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6/13-6/20 ブラインドタッチ練習用日記

6/13


今日は少し早起きして日課をこなしているが、子どもたちも一緒に早起きしてしまったのであまり意味はなかったかもしれない。

朝乃山の6場所出場停止の件は、重いのか重くないのかで言ったらすごく重いと思うし、あの年齢の力士にとっては大事な時期に第一線で土俵に上がりながら強くなることができない、というきつい機会損失になってしまうわけで、どうにかならんかったのかなあと思うと同時に、一方で自分が最初に大相撲を一生懸命観るようになった頃のことを思い出す。

当時の私の推しは大関霧島だったのだが、ファンというのはとにかく、推し力士の毎日の勝敗やら動向に振り回されて一喜一憂するもので、学校帰りの池尻大橋の駅に併設された本屋のイベントスペースで相撲を放送していたのだが、そこに寄っては幕内後半の取組を全部観て、霧島が勝つと楽しい気分で家に帰り、霧島が負けると沈んだ気分でその場を離れる、みたいな生活を送っていた。

私の叔父は子供の頃、先代の朝潮が好きだったらしい。今回不祥事で引退した錦島親方の朝潮の師匠、徳之島出身の横綱朝潮だ。朝潮が負けると泣いたりしていたらしいが、その気持ちというのはとてもよくわかる。

私は照ノ富士が序二段で再起した場所から注目して一番もかかさず観ているうちに、以前の大関時代はわりとどうでも良いと思っていたところ、今では完全に照ノ富士推しだが、そういう意味では自分が応援している力士が綱取りに挑むなんて、霧島の一度限りの優勝の翌場所以来のこと、20年以上ぶりなわけで、長生きするものだなあと思うが、やはり先場所の14日目の遠藤戦とか、先々場所の10日目の志摩ノ海戦とか、しんどい負け方をした後は一日を暗澹とした気分で過ごすことになる。

一方、霧島の次くらいに推していた琴錦が女性スキャンダルでスポーツ紙を賑わせたときは、とてもしんどかった。中学生である私は、そんなどうでもいいことよりも良い相撲が観たかっただけなのに、その影響で翌場所はあんまり良い気分で相撲を観ることができなかった。貴乃花と宮沢りえの騒動も、単純に相撲が観たい相撲ファンにとっては何も良いことがない、相撲と関係のない何かで、あのあたりからいったん私の相撲熱は冷めることになった。

ゆっくりタイピングしていたら時間切れになってしまったので来週。

6/14


なんかこのブラインドタッチ日記は月曜から日曜の7日間で一まとまりにして次の月曜に公開する感じのルールにしていたが、昨日書いていた内容が尻切れだったので先週のは土曜までのものを一度ひとつにまとめて公開することにして、昨日から続く話が途切れないように、次週に6/13からの文章を掲載することにする。

昨日書こうとしていたことは何なのかと言うと、力士に限らずスポーツ選手というのはそういうものなのかもしれないが、ファンというのは自分たちの勝手な思いをスポーツ選手という超人に委託するものだし、自分が誰それのファンであると表明しその一挙一動に一喜一憂するということは、ちょっとした自分の価値観の表現ですらあったりする。で、小学生や中学生のような小さい頃からスポーツ選手というのはそんな感じの依代として機能したりする。

そういう意味において、いろいろなことを背負ってしまう仕事だとは思うが、そういう意味で、競技とは関係のないノイズというのはとてもファンにダメージを与えてしまうものだし、ファンというのは繊細だ。朝乃山の人生は朝乃山の人生だけれど、そういうような人の思いを引き受けて何かに励むのがスポーツ選手という職業ではある。6場所出場停止はあまりにシビアだし、誰も幸せにならない懲罰なので、別の償い方はなかったのかとは思うが、スポーツ選手という生き方は、どうしてもそういうレベルで人に影響を及ぼしてしまいがちな生き方ではある。

ゆえに、大相撲の不祥事なんて毎週のように発生するし、慣れているのだが、あんまりファンにつらい思いをさせないで欲しいなあと思う。

5月末に受験していた英検一級の一次試験の結果が出て、どうにか合格していた。まだ二次があるが、こういう褒められ方するの久々なので嬉しかった。

6/15


息子の受験のついでではあったが、英検の一次試験に向けてはそれなりに新しい単語を習得したり、コツコツと勉強していて、それは以前にも記事で書いたとおり日常生活の英語の解像度を上げる上でいたく役に立った。英検一級なんてネイティブでも難しく考えてしまう趣味的な試験だよね、みたいなことはよく言われるが、ここ最近でやってみて意外によかったことの一つが英検一級の勉強ではあった。世の中には難しめの言葉を使う人というのはいるもので、そういう会話への対応力や、映画とかニュースの英語に対する理解力は間違いなく上がるような気がする。

とはいえ、そんなに真面目に戦略的にやって来たわけではないので、いざ一次試験に合格して2週間後二次試験ですよ、と言われても二次試験に何をやるのかよくわかっておらず、調べたら、面接でのプレゼンみたいな感じの試験だった。

最初に5問のテーマを提示されて、1分間でしゃべりたいテーマを決めて話す内容を考え、その次の2分間でその内容をまとめてスピーチする、というものだ。これは、普通に日本語でも結構難しいようなやつなのではなかろうか。そんなに高速でしゃべる内容を決めて理路整然と話すことなんてできるのだろうか。というかこれは、結構練習が必要ななにかなのではなかろうか、ということで、ネットで英検一級の二次試験向けのオンライン英会話短期コースみたいのを見つけて受講してみることにした。

オンライン英会話なんて初めての体験だ。オンライン中国語を毎日やっているので、今週来週は英中両方先生についてやっていくことになる。知らなかったのだが英検の一次試験というのは一度合格すると1年間免除される、つまり二次試験で不合格になっても全部で3回くらい、一次を受け直さずに二次にチャレンジできