことなんだが、離婚した理由は前に話したことあったよな?」

「詳しくは知らないが、お前の口から小夜子さんの浮気が原因だったと聞いた記憶はある」

「いまさらなんだが、正直に言うと離婚の原因は浮気じゃなかったんだよ」

 週末ということもあり、鯨飲の店内は賑わっていて、会社員らしきグループがテーブル席と座敷席に一組ずついた。ときどき大音量で笑い声が上がり、アルバイトの学生が忙しそうに注文を取ったり、食べ物や飲み物を運んだりしていた。大将はカウンターの向こう側でいつも通り寡黙に調理をしており、焼き鳥を焼く音と匂いがこちらまで漂ってきていた。

「小夜子は病的なまでの嘘つきだった」と鈴木は煙草を吸いながら話を始めた。「もちろん付き合いたてのころはそんなことには全然気がつかなかったし、何なら結婚して同棲を始めてしばらくするまでは正直な方だと思っていたくらいだ。お前には前に少しだけ話したと思うが、俺と小夜子は元々、大学の読書サークルの先輩後輩だった。まあ、簡単に言えば週に一回、一つの課題図書があって、みんなでそれを批評するというような集まりだった。いまでも覚えているんだが、小夜子を初めて見たのは、課題図書がマルキ・ド・サドの『ソドムの百二十日』だったときだった(何というか毎回そんな感じのセレクトをするサークルだったんだ)。小夜子はそのとき入学したての一年生だったんだが、俺は──相手がお前だから正直に言うが──姿を見た瞬間にひと目ぼれした。艶のある長い黒髪を眉のあたりでまっすぐ揃え、何となく夢見がちな雰囲気をたたえた目つきに、まっすぐ通った鼻筋、透き通るような白い肌と唇に塗った赤いリップが印象的だった。とても一年とは思えないくらい、小夜子は大人びているように見えた。少なくとも周りの新入生たちとは全然雰囲気が違っていた。喋り方ももの静かだったし、声こそか細かったが、時折発言するときは物怖じせずに挙手したし、『ソドムの百二十日』に対する批評も一本筋が通っていて鋭かった。

 『ソドムの百二十日』の読書会の後、俺はすぐに小夜子に声をかけに行った。『二年の鈴木です』と自己紹介すると、『一年の薬師丸です』と小夜子も名乗った。

『薬師丸さん、この後何か予定があったりする?』

『特にないですけど』

『よかった』と俺は言った。『友だちと食事に行く約束があって、一応店まで予約してたんだけど、そいつが急に行けなくなっちゃって、どうしようかと思っていたところだったんだ。この近くのイタリアンなんだけど、もしよかったらこれからいっしょに行ってくれない?』

『私でよければ』

 もちろんイタリアンの店とか何とか、そういうのは全部口からでまかせを言っただけだった。でも、そういうのは誰もがつくような罪のない嘘だ。誰も傷つかないし、誰も困らない。それにそうでも言わなければ、初対面でデートに誘う格好がつかないだろう。

 大学近くのイタリアン・レストランに行って、俺たちは食事をした(俺は茄子と豚ひき肉のボロネーゼを頼んで小夜子はサーモンとブロッコリーの生クリームソースパスタを頼んだ)。小夜子は一通り食事を終えた後で、真っ先にこう言った。

『鈴木先輩、今日友だちとここに来る約束をしてたって嘘ですよね?』

『ばれたか』と俺は笑いながら言った。『嘘をついて悪かった。でも、そうでも言わないといっしょに食事なんて行ってくれないと思って』

『普通に誘われたとしても来ましたよ』と小夜子も口元に手をあてて笑った。『鈴木先輩ってすごく素敵な人だから』

 小夜子は異性に対してすぐそういうことを言うタイプの人間だった。お前もわかると思うけど、俺たちなんて、図体だけ大人になった馬鹿なガキみたいなもんだ。意中の人からそんなことを言われたら、それがリップサービスである可能性なんて全く想定せずに、相手に夢中になっていってしまう。そのときの俺も例外なくそうだった。小夜子という人間は怖いくらい他人のこころを見透かす能力に優れていて、相手とちょっと言葉を交わしただけで、自分にどんなことを言ってほしがっているのか、100パーセント完璧に理解することができた。それは一種の特殊能力と言ってもいいレベルだった。その日の俺もすでに小夜子に完璧にコントロールされていたというわけだ。

 二軒目に俺たちはバーに行った。もちろん小夜子は当時未成年だったが、もう時効だから話しても構わないだろう。俺と小夜子は酒を飲みながら、お互いについての話をした。初対面の文化系どうしがするような通り一遍の会話だ。どこで生まれてどんな風に育ったか、どういう人生を送ってきたか、何が好きで何が嫌いか、好きな小説は何で、好きな音楽は何で、好きな映画は何か。お前もまだ記憶に新しいような会話だろう。

 小夜子は京都の出身だと言っていたが、不思議と関西訛りはなかった。まだ年若かった両親は、小夜子が生まれてすぐ離婚し、片親に育てられたんだが、まだ年端もいかないころから日常的に虐待されていたという話だった。親は風俗で働いていて、ろくに家には帰ってこなかったし、たまに帰ってきたかと思えば、知らない人間を連れこんで小夜子の見ている前で平気でセックスをした(もちろん相手は毎回のように変わった)。わけもわからず小夜子が別の部屋に行こうとすると、親は決まってこう言ったそうだ。『サヨちゃんも大きくなったらやることなんだから、いまのうちからしっかり見ておきなさい』。そして、セックスが一通り済んでしまうと、決まってドラッグをやり始め、めちゃくちゃにラリっては小夜子のことを虐待した。殴る蹴るは当たり前で、食べ物や飲み物を与えられなかったり、ベランダに放り出されて部屋から締め出されたりもしたそうだ。

 小夜子はベランダに放り出されるたびに『絶対に親みたいにはならない』と思ったと言っていた。やがて、小夜子の親はあるときドラッグを切らしてしまった。そして、売人のところへヤクを買いに行った帰り、パトロールをしていた警察官から職務質問をされ、そのまま違法薬物取締法の現行犯として逮捕された。小夜子は児童相談所に保護されることになった。小夜子の親は肉親を含めた親戚とことごとく絶縁していたので、小夜子はやがて児童養護施設に預けられることになった。『絶対に親みたいにはならない』という固い信念を持って、小夜子は施設でティーンエイジャーとしての毎日を送った。そして、小夜子が受験生の年齢になったとき、長年勉強をがんばったかいもあって、一橋大学に合格した。その日、小夜子が俺と出会うまでの人生はだいたいそんなところだった」

 鈴木はそこで話を一時停止して、ハイボールを飲んだ。ネネムはまだカウンターに頭をもたせかけて眠り続けていた。私はビールを一口飲んで、話の続きを待った。

「バーを出た後、俺と小夜子はホテルに行った。どちらが誘ったわけでもなく、何となくそういう雰囲気だったんだ。俺たちは部屋のドアを開けるなり、貪り合うようにキスを始めた。小夜子はすぐに俺の足元にひざまずいてズボンと下着を脱がせ、すでに硬く勃起していたペニスを赤いリップを塗った唇でくわえた。それはいままで経験した中でいちばんすごいフェラチオだった。小夜子はものすごい音を立てて、ペニスを根本までくわえたり、亀頭の周りに舌を這い回らせたり、片方の睾丸を口に含んだりした。一言で言って、小夜子はとんでもなく淫乱だった。小夜子は俺が我慢できなくなるぎりぎりまでフェラチオをすると、ベッドに俺を押し倒し、馬乗りになって、服を着たまま素早く下着を脱いだ。それから勃起したペニスを熱く濡れたヴァギナにくわえこむと、言葉にならない吐息をもらした。小夜子の中は柔らかく温かく、どろどろに濡れていた。小夜子が『首を絞めて』と頼んできたので、言われた通り、細く真っ白な首を両手で思いきり絞めると、膣がぎゅっとペニスを締め付けてきた。そして小夜子は激しく腰を動かしながら喘ぎ始め、俺のペニスはなすすべもなく何回も射精させられた。最後の方はもう出るものも出なくなって、ペニスも睾丸も痛くなってきたくらいだったが、小夜子の方はまだ物足りないみたいだった」

 鈴木は何の感情もこめずに性行為の仔細を語った。店内は相変わらず騒がしかったが、私と鈴木の間には張り詰めたような沈黙が流れていた。それから鈴木は小夜子の物語を再開した。

「それからというもの、俺と小夜子は定期的に体の関係を持つようになった。暇さえあれば、どちらかがどちらかに連絡し、外で落ち合ってホテルへ行った。一ヶ月ほどそういう関係が続いた後で、俺はだんだんとそういうあいまいな関係に満足できなくなってきた。お前も知っての通り、俺は何につけても物事をはっきりとさせたいタイプだ。別に正義漢というわけじゃないが、あいまいなまま物事を進めていくのはどうも苦手なんだ。だから、ある夜、俺は円山町の鄙びたラブホテルの一室で『付き合ってほしい』と言った。小夜子はセックスが終わった後で、俺の腕に抱きついていたところだった。小夜子は顔を上げて『鈴木くんは私となんか付き合っちゃだめ』とつぶやいた。

『どうして付き合っちゃだめなんだ?』

『もし付き合ったら私はきっと鈴木くんをだめにしちゃうと思う。恋人どうしって関係性に甘えて、どんどん鈴木くんに依存していって、疲れさせちゃうのがわかりきってる。だから、付き合っちゃだめなの』

『そんなことは全然問題じゃない』と俺は言った。『依存したいなら好きなだけ依存すればいい。甘えたいなら好きなだけ甘えたらいい。そもそも恋人ってそういうものだろう』

『嘘じゃない?』と小夜子は上目遣いで俺を見た。『責任を持って最後まで愛してくれる?』

『もちろん』と俺は言った。『俺は小夜子のことが好きだし、責任を持って最後まで愛すると誓う。だからいっしょにいてくれ』

『鈴木くんがそうしたいなら』と小夜子はしばらく悩んでから言った。『私もそうしたい』

 そのようにして、俺と小夜子は付き合い始めることになった。小夜子が隣で笑っていてくれる学生生活は天国みたいなものだった。俺たちは二人で色んな話をしたし、色んな場所へ旅行に行った。いちばん思い出に残っているのは付き合って半年のときに初めて二人で行った箱根旅行だ。山の上の安いホテルを取っていたんだが、あんまり夜中に喘ぎ声がすごすぎて、セックスの最中にフロントから電話がかかってきた。『周りのお客様から騒音の苦情が出ておりますので、もう少しお静かに願います』。でも、俺たちはさらに大きな声を出してセックスを続けた。何というか、そのときの俺と小夜子は二人だけの世界にいて、周りが全く見えていなかったんだ。世間の大方の人間のことは馬鹿にしていたし、自分たちが世界の中心みたいに思っていた。まあ、若いときの恋愛っていうのは、誰でも多かれ少なかれ盲目なのかもしれないが、俺たちは特にそれが顕著だったと思う。小夜子は付き合う前に言った通り、かなりの依存体質で、おまけに想像を絶するほど嫉妬深かったが、当時の俺はそういうところさえも可愛いと感じていた。何となくの感じはわかるだろう?

 やがて、俺は一足先に大学を卒業して、わりと名前の知れた広告代理店に入社した。小夜子は一学年下で卒論の準備を始めていた(エドガー・アラン・ポーと日本の作家の影響関係に関する論文だった)。俺は日々仕事で忙殺され、小夜子も卒論の準備で忙しくしていたが、土日のどちらかは必ず会うようにしていた。さすがに付き合いたてのころのように、顔を合わせればすぐセックスをするという間柄ではなくなっていたが、それでも俺たちは愛し合っていた(と当時の俺は信じていた)。

 広告代理店で働き始めて半年以上が経ち、エドガー・アラン・ポー論も大詰めになってきたころ、俺たちの間に問題が持ち上がった。小夜子が妊娠したんだ。大学の講義中に突然気持ち悪くなって、トイレで吐いたので、念のために妊娠検査キットを買ってテストしたところ、陽性だったということだった。世の恋人たちにもれず、俺と小夜子は混乱した。俺はまだ働き始めて一年も経っていない新入社員で、いよいよこれからやっていくというところだったし、小夜子だって就職先こそ決まっていたもののまだ学生の身分で、どっちの側にも子どもを養う覚悟なんて全くできていなかった。もちろん俺たちは毎回避妊には気をつけていたし、コンドームをつけずにセックスをした後には、小夜子は必ずアフターピルを飲んでいた。もちろんどれだけ気をつけていたところで、子どもを授かるというのは神の采配一つだ。何度も相談した上で、俺たちは子どもを堕ろすことに決めた。もちろん費用は俺が全額出した。俺は『いっしょに行く』と言ったんだが、小夜子は『悪いけど一人で済ませたい』と言った。小夜子はそれから一週間ほど経ったある夜、仕事終わりの俺に電話をかけてきて、『堕ろしてきた』と言った。俺はしばらく何も言うことができなかったが、気づいたときには『小夜子、俺たち結婚しよう』と突然プロポーズしていた。小夜子は電話の向こうで泣き出し、何度も『うん』と言ってくれた。子どもは堕ろさざるをえなかったが、少なくとも結婚して、小夜子を守ることはできると思ったんだ。本当なら小夜子の卒業を待ってからの方がキリがよかったし、誰がどう考えてもいますぐ結婚する必要はなかったんだが、まあ、何というか、若気の至りってやつだ。

 それから俺たちは同棲の準備を進めて、調布に手頃なアパートを見つけた。年末前には何とか引っ越して、調布市役所に婚姻届を提出し、二人での生活をスタートした。小夜子は毎日ラップトップに向かって論文を書き、俺は毎日満員電車に揺られながら出社して広告代理店で働いた。正直、あのころは二人ともかなりハードな毎日を送っていたはずだったが、それでも一つ屋根の下に二人で暮らすという生活はいいものだった。やがて年が明け、小夜子はエドガー・アラン・ポー論を提出した。そして、めでたく大学を卒業し、内定をもらっていた大手の商社に勤め始めた。俺たちはこのまま幸せに暮らしていくかのように思われた。しかし、結婚して一年が経ったころ、事態は急変した」

 鈴木はゴロワーズの煙を吐きながら、カウンターの上に貼ってあるメニューに視線をやっていた。ジョッキの底で氷が溶けてほとんど水になったハイボールを飲み干すと、大将に「ハイボールのおかわりをください。それからきゅうりの浅漬けと冷奴を一つ」と声をかけた。

「小夜子はそのころ二度目の妊娠をしていた。前回とは違って今回は二人とも働いていたし、子どもを養えるくらいの貯金は貯まっていたから、やはり二人で相談の結果、今回は産もうという話になった。妊娠一ヶ月だった小夜子はまだ商社の企画経営部に毎日出勤していたんだが、その朝、小夜子は『体調が悪い』と言って仕事を休むことになっていた。俺は自分も仕事を休んでいっしょにいると言ったんだが、小夜子が『一人で大丈夫』と言い張るので、仕方なく出社することにした。

 その日は取引先との会議があって、俺はプレゼン資料を作ってUSBメモリに保存していた。しかし、会社の最寄り駅まで着いたところで、バッグの中を確認してみると、USBメモリを家に忘れてきたことに気がついた。会議は午後からの予定だったから、上司に遅刻の連絡をして、一旦家に引き返すことにした。急いでいたから小夜子に連絡するのを忘れていたんだが、家に帰ってみると小夜子の姿はなかった。初めは近所に買い物にでも行ったのかと思って、小夜子に何度か電話をかけてみたんだが、つながらなかった。その次に思ったのは、気が変わってやはり会社に出勤したのかもしれないということだった。もし出勤しているのであれば、時間的に会社にいるころだったから、迷惑を承知で小夜子の会社に電話をかけた。受付の担当がすぐに電話に出た。俺は『御社の企画経営部に所属している鈴木小夜子の夫ですが、お電話をつないでいただくことはできますか?』と言った。受付の担当は『少々お待ちください』と言って保留音を流した。待っている間、俺は気が気じゃなかった。体調が悪いと言っていた妊娠中の妻と連絡がとれないんだ。誰でも焦るだろう。

 保留音が何周かした後で、電話の向こうで受付が『おまたせしました』と言った。『大変申し訳ありません。担当に確認したところ、弊社の経営企画部に鈴木小夜子という者は在籍していないようです』

『在籍していない?』と俺は一瞬混乱して相手の言葉を繰り返した。『御社の経営企画部の鈴木小夜子です。昨年新卒でそちらに入社し、経営企画部に配属された鈴木小夜子です』

『もしかしてお電話番号をお間違いではありませんか?』と受付は言って会社の名前を繰り返したが、それは間違いなく小夜子が働いているはずの商社の名前だった。『あるいは経営企画部ではなく、別の部署かもしれません。もう一度、確認させていただきますのでお待ちください』

 しかし、どれだけ確認してもらっても、会社のどの部署にも鈴木小夜子という人間は存在していなかった。俺はわけがわからないまま電話を切って、とりあえずもう一度小夜子に電話してみた。すると何事もなかったかのように『もしもし』と言って小夜子が電話口に出た。俺は混乱したまま、『いまどこにいる?』と尋ねた。

『会社だけど』

『本当か?』と俺は言った。『さっき会社に電話をかけたんだが、どの部署にも鈴木小夜子という人間は存在していないと言われた』

『何かの間違いでしょう』と小夜子は言ったが、明らかに声色がいつもとは違った。『きっと受付の人が何かの行き違いで間違えたんだと思う』

『本当に会社にいるのか?』と俺はもう一度繰り返した。『馬鹿なことを言うみたいで悪いんだが、もし本当に会社にいるならビデオ通話にして様子を見せてくれ』

 小夜子は俺がそう言うとしばらく黙っていた。そして突然通話がミュートになり、しばらく音声が聞こえなくなった。一分くらいそのまま待たされた後で、通話は再開された。俺が口を開くより先に『もしもし』という知らない人間の声が聞こえてきた。

『誰だ?』と俺は言った。

『小夜子さんの古くからの知り合いだとでも言っておきましょう』とその声は言った。声色や口調の雰囲気から推測する限りでは、かなりの高齢の人物のようだった。『あなたにはとても信じていただけないでしょうが、決して怪しい者ではありません。小夜子さんは今日の夜にはまた、あなたのところへ帰ります』

『知り合いだか何だか知らないが、まず名前を名乗ってくれ。お前は具体的に何者で、小夜子とどういう関係なんだ』

『失礼ながら複雑に絡み合ったさまざまな理由により、私の素性を明かすわけにはいきませんが、これだけはあなたにお約束しておきましょう。小夜子さんは今日、あなたのもとへ無事に帰ってきます』

 俺はしばらく沈黙した。まるでそうすれば小夜子の現在地がわかるとでもいうように、電話の向こうに耳を澄ませていた。

『しかし』と電話の声は言った。『一つだけ条件があります。それは今日の出来事を公にしないことです。それだけ守っていただければ、小夜子さんは戻ってきますし、こちらとしても金輪際お二人に近づかないとお約束します』

『もし公にしたらどうなる?』

『もしあなたがことを大きくなさるようであれば、こちらとしても相応の対応をせざるをえなくなります。それに』と電話口の声は言った。『警告までに一言言わせていただきますが、仮にあなたが公にしようとしたところで、この一件は決して公になることはないでしょう。ただ、我々の仕事が増えるだけのことです。いわば我々の仕事を少なくするために、あなたにこのようなお願いをさせていただいている次第なのです』

『我々?』と俺は言った。『お前たちは何かの組織なのか?』

 しかし、そこで電話は突然切れた。俺は相変わらず混乱したまま、スマートフォンを耳に当て続けていたが、しばらくして正気を取り戻し、すぐ警察に通報した。そして、結果的に、小夜子はその夜には帰ってこなかった。恐らく電話の向こう側の人物が言ったように、私が警察に通報してことを大きくしたせいで、小夜子は姿を消すことになったんだ」

 そのときカウンターで眠っていたネネムが何やら寝言を言った。鈴木は時間を確認して「もうこんな時間か」と言った。私も時間を確認した。そろそろ私とネネムの終電が近づいていた。

「話がすっかり長くなってしまった。ここから先は手短に話そう」と鈴木は言った。「結論から言うと、俺がいままで知っていた鈴木小夜子=薬師丸小夜子という人物の経歴は全て真っ赤な嘘だった。警察が調べたところによれば、小夜子は京都出身でもないし、親がドラッグで逮捕された記録もないし、当該の児童養護施設に預けられていた形跡もなかった。もちろん商社勤務というのも嘘だったし、そもそも一橋の学生でもなかった(当時は警備がゆるくて学外の人間も簡単に出入りすることができたし、その気になれば学生の振りをして同じように生活することは簡単だった)。さらに言えば、数年前に堕胎手術をしたはずのクリニックにも、小夜子のカルテは存在しなかった。つまり小夜子は妊娠なんてしていなかったんだ。

 本当の薬師丸小夜子は埼玉県出身で、両親は健在。自動車工場勤務の父親とスーパーでパート勤めをしている母親の間の一人っ子だったが、はたちになる前にインターネットで出会った年上の人間と駆け落ちめいたことをして以来、実家から勘当を言い渡され、以降の消息は不明(両親は捜索願を出さなかった)。唯一、本当だったのは鈴木小夜子=薬師丸小夜子という名前と、現在妊娠一ヶ月だということだけだった(今回の妊娠で通っていたクリニックには小夜子のカルテが実在した)。つまり、俺は小夜子という人間について、全く何も知らなかったということになる。いまでも小夜子の行方はわからないし、お腹の中にいた子どもがどうなったのかもわからない。初めのうちは警察も全力を上げて捜索してくれていたが、なかなか進展は見られず、ついには日本国内に数多くいる行方不明者の一人として、ときどき交番なんかにポスターが貼られるだけになってしまった。いまでは警視庁の膨大な資料の中に埋もれてしまい、忘れ去られていることだろう。それもあるいは電話の向こうの人物の差し金だったのかもしれない。あいつらは増えてしまった仕事をきっちり片付けたんだ。

 親友、まだ結婚したばかりのお前に俺の気持ちをわかってくれとは言わない。しかし、学生時代に恋をして、たとえ若気の至りだったとしても最後まで愛すると誓い、もしかしたら生涯の伴侶になるかもしれなかった相手の全てが虚像に過ぎなかったという事実を想像してみてくれ。それはまるで月の裏側で夢を見ていて、気づいたらたった一人で取り残されていたようなものなんだ」

 鈴木はそこまで話してしまうと、カウンターの向こうに「お愛想」と声をかけた。大将は無言で伝票を差し出してきた。私は半額支払おうとしたが、鈴木は「新郎新婦と飲んで割り勘にする馬鹿がいるかよ」と言って全額支払ってしまった。

「それでも俺は何とか月の裏側から生還した」と鈴木は大将からレシートを受け取りながらわざと冗談めかした口調で言った。「小夜子の一件があってから、俺は小説を書き始めた。そして、お前と同じように、奇跡的に第一作で**社新人賞を受賞した。ある意味では、俺は小夜子のおかげで作家になれたようなものだ。この話を聞いたお前にはもうわかっていると思うが、『わが神わが神何故に我を見捨てたもうや』も、『死を想え』も、『その日を摘め』も、全て小夜子との間の出来事を書きつづった小説なんだ。確かに俺は月の裏側から生還したが、そういう意味ではいまだに魂の一部は月の裏側に囚われたままなのかもしれない。まあ、どれほど壮絶な体験をしようと、人間死なないでいる限りは生きていかなくちゃならない。いみじくも田中さんが結婚式で言っていたように、我々はやり直せない過去ではなく、これからやって来る未来を見つめなきゃいけないんだろう。親友、今日は本当におめでとう。変な話を聞かせて悪かった」

 私と鈴木はいつも通り大将に「ごちそうさま」と言ってからネネムを起こし、鯨飲の外に出た。私とネネムは終電に乗るつもりだったが、鈴木の方は「シメにラーメン屋にでも寄ってから帰る」ということだったので、私たちは駅前で解散した。別れ際「結婚初夜を楽しめ」と私に耳打ちしてから、深夜の高円寺に姿を消していく鈴木の後ろ姿は、私がいままで見ていた鈴木の頼もしい後ろ姿とは何かが違っているように見えた。

 ネネムは寝ぼけまなこで私にもたれかかりながら「僕たちしっかりやろうねえ」と言った。



 チョムスキー病が日本で流行り始めたのは、私とネネムが結婚してしばらく経ってからだった。

 一人目の感染者は大阪在住の60代の会社役員、仕事でアメリカへ出張に行ってきたばかりで、帰国後すぐにチョムスキー病の症状が現れた。海外の症例でもたびたび報告されていたことだったが、会社員はまず名詞を思い出せなくなった。たとえば「椅子」とか「月」とか「コンビニ」とか「インターネット」とか、そういう日常的に使う単語が突然出てこなくなるのだ。会社員の妻は初めのうちは単なる物忘れの一種だと思っていたのだが、あまりに夫の物忘れがひどいので認知症の初期症状ではないかと疑い始めた。そして週末になって夫婦揃って病院へ行き、色々な検査をした。その結果、脳のMRI画像に通常の認知症ではありえない異常な影が見られた。会社役員の脳に見られたその影は、まさにいまアメリカを中心に世界各国から寄せられていたチョムスキー病患者のMRI画像にも必ず確認されていたものだった。それから念のため、さらにいくつかの検査を経て、会社役員は日本で最初のチョムスキー病患者だと診断された。大手メディアはいっせいにトップニュースとして報じ、ソーシャルメディアでは数日のうちにその会社役員の個人情報が特定される事態となった。

 もちろん私たちもそのニュースを見た。しかし、その時点ではまだ私もネネムもメディアが騒ぎ立てるほどの危機感は持っていなかったし、世間の大多数の人々も同じだったと思う。「チョムスキー病などというのは海の向こうだけの話で、その会社役員は不幸にも偶然疫病にかかってしまったのだ」というのが、感染者第一号が報じられたときの基本的な論調だった。

 だが、一ヶ月後にチョムスキー病感染者第一号の会社役員が死亡し、東京でも続々と感染が確認され始めたころには、もはや人々はこの疫病を他人事だとは思えなくなっていた。そのうちに感染者は日本全国のいたるところで発見されるようになり、メディアは連日のようにチョムスキー病特集を組み始めた。いまだに感染経路も不明なら治療法も不明だったが、疫病の専門家は「あくまで仮設の段階ではあるが」と断った上で「過去のパンデミックのようにウイルスによる感染が起きているわけではなく、メディアやネット上の情報を通じて、いわば世界的規模の集団ヒステリーが起こっている可能性がある」とし、「感染防止には情報のシャットアウトがもっとも効果的だ」と発言した。

 時を同じくして、ついに中国が台湾への軍事侵攻を開始したとのニュースが報じられた。中国の国家主席は「祖国の完全統一という歴史的課題の解決に向け、我々が動くときがやって来た」という声明を発表し、台湾に向けてミサイルを数発発射し、中国軍の兵士たちを宜蘭から上陸させ始めた。台湾側も「祖国の統一などという偽りの大義名分のもと、暴力を正当化する中国側の言い分は断じて容認できない」と声明を出し、「我々は中国側の一方的な侵略に対し、断固として抵抗する」と結んだ。G7を始め、世界のほとんどの民主主義国家は台湾側の声明を支持し、各国首脳が中国を厳しく批判するコメントを出した。メディアではチョムスキー病のニュースに加え、台湾情勢のニュースまで連日報道されるようになり、中国とアメリカの関係悪化によるさまざまな影響や、日本への直接的・間接的影響について、毎日さまざまな言説が語られた。

 そして、国会では、例のカルト教団教祖兼衆議院議員が一連の事態を「チョムスキー病も台湾情勢も全てアメリカによるプロパガンダである」と言い出し、「チョムスキー病や台湾情勢をあたかも現実の出来事であるかのように報道している大手メディア及び知識人は全てホワイトハウスの操り人形に過ぎない」という発言が物議を醸した。そして、教祖の信者たちは大手メディアや知識人に限らず、チョムスキー病や台湾情勢について発言する一般人のアカウントにまで、ソーシャルメディア上で集中攻撃をするようになった。

 ネネムは一連のニュースを見て「ひどすぎる」と言った。「あまりにもひどすぎる」

 しかし、私もネネムも(あるいは世界中の一般の人々も)、このようにカタストロフィックな状況に対して、何一つできることがなかった。我々にできるのは、毎日のように報じられるニュースや毎日のように更新される言論を注視し、一つ一つをていねいに精査していくことだけだった(少なくともまともな人々はそうしていた)。

 そんなとき、私はソーシャルメディアで流れてきた一本のニュース記事を読んだ。

 「日本語が絶滅の危機!? ユネスコ発表」というタイトルで、一応の内容としては「ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の昨日付の発表によれば、日本国内におけるチョムスキー病の急速な感染拡大を受け、日本語が消滅危機言語として指定された」というものだったのだが、ひと目見るだけで明らかにフェイクだとわかるようなずさんな記事だった。しかし、私はその記事のあまりのずさんさに思わず笑ってしまい、隣りにいたネネムにもスマートフォンを渡した。記事を一通り読んだ後で、やはりネネムも笑った。

