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1113「教育あっての才能」

今回の出張旅行中は、いろんなところでワークショップ的にアイデアや設計をつくる、短期間でガッと進める系の仕事がいくつかあって、完全に柄にもないのだが、司会者としてしゃべることが多く、あとはそもそもまあ、私は打ち合わせ中にしゃべっている量が多い立ち位置だし、東京にいる際は夜になったら人とめしを食ったりすることも多いので、結局10何時間もずっとしゃべっているというのが、ここ最近の私の平日だ(どんなに時間がない日でも1日20分プログラミング的なことはやっているけど)。

そうなるとどうなるかというと、私は1日のほとんどの時間を苦手なことで過ごしているということになる。なんでこんなことになっちまったのだろうと思うが、私は先天的にしゃべるのが苦手であり、嫌いだ。幼稚園の頃から口数は少なく、お友達もあんまりできず、コミュニティになじめず、小学校に上がっても同じような状況は続き、ずっと「おとなしい人」だったかと思う。しゃべるのが好きではないというよりは、しゃべっている自分が好きではないというところもあった。大学に入ってジャズサークルに入ると、たまに「MC」というものをやらされることがあるのだが、これも、最初のうちは破滅的に苦手だった。

つまり、私は元来苦手で嫌いなことを仕事にしているところがある。しゃべるのが嫌いだからデザイナーだのプログラマーだのという、コンピュータ相手にしてればOKな仕事をやりはじめたところもあるのに、いつの間にかずっとしゃべっている。

世の中には「好きなことを仕事にする」という形があって、それと同時に「食うために好きではないことを仕事にしている」という人もいる。しかし世の中はそんなふうに簡単に二元化することはできない。私のように「好きなことを仕事にしていたら、そのうちに苦手なことを避けられなくなって、だんだんそっちばっかりになった」という人もいるだろうし、逆に、苦手なことを仕事にしているうちにそれが好きな仕事になってしまうような人もいる。

ただ、思うのは、人間いくら苦手なことであっても、才能とか関係なく「技術だけ」である程度のところまで到達できてしまうというのは間違いない。たとえば、「グラフィックデザイン」という仕事がある。私は遠い昔グラフィックデザイナーをやっていたことがあるが、結論から言うと、ある程度の技術を身に着けた後、独自で替えの効かないデザイナーになる才能がなく、つくっている対象の良し悪しがよくわからなくなってしまったところで諦めて別の職業になった。

ところが、デザイナーとしての基本的な技術というのは身についているので、わりと最低限のデザインの仕事なんかは今でも担当することはできるし、自分自身重宝する。そして、初心者のデザイナーなんかにはやり方を教えたりすることすらできる。つまり、才能はないが、「技術だけ」で、ある程度仕事ができるところまでは行ったということだ。才能があるかないかみたいのは、そこまではやってみた後での話だ。

なので、私がいま仕事上でどうにかうまいことしゃべっているのも、後天的にしゃべる技術を獲得したからだし、それどころか自分を形作っているものはかなりの部分後天的だろう。「技術だけ」ででも、ある程度のところまで行った芸を複数持っておくと複合的にかなりレアな芸が身につくというか「斧で殴れる白魔道士」みたいになることができるといえばできる。

よく言われるのが、普通の教育を受けずに何年もかかって「方程式」という概念を発明した少年がいて、その少年はすごい数学の才能を持っているのかもしれないが、何の才能もない普通の教育を受けた一般人のほうが難しい問題を解けるよね、的な話で、実際問題、才能というのは、技術的に身につけられるものを身につけて、良い教育を受けて、未開の野を前にしたときにやっと良い形で発揮されるものなのであって、そこまでは一般人も天才も大差がない、ということだ。

みたいなことを考えれば考えるほど、教育って大事だよなあと思うのと、それと「ろくに技術も習得していないのに、才能で勝負しようとする人」がいるよなあと思う。教育あっての才能なのに。そういうの考えると、まだまだ人間は教育とか才能を使いこなせていないのだなと思う。