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日本語は絶滅しました(終章:ネネムに)

『ネネムに』

 **社賞新人賞受賞作家による第一詩集、当社より近日刊行予定!



 熱海へと走るレンタカーを運転しながら、イトはチュッパチャップスを舐め続けていた。ペーパードライバーの私は助手席に座って、通り過ぎていく田舎の景色を見るともなく眺めていた。私たちはアメリカン・ニューシネマの登場人物よろしくサングラスをかけ、東京から熱海に向かっているところだった。カーステレオからはネネムが好きだった曲をセレクトしたプレイリストが流れていて、私とイトはときどき二人で歌詞を口ずさんだり、リズムに合わせて体を動かしたりした。後部座席ではネネムの遺骨をおさめた箱とイトのギターケースが車の振動で揺れている。

 そのときはちょうど、ロジャー・ニコルス・アンド・ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズの『ドント・テイク・ユア・タイム』が流れ始めたところだった。吠えるのライブで聴いて以来、私とネネムのフェイバリットになった一曲だ。短くも長かった闘病生活の間、ネネムはよくこの曲をリクエストしたものだった。

「あっ!」とイトはハンドルを握りながら声を上げた。「ネネムさんもこの曲好きだったんだ!」

「二人でよくいっしょに聴いてたんだ」と私は助手席で言った。「伊藤さんのライブで聴いてからというもの、何しろ二人ともこの曲に夢中だったから」

「本当にハッピーな曲だよね」とイトは鼻歌を歌いながら言った。「何て言っても歌詞が最高じゃない? さあやるべきことならたくさんある 僕たちは二人きりで過ごさなくちゃ これから何をすべきか学ぶために 愛がとこしえに続くように

 カーナビによれば、私たちは現在国道135号線を走っているところで、あと半時間ほどで目的地に着くということだった。私たちは他愛もない話をしながら、熱海行きのドライブを続けた。



 ネネムの葬儀は地元の岩手でささやかに行われた。私が喪主を務め、ネネムの両親や親戚一同、岩手時代の友人や知り合いが参列し、東京からは鈴木も来てくれた。葬儀で使ったネネムのポートレートは私が撮ったものだった。結婚初夜に鯨飲から三軒茶屋のアパートに帰って、二人とも酔っぱらいながら撮り合った写真。ネネムは死んでしまったことがまるで嘘であるかのように、写真の中でいつも通りの笑顔をふりまいていた。

 鈴木は葬儀の間もずっと私の近くにいて、ほとんど何も言わずに実務的なことを手伝ってくれた。そういった鈴木のふるまいが私にとってどれだけ助けになったことかわからない。「親友」と鈴木は葬儀の前日の夜、わざわざ電話をかけてきてくれた。「これまでもそうだったが、これからも俺にできることがあったら何でも言ってくれ。この世界において少なくとも一人は、お前のことをいつでも考えている存在がいることを忘れないでほしい」。私は「ありがとう」と返事をした。そして、しばらく翌日の葬儀に関することを話してから、電話を切った。

 三軒茶屋のアパートは一人きりで暮らすにはあまりにも広すぎたし、ネネムとの記憶があまりにも濃密に漂いすぎていたから、全てが落ち着くだろうころに引き払うつもりでいた。世田谷代田のあたりにすでに安価なアパートを見つけていて、管理会社との話も済んでいた。また一人きりで暮らすことにはなるけれど、私はそもそもの最初から一人きりだったのだ。それが数奇な運命のもつれによって、たまたまネネムという一人の人間と出会い、たまたまお互い愛し合うことになり、そしてまた離れていってしまった。それだけのことだ。

 そして、私はいま詩集を出版する準備を進めていた。ネネムとの闘病生活の間に毎日一篇ずつ書きためていた詩の中から、ネネムが特に気に入ってくれた詩をセレクトして編纂した一冊だった。詩集のタイトルは色々な候補があったけれど、最終的に『ネネムに』という題をつけた。セレクトされた詩の全てが(形はさまざまであれ)私たちの関係について書かれたものだったし、きっとネネムも恥ずかしがりながらも「いいタイトルだと思う」と言ってくれただろうから。



 ネネムが話すことも書くこともできなくなって寝たきりでいた最後の一ヶ月、私はベッドサイドでずっと詩を読み聞かせ続けた。ブローティガンや賢治はもちろん、世界中の詩人たちの詩集を読んだけれど、ネネムがいちばん読んでほしがったのは私が自分で書いた作品だった(まばたき一回でイエス、まばたき二回でノーというように私たちは意思疎通をしていたのだが、ネネムはあるときから私が私以外の詩人の詩集を読もうとするとまばたきを二回するようになった)。私は毎日必ず一篇書き上げては、出来上がったばかりの詩をネネムに聞かせた。その中には、作者の私としては良いものも悪いものもあったのだけれど、ネネムはたとえそれがどのような作品だったとしても、いつでも微笑みながら聞いてくれた。そして特にこころを揺さぶられた詩に対しては「ウー!」とか「アー!」とか声にならない声を上げて反応した。

 しかし、亡くなる直前の一週間は、もはや言葉の意味すらわからなくなって、ベッドサイドで詩を読んでも何も反応がなくなった。ネネムは私がテキストを読み上げる声を聞きながら、ぎょろぎょろと瞳を動かし、唇から涎を垂らして、何もない天井をずっと見上げていた。それでも毎日、私はネネムのそばで一篇の詩を書き、「今日もできたよ」と言って読み聞かせ続けた。亡くなる前の夜に書いたのは『あっ』というタイトルの非常に短い詩だったのだけれど、翌朝寝室に行ってみるとネネムはまるで眠るようにして静かに息を引き取っていた。



 熱海に到着すると、イトはレンタカーをビーチ近くのパーキングに駐車した。車から降り立つと真っ先に海の匂いがした。私はネネムの遺骨を持ち、イトはギターケースを背負って、まっすぐビーチへと歩いていった。

 オフシーズンということもあって、ビーチには人々の姿はまばらだった。遠くの方にカップルや家族連れが何組か見えるだけで、むしろ閑散としていると言ってもいいくらいだった。でも、私もイトもかえってその方がありがたかった。私とイトは階段に腰かけ、寄せては引いていく波の音を聞きながら、それぞれの記憶に思いを巡らせていた。

「そろそろ始めよう」と私はしばらく経ったころに言った。イトは頷いて、ギターケースから美しいブラウンのアコースティック・ギターを取り出した。一弦から六弦までをつま弾きながらチューニングし、全ての準備が整うと「いつでもオッケー、ムラカミさん」と言った。

 私は遺骨をおさめた箱を隣に置き、バッグから二冊の詩集を取り出した。『谷川徹三編・宮沢賢治詩集』とリチャード・ブローティガン『チャイナタウンからの葉書』。そしてあらかじめ片隅を折っておいたページを開き、詩を読み上げ始めた。イトはアコースティック・ギターを脚の上に載せ、スローなテンポのものがなしいフレーズを弾き始めた。

 無声慟哭

 こんなにみんなにみまもられながら
 おまへはまだここでくるしまなければならないか
 ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
 また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
 わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
 おまへはじぶんにさだめられたみちを
 ひとりさびしく往かうとするか
 信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
 あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
 毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
 おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
 (おら おかないふうしてらべ)
 何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
 またわたくしのどんなちひさな表情も
 けつして見遁さないやうにしながら
 おまへはけなげに母に訊くのだ
 (うんにや ずいぶん立派だぢやい
 けふはほんとに立派だぢやい)
 ほんたうにさうだ
 髪だつていつそうくろいし
 まるでこどもの苹果の頬だ
 どうかきれいな頬をして
 あたらしく天にうまれてくれ
 (それでもからだくさえがべ?)
 (うんにや いつかう)
 ほんたうにそんなことはない
 かへつてここはなつののはらの
 ちひさな白い花の匂ひでいつぱいだから
 ただわたくしはそれをいま言へないのだ
 (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
 わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
 わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
 ああそんなに
 かなしく眼をそらしてはいけない