「いろはにほへと」と私は言った。

「あかさたなはまやらわ」とネネムも言った。

 よかった、と私たちは思った。なぜなら、私もネネムも日本語以外のいかなる言語もろくに話すことができなかったから。



 そのころ、私は鈴木からの紹介で、日本大学芸術学部の「文芸創作論」という講義を受け持つ非常勤講師になっていた。鈴木はしばらく前に発表した『その日を摘め』がベストセラーになって本業が忙しくなってきており、新学期からの後任として大学側に私を推薦してくれたのだ。ネネムもだいたい同じころに近所の書店でのアルバイトを見つけて、フルタイムで働き始めていた。二人とも決して高い給料をもらっていたわけではなかったが、それでも何とか生活費をやりくりしながら暮らしていた。私もネネムもそれで結構幸せだった。

 その日も私は「文芸創作論」で講義をしていた。いつも通り、教室に生徒の姿はまばらだった。出席している生徒のほとんどは机に頭をもたせて居眠りしているか、スマートフォンをチェックするかで忙しく、私の話を聞いているのは一部の生徒だけだった。初めのころこそ、そういった生徒の反応をいちいち気にしていたものだったが、そのうちにどうでもよくなった。鈴木が私の相談に答えて言ったように、仕事は仕事だ。私はあくまでも大学側から要請された業務をまじめにこなしていればいいのだ。生徒の反応などいちいち気にしていたら仕事にならない。

 私はここのところ、二葉亭四迷を同時代人の夏目漱石、森鴎外と並ぶ近代日本最初にして最大級の作家として生徒たちに講義していた。『浮雲』の言文一致体がいかに革命的だったか、ツルゲーネフ『あひゞき』の翻訳が当時の若い作家たちにいかに影響を及ぼしたか、『平凡』がいかにポストモダンを先取りした(あるいはポストモダンをも超越した)ものすごい小説なのか、二葉亭四迷を読むことで現代で何かを書こうとする我々がどのようなことを学べるのか、私は毎回スライドを用いながら熱く語った。しかし、生徒たちの反応はあまり好意的なものとは言いがたかった。

 その日も講義の終盤にスライドを消し、照明をつけると、生徒たちは眠そうな顔で私を見ていた。私は「では、今日も最後にミニレポートの課題です。書きたいことを書きたいように、書きたいだけ書いてください」と言った。ほとんどの生徒たちは「あ」とだけ書かれたテキストファイルを私のメールアドレスに送りつけ、さっさと教室から姿を消していった。しかし、後ろの方の席に座っていた生徒だけは時間ぎりぎりまで残って、自分のラップトップのキーボードを恐ろしいスピードで叩いていた。アッシュピンクのボブカットというヘアスタイルにサングラスを載せ、大きめのピンクのパーカーに、ブルーのゆるいジーンズという格好だったが、私は「文芸創作論」でその生徒を見るのは初めてだった。その生徒は真剣な顔つきでチュッパチャップスを舐めながら、画面をにらみ続けていた。ラップトップの背面にはマルセル・デュシャン『泉』のステッカーが貼られていた。

 その生徒は講義終了一分前にレポートを送ってきた。テキストファイルのタイトルは『私が私について知っているいくつかの事柄』。ファイルのサイズからしてもかなりの長さらしかった。そして、その生徒はラップトップをリュックサックにしまって背負うと、私の方へとゆっくり歩み寄ってきた。

「どうしました?」と私は言った。

「どうしました?」とその生徒はチュッパチャップスを口から取り出すと、不機嫌そうな顔で繰り返した。「どうしましたっていうのはいくら何でもひどいんじゃない?」

 私はその生徒の顔をもう一度近くでよく見てみた。そして送られてきたメールのいちばん下に書かれた学籍番号と名前を見て、ようやく気づくことができた。

「伊藤イト」

「フルネームで言わないでよ」とイトは笑った。「ひさしぶり、ムラカミさん」



「病院にいたときと全然雰囲気が違ったから気づかなかったんだ」

「ムラカミさんは全然変わらない」

 私とイトは学食の列に並んでいた。時刻は昼どきを過ぎたころで、食堂内には生徒の姿はあまりなかった。私はいつものようにいちばん安いA定食を頼んだ。イトはためらうことなくいちばん高いC定食を頼んだ。そして我々は食堂のいちばん窓ガラスに近い側のテーブルに腰かけ、定食を食べ始めた。

「でも、本当にびっくりした」と私は食事をしながら言った。「まさか伊藤さんが日芸に進学してたなんて」

「本当は藝大が第一志望だったんだけど」とイトは食べ物を飲み込んだ後で言った。「やっぱり全然だめで。滑り止めでタマビやムサビなんかも受けたんだけど、最終的に一発合格したのはここのデザイン学科だけだった。一年浪人して再挑戦してもよかったんだけど、できるだけ早いうちに進学したかったから、『まあいいや』って感じで日芸に来ちゃったんだ。でも、私もびっくり。この前キャンパスの中の掲示を何となく見たら、新任の講師のところにムラカミさんの名前があったんだもん。初めは同姓同名の別人かと思ったんだけど、講義を聴講しに行って確かめたらやっぱりムラカミさんだった。それなのに、ムラカミさんはわたしのことなんて全然忘れちゃってるみたいなんだから」

「本当にごめん」

「それに──どんなタイトルだったか忘れちゃったけど──ムラカミさんがずっと病院で書いてた小説も送ってくれるって言ったきり、全然送られてこなかったし、わたしはてっきり『ムラカミさんは退院したからもう病院でのことは思い出したくなくて、わたしのことも忘れちゃったんだ』って思ってた」

「そういうわけじゃないんだ」と私は慌てて言った。「『東京の鱒釣り』は色々あって出版できなかったんだよ。だから伊藤さんにも送れなかった」

「へえ」とイトはあまり納得していなさそうな反応をした。「まあ、こうやって再会できたんだから何でもいいけど。それでムラカミさんは退院してからどうしてたの?」

 私は武蔵野みなみ病院を退院してからの今日までのことを(かなり短縮したバージョンで)イトに話した。『東京の鱒釣り』をひたすら推敲していた時期のこと、その中で編集者のネネムと親しくなっていったこと、東京大震災の翌日に交際を始めて現在は結婚していること、『東京の鱒釣り』が**社の担当編集からボツにされてしまったこと、それから一年はネネムと二人で何とか生活してきたこと、そして友人の鈴木に「文芸創作論」の担当講師の職を紹介してもらったこと。イトは私の話を一通り聞き終わると「ムラカミさんも色々大変だったんだ」と言った。

「伊藤さんは退院してからどうだったの?」と私は聞いた。

「わたしはね」とイトは話し始めた。「あの震災のときもまだ病院暮らしで、確かにものすごく揺れはしたんだけど建物自体はほとんど被害がなかった。でも、一週間くらいしたころに病院まで両親が迎えに来て『いますぐ広島に移住する』って言い出したの。広島には祖父母が住んでたし、次にいつまた東京を地震が襲うかわからないからって。でも、わたしは東京から出て広島くんだりまで行く気はさらさらなかった。だから代々木で暮らしてるお兄ちゃんのマンションにほとんど転がり込むような形で逃げて、そのまま大学受験をした。それからもう一年以上、お兄ちゃんの所に居候させてもらってるんだけど、もしかしたらそのうち大学の友だちとシェアハウスを始めるかもしれない。軽音サークルのバンドメンバーで、お金を出し合っていっしょに暮らそうって話があるから」