 イトのアコースティック・ギターはなおも孤独なリズムを刻み続けた。私は宮沢賢治の詩を読み上げてしまうと、今度はリチャード・ブローティガン『チャイナタウンからの葉書』のいちばんおしまいのページを開いた。そして一度だけ深く呼吸をして、再び詩を読み始めた。

 べえー、永遠に

 こまの底にしがみついて
 ぐるぐるまわる幽霊のように
 ぼくは
 きみなしで
 生きる宇宙の
 広さにおびえて
 いる。


 私が賢治とブローティガンの詩を読んでしまってからも、イトはまだアコースティック・ギターを弾き続けていた。それはすでに死んでしまった人々のための鎮魂歌であると同時に、生き延びてしまった私たちのための鎮魂歌でもあった。私はネネムと出会ってからの記憶を一つずつゆっくり思い出しながら、イトがつま弾くギターのメロディに耳を澄ませていた。

「ありがとう」とネネムが言った。

 隣には花柄のワンピースを着たネネムが座っていた。私たちはしっかりと指を絡めて手をつないだ。

「僕がそうしたかったからそうしたまでだよ」

 ネネムは私の顔を見ながら微笑んだ。「それでも、ごめんね」

 あっ

 いま
 愛おしかった
 (とっても)




 翌朝、寝室に行ってみるとネネムはまるで眠るようにして静かに息を引き取っていた。亡くなる前の夜に書いたのは『あっ』というタイトルの非常に短い詩だったのだけれど、それでも毎日、私はネネムのそばで一篇の詩を書き、「今日もできたよ」と言って読み聞かせ続けた。ネネムは私がテキストを読み上げる声を聞きながら、ぎょろぎょろと瞳を動かし、唇から涎を垂らして、何もない天井をずっと見上げていた。亡くなる直前の一週間は、もはや言葉の意味すらわからなくなって、ベッドサイドで詩を読んでも何も反応がなくなった。しかし、特にこころを揺さぶられた詩に対しては「ウー!」とか「アー!」とか声にならない声を上げて反応した。その中には、作者の私としては良いものも悪いものもあったのだけれど、ネネムはたとえそれがどのような作品だったとしても、いつでも微笑みながら聞いてくれた。私は毎日必ず一篇書き上げては、出来上がったばかりの詩をネネムに聞かせた。ネネムはあるときから私が私以外の詩人の詩集を読もうとするとまばたきを二回するようになった(まばたき一回でイエス、まばたき二回でノー)。ブローティガンや賢治はもちろん、世界中の詩人たちの詩集を読んだけれど、ネネムがいちばん読んでほしがったのは私が自分で書いた作品だった。

 ネネムが話すことも書くこともできなくなって寝たきりでいた最後の一ヶ月、私はベッドサイドでずっと詩を読み聞かせ続けた。ネネムはまるで眠るようにして静かに息を引き取った。



 静かの海からも遠く離れた月の裏側で、(そして)私は完璧に一人ぼっちになった。アポロ11号はとっくの昔に地球へ帰還していて、星条旗ははるかかなたで萎れてしまっていた。ネネムはいつの間にかどこかへ姿を消し、もうこの場所には私以外の誰一人としていなかった。恐らくこれまでにも誰もやって来なかったのだし、これからも誰もやって来ることはないのだろう。一面灰色の荒涼とした月世界にあって、私はあまりにも疲れきって混乱していた。もはや自分がいつ、どこで、何をしていて、誰だったのかすらわからなくなりそうだった。38万4440キロメートル先では、青の濃すぎる惑星がそれでも自転を続けていた。私は冷たく凸凹とした月の表面に横たわって、少しでも夢を見るために眠りにつこうとした。ネネムは(以下原稿なし

(『日本語は絶滅しました』 完)

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