「軽音サークル?」と私は言った。「伊藤さんって楽器弾けたんだ」

「退院してから覚えたんだ」とイトは言った。「お兄ちゃんのマンションに使ってないギターがあって、それで始めてみたらものすごくおもしろくって。ほら、前に話した小沢くんって覚えてる? あの子がわたしに教えてくれた音楽──渋谷系とかネオアコとか──を練習して弾けるようになったら、何となく恩返しみたいなことができるかもしれないって思ったんだ。そこから自分でも色々音楽を掘ったり、カバーしたりするようになって、大学に行ったら軽音サークルに所属しようって決めてたの。いまではこの私がしっかりオリジナルの曲まで作ってる。今度ライブハウスを借りてライブまでやるんだよ。ちょっと信じられないでしょう?」

 それから今度行われるというライブについてしばらく会話をしていたとき、イトのスマートフォンに着信があった。「もしもし」と言ってイトは電話に出た。そして「うん」と頷きながら軽く話を始めた。話しぶりからして電話の相手はどうやら親しい友人らしかった。

 私は電話するイトの様子を見ていたのだけれど、病院にいたころとはまるで別人みたいだった。もちろん年齢を重ねて成人になったということもあるし、髪の色やファッションなど外見的特徴が変わったということもあるけれど、それよりも内面における変化が大きいみたいだった。武蔵野みなみ病院で毎日のように顔を合わせていたころ、イトは何となくいつも不機嫌そうで、何事に対しても斜に構えているみたいなところがあった。しかし、現在では──当時の鋭い雰囲気の面影はあるものの──全体としてものすごく外側に開けているというか、端的に言って素直で明るい印象へと変わっていた。私はそのようなイトの変化をこころの中でささやかに祝福した。

 イトは電話を終えると、「ムラカミさん、ごめん」とリュックサックを背負って立ち上がった。

「友だちから電話が来て、いまからお互い空きコマだからお茶でも行こうって言われちゃった」

「全然構わない」と私は言った。「ご友人と楽しんで」

「ありがとう」とイトは言った。「そういえば、これがさっき話してたライブのフライヤー。私がデザインしたんだ」

 イトはそう言ってリュックサックから一枚のフライヤーを私に渡した。自分でデザインしたというフライヤーには「日本大学芸術学部軽音楽サークル定期ライブ ロックは死んでも私たちは 下北沢シェルター *月*日」とあり、バスキア風のサイケデリックな色彩でジミ・ヘンドリックスの肖像が描かれていた。「伊藤さんさえよければ、ぜひ妻といっしょに行かせてもらう」と言うと、イトはアッシュピンクの髪をかき上げながら「まあ、ムラカミさんご夫婦に見に来られるのは何だか恥ずかしい気もするんだけど」と一瞬照れる素振りを見せた。そして「これからは毎週『文芸創作論』を聴講しに行くから。今日提出したレポート、来週までにちゃんと読んでおいてね」と言った。

「わかった」と私が頷くと、イトはひらひらと手を振りながら、自信に満ちた足取りで食堂を出ていこうとした。

「そういえば、伊藤さん!」と私は思い出したようにイトの背中に向かって叫んだ。

「何?」とイトがサングラスをかけながら振り返った。

「君のバンドの名前は?」

吠える!」



 三軒茶屋のアパートに帰ってからイトと再会したことを報告すると、ネネムはびっくりした顔で「ものすごい運命のめぐり合わせ!」と言った。「そんなことってあるんだ」

「本当に」と私はキッチンでハイネケンを飲みながら言った。そしてアメリカン・スピリットにライターを近づけた。「初めは全然わからなかった。あまりにも雰囲気が変わっていたから」

「でもあれくらいの年ごろって、一年と言わず一ヶ月でだって全然雰囲気変わっちゃうことあるから」とネネムはリビングのテーブルでホットミルクを飲みながら言った。「私たち大人の感覚とは何もかもが全然違うよ。むしろイトさんがいまだにあなたのことを慕っていたのがびっくりしちゃった」
「慕われているというのはちょっと違うと思うけど」と私は煙草の煙を吐きながら言った。「それでも僕のことを覚えていてくれて、わざわざ講義に出席してくれたのは何だか感慨深かった」

 それから私とネネムは下北沢で行われるライブの日程について、予定のすり合わせをした。週末だったから大学の仕事はないはずだったし、ネネムの方も何とか書店のアルバイトを休めると思うと言った。

「そういえば話は変わるんだけど」とネネムはマグカップを両手で持って言った。「今日ものすごく変なお客さんがいて──」

 ネネムはそこでフリーズしたように突然話をストップした。そして不思議そうな顔つきをして、何かを思い出そうとしているみたいだった。

「どうした?」

「作家の名前が思い出せない」とネネムは眉間に皺を寄せながら言った。「ほら、アメリカの昔のホラー作家で、クトゥルフ神話を──」

「H・P・ラヴクラフト」

「そう! ラヴクラフト!」

「ラヴクラフトが出てこなかった?」と私は微笑みながら言った。「元**社の敏腕編集者で現在書店勤務の田中ネネムさんが?」

「やめてよ」とネネムも苦笑いしながら言った。「あなただって作家の名前くらい出てこなくなることあるでしょう」

「ない。僕は四六時中、文学のことばかり考えているから」

「もしそれが本当なら、何でもいいからまた書いてください、先生」とネネムは冗談めかしながら言った。「私、あなたの書く文章が賢治の次に好きだから」

「いまだに賢治の次なんだ」と私はいかにも残念そうに言った。「いつまで経っても僕は二位だ」

 そして私たちはネネムが書店で出会ったおかしな客についてのエピソードで笑い合った。それからいっしょに風呂に浸かり、頭や体を洗った。風呂上がりに再びキッチンでハイネケンを飲み、アメリカン・スピリットを吸いながら、私はネネムが洗面所でドライヤーを使っている音を聞いていた。「何でもいいからまた書いてください、先生」とネネムは言った。本当にそろそろまた何かを書くべき時期かもしれない、と私は換気扇のファンに吸い込まれていく煙を見ながら思った。『東京の鱒釣り』がボツになってからもうしばらくになる。しかし、私の頭の中には、長篇小説はもちろん、短篇小説のアイディアですら、これといったものはまだなかった。それでも、ラップトップを立ち上げて、初めの一行だけでも何かしら書いてみるべきかもしれない。私はその夜、ネネムと二人でベッドにもぐりこんだ後もずっと新しい小説のことを考え続けていた。



やせ蛙負けるな一茶これにあり

 リチャード・ブローティガンと私は、ゴールデン街のバーで(再び)隣り合わせに座っていた。ブローティガンのグラスも私のグラスも前回と同じように埃まみれで空っぽだった。そして店内にはやはりバーテンダーの姿も他の客の姿もなかった。私たちはまたカウンター席で二人きりだった。しかし、今回のブローティガンは『アメリカの鱒釣り』の表紙の帽子を被ってはいなかった。もじゃもじゃに伸びた長髪に眼鏡、そしてたっぷりとした口ひげをたくわえ、ブローティガンはこちらにグラスをかかげていた。

「ひさしぶりだね、東京の鱒釣りくん」とブローティガンは微笑んだ。何だか前より疲れているみたいに見えたし、顔の皺の深さなどからしても実際に歳をとっているみたいだった。

「おひさしぶりです」と私も微笑み返そうとしたが、夢の中では上手く微笑むことができなかった。

「君と前に会ったときからずいぶん時間が経ってしまった」とブローティガンはグラスを見つめながら言った。「あるいは全然時間なんて経っていなくて、そんな気がするだけのことかもしれないが」

「いえ」と私は言った。「あれから実際にたくさんの時間が流れました。東京では大きな地震が起こりましたし、そのせいで街は破壊され、人々が命を落としました。その一年後には(色々な問題を含みつつも)東京で二度目のオリンピックがありました。いまでは変な病気が流行ったり、大きな国が小さな国を侵略しようとしていたりします。ネット上ではみんな自分たちの正義だけが絶対だと信じて、まるで日替わりの魔女狩りみたいに誰かを攻撃し続けています。あなたが生きていた時代より、(残念ながら)世界はもっとひどいことになっているようです」

「どうせそんなことだろうと思っていたんだ」とブローティガンは鼻を鳴らして笑った。「ケネディ暗殺、人種差別、ベトナム戦争、HIV。私の生きていた時代だって同じようなものだったさ。ちなみに、その大きな国というのは、ご多分に漏れずアメリカのことだろうね?」

「中国です。いまではアメリカと同じくらいの大国になりました」

「中国」とブローティガンは不思議そうな顔をして言った。「李白と杜甫の国がそのような帝国主義的国家になるとは、時代は変わるものだな」

 それから私たちの間には一瞬沈黙が流れた。恐らくブローティガンは中国のことに思いを巡らせ、私は私でカウンターの上のグラスをぼんやりと見ていた。

「ところで」とブローティガンはひとしきり中国について考えた後で口を開いた。「東京の鱒釣りくんの『東京の鱒釣り』は無事書き上げられたかい?」

「だめだったんです」と私は正直に答えた。「『東京の鱒釣り』は担当編集の一存でボツになりました。そして私は自暴自棄になって、その場で草稿を燃やしてしまいました」

「君もなかなかやるね」とブローティガンは感心したように言った。「それでその後は? 新しい小説をまた書いたのかい?」

「いえ」と私は言った。「『東京の鱒釣り』がだめになってしまって以来、私はまた何も書けなくなってしまいました。でも、さいわい、前回とは違って本を読むことはできます。それだけが救いです」

「それなら、一応先輩作家である私から後輩作家である君にアドバイス(再び)」とブローティガンは人差し指をまっすぐ立てた。「小説を書けないときには詩を書くといい。少なくとも現役だったときの私はそうしていた」

「詩?」と私はびっくりしてしまった。「詩は読んだことならありますが、書いたことは一度もありません。もちろんあなたを始めとして、何人か好きな詩人はいますが、詩の書き方なんて全然わからないんです」

「何も難しく考えることはない」とブローティガンは言った。「私だって生前は『ブローティガンの詩は単なるヒッピーのたわごとに過ぎない』とか『Haikuを英語に密輸しようとして失敗した詩の出来損ない』とかさんざんなことを言われたものだ。それでも私は詩を書くのが好きだったから、詩を書き続けた。もちろん世間的には『アメリカの鱒釣り』の作家として名前を知られていたわけだが、私のマインドとしてはそれ以前に一人の詩人だった。いみじくも君がいつも言っているように、書きたいことを書きたいように、書きたいだけ書いてみればいいんだ」

 そして突然、私はその場で一篇の詩を思いついた。まさに天啓と言うほかなかった。急いでブローティガンに近づいて、たったいまひらめいた詩を耳に囁くと「悪くない。東京の鱒釣りくん、初めてにしては全然悪くない。その調子だ」と言ってくれた。私が「ありがとう、ミスター・ブローティガン」と言うと「ミスター・ブローティガンはやめてくれ。リチャードという名前がちゃんとあるんだから」とブローティガンは笑った。

 私はそこで目を覚ました。時刻はまだ真夜中で、ネネムは隣で寝息を立てていた。



 ベッドから慌てて飛び出して、私は仕事部屋のテーブルに向かった。そしてラップトップを開くと、忘れないうちに夢の中でインスピレーションを得た一篇の詩をタイプした。それはこういうものだった。

 魔法(のように)

 あなたに近づけたんだから
 もう何も言うべきことなどない
 それは魔法(のように)
 二度もはないこと

 あなたに近づけたんだから
 もう何もやりたいことなどない
 それは魔法(のように)
 とうてい信じがたいこと

 あなたに近づけたんだから
 もう何も難しいことなどない
 それは魔法(のように)
 あるいはばかみたいなこと

 あなたに近づけたんだから
 もう何も死ぬことなどない
 それは魔法(のように)
 一回だけだからこそ

 美しいったら



 正直、これが詩と言えるものなのかどうか、自分ではわからなかった。プロの詩人たちからしてみれば、こんなものは詩とは言えないのかもしれない。普段から詩を読む習慣のある読者たちだって、こんなものは詩ではないと言い出すかもしれない。

 しかし、私はブローティガンが「悪くない」と(たとえ夢の中ではあれ)言ってくれたことを頼りに、とにかく詩を書き始めることにした。私がいつも言っているように──ブローティガンがそのことを思い出させてくれた──書きたいことを書きたいように、書きたいだけ書いてみればいいのだ。それからのことは書いてから考えればいい。



 吠えるのライブを見るために、私とネネムは下北沢シェルターの最後列に立っていた。私はビールの紙コップを片手に、ネネムはオレンジ・ジュースの紙コップを片手に、吠えるが出演するのを待っているところだった。会場は大学生らしき若者のグループでいっぱいで、私たちと同じ年代の観客は全く見当たらなかった。私とネネムはここでもおかしな二人組だった。私が耳元で「僕たちってやっぱりおかしな二人組だ」と言うと「そんなに浮いてる?」とネネムは笑った。

 学生たちのバンドは全体としてとてもテクニカルだった。少なくとも私が学生時代に観に行ったような友人たちのアマチュア・バンドより明らかにレベルが上だった。ほとんどはコピーバンドだったが、カバーする曲のセレクトも気が利いていたし、ステージに立つことにも慣れているみたいだった。私やネネムが普段聴いているような曲もあったし、全く知らない曲もあったが、私たちは歓声を上げたり体を揺らしたりして、大いにライブを楽しんだ。最前列の方ではときどきモッシュが起こったりもしていたくらい、今回のライブは大盛況のようだった。

 そして数組のバンドがライブをしたところで、いよいよトリの吠えるがステージに現れた。ギター・ボーカル担当の黒髪をセンターパートにした男子学生、ギターとコーラス担当のアッシュピンクのボブヘアのイト、ベース担当のネイビーブルーのウルフカットの女子学生、ドラム担当の坊主頭の男子学生という、きわめてオーソドックスな編成だったが、メンバー全員の雰囲気が明らかにどのバンドよりもあか抜けていた。メンバーは全員それぞれに方向性の違うビジュアルをしていたが、全員で並んでいると圧倒的な貫禄があった。

「吠えるです」とボーカルの男子学生がバンドの名前を名乗り「本日はお忙しい中、日芸軽音サークル定期ライブにお越しいただき、本当にありがとうございました。それではどうぞ最後まで楽しんでいってください。ネジ回しでドアから錠を外せ! ネジ回しでドア自体を枠から外せ!」と言った。そして、曲紹介も何もないまま、いきなり忙しなくドラムが叩かれ、パフォーマンスが始まった。前半はフリッパーズ・ギター『さようならパステルズ・バッジ』、ピチカート・ファイヴ『大都会交響楽』など、渋谷系の楽曲が立て続けにカバーされ、その後でロジャー・ニコルス・アンド・スモール・サークル・オブ・フレンズ『ドント・テイク・ユア・タイム』のバンド・アレンジが差し挟まれた。そしてボーカルの男子学生が「再び、吠えるです。ぼくたちはどこへ行くのですか、ウォルト・ホイットマン? 店はあと一時間で閉まります。あなたのあご髭は今夜どっちを指していますか?」とギンズバーグの詩の一節を引用すると、再び演奏が始まった。後半はいずれもバンドのオリジナルで、渋谷系やネオアコといった音楽ジャンルが基礎にありつつ、ドリーム・ポップやシューゲイザーあるいは近年のエレクトロニカやローファイ・ヒップホップにまで目配せした洒脱な楽曲ばかりだった。しかし、「これでラストです。みなさん、今日は本当に本当にありがとう!」と言って始まった一曲は長尺のサイケデリック・ロックあるいはノイズ・ミュージックと言ってもいい大作で、フィードバック奏法によるギターの轟音が重ねられる中、ベースとドラムは一定のフレーズをループし、まぼろしのようなボーカルの男子学生とイトの声が現れては消え(轟音のせいで何を歌っているのかはわからなかったがときおりポエトリー・リーディングにさえ近いスタイルをとっていた)、ほとんど即興演奏とも言えるパフォーマンスが20分以上続いた。吠えるのメンバーたちは全員狂ったように楽器を鳴らし続け、その熱量はとどまるところを知らなかった(途中でイトのギターの弦が切れて急きょスタッフが二本目のギターを渡すという一幕もあった)。

 突然、何の前ぶれもなく全ての音が消え去ったときには、会場の誰もが圧倒されていたし、私とネネムももちろん同じだった。会場にはまだフィードバックされたギターの轟音の残響が響いていて、耳の聞こえ方がおかしくなっていたくらいだった。そしてしばらく間があってから、観客たちは思い出したように熱烈な拍手を始めた。それはその日いちばん大きな拍手だった。歓声や指笛の音があちこちから聞こえてきた。私とネネムも拍手をしながら、ステージ上で一列になってお辞儀しているメンバーたちに称賛の叫びを送った。吠えるのメンバーが疲れ果てた様子でふらつきながらステージから消えてしまってからも、会場の拍手はいっこうに鳴り止むことがなかった。私とネネムは顔を見合わせて「本当に最高だった!」と言い合った。



「いや、本当にすごかった!」とネネムは帰り道でもまだ言っていた。私も「確かにちょっとすごすぎた」と相づちを打ちながら、先ほどのライブのことを思い出していた。

 私とネネムはライブの後でイトから楽屋に招待された。私たちはイトにあらためて称賛の言葉を送り、他のメンバーにも一通りの挨拶をし(ネネムはイトに『おつかれさまのハグをしてもいい?』と聞いてからハグをして『ネネムさんってとっても柔らかくて温かい!』と言われていた)、差し入れに持ってきたチルアウトをメンバー全員に渡してシェルターを出た。

 それからネネムがずっと行きたがっていたカレー屋に行ったのだけれど、店を出たところで「何だか今夜は歩きたい気分だ」という話になって、三軒茶屋まで徒歩で帰ることに決まったのだった。私たちはそれぞれビールのロング缶とレモンサワーのショート缶を片手に、夜の茶沢通りを歩いていた。

「イトちゃんって本当にいい子」とネネムは言った。「私、あなたから話だけはずっと聞いてたけど、今日会ってすっかりファンになっちゃった。かっこよくてかわいくて、楽器もデザインもできちゃうなんて、信じられない」

「その上、文章も上手い」と私は言った。「毎週、伊藤さんだけが『文芸創作論』でちゃんとレポートを書いてくれてるんだけど、週を追うごとにどんどん上手くなってる。聴講生だからまじめにやっても単位なんて出ないのに、毎週必ず書いて送ってくるんだ」

「ねえ、今度イトちゃんを誘って、みんなでいっしょにご飯を食べるっていうのはどうかな。私、もっとイトちゃんと仲よくしたい」

「いいね。伊藤さんも喜ぶと思う。今度講義で顔を合わせたときに話をしてみるよ」

 そのとき、私たちが歩いている道の先に黒猫が現れた。鈴も首輪もついていないところを見ると、どうやら野良猫みたいだった。黒猫は道の真ん中で足を止めて、私とネネムの顔をじっと見上げていた。ネネムは猫の鳴きまねをしながらゆっくり近づいていこうとしたが、黒猫はその前に走って逃げていってしまった。

「そういえば」とネネムはレモンサワーを飲みながら言った。「あなたとこうやってゆっくり散歩するのって震災のとき以来かも」

「そうかもしれない」と私もビールを飲みながら言った。「あのときはこんなにのんびり話していられる状況じゃなかったけど」

「私たちはまだ付き合ってもいなかったし、そもそも作家と編集者って関係性だった」とネネムは言った。「私、あのころはまだあなたのことを先生って言ってたしね」

「僕も君のことを田中さんって言ってた」と私も言った。「ジュラ紀か白亜紀くらい昔のことみたいに思える」

「ねえ」とネネムは言った。「いままでちゃんと聞いたことなかったけど、あなたっていつから私のことが好きだったの?」

「いつから?」と私は聞き返して記憶を洗いざらいたどってみた。そしてしばらくしてから「武蔵野みなみ病院に入院した日からだと思う」

「そんなに前から!?」とネネムはびっくりしたような顔をした。「もっと後になってからだと思ってた」

「もっと後って?」

「箱根じゃなくて──」

「熱海?」

「そう、熱海に誘ってくれた日とか」

「あのときにはもうかなり好きだった」

 ネネムは立ち止まって、私の顔を見た。私も立ち止まって、ネネムの顔を見た。そして私の手を取って強く握りしめた。私もしっかり握り返した。

「私のこと、死ぬまで好きでいてくれる?」

「何の話?」

「いいから」とネネムはまじめな顔で言った。「あなたはちゃんと死ぬまで私のことを好きでいてくれる?」

「もちろん」と私もまじめな顔になって答えた。「死ぬまで君のことを好きでい続けるよ。死んだら生まれ変わって、クジラになろうが、ノミになろうが、君のことをまた見つける」

「ありがとう」とネネムは言った。「いま、その言葉を聞くことができてよかった」

 そしてネネムは背伸びをして私の唇に口づけした。私はネネムを抱きしめ、もう一度ゆっくりキスをした。路上には私たち二人きりだった。そして私たちは体を離すと、お互いに照れくさくなって笑い出した。「クジラとノミ?」とネネムは笑いをこらえきれずに言った。「クジラとノミっていったい何?」

「単なる言葉のあやだよ」と私も笑いながら言った。その夜は本当に空気が澄んでいて、東京の空には明るい月が浮かび、星々が鏤められたように広がっているのがよく見えた。

 月日の経ったいま思い返してみれば、そのときから──もっと言えばさらに前から──ネネムにはチョムスキー病の兆候が出ていたのだ。しかし、私はそのサインに気がつくことができなかったし、まだこのときにはネネム本人だって気づいていなかったと思う。それでも、ネネムには虫の報せとでも言うべき何となくの予感があったのかもしれない。だからこそ、突然私に「死ぬまで好きでいてくれる?」なんてことを聞いてきたのだ。私はその問いに対してもっとまじめに答えるべきだった。ネネムをもっとちゃんと抱きしめて「死ぬまでずっと君のことを好きでいる。約束する」と言うべきだった。しかし、あまりにも当たり前のことだけれど、一度過ぎてしまった過去は二度とやり直すことができないし、我々はいつでもそのときそのときに最善だと思った方を選んでいくことしかできないのだ。

終章へ続く)

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thx :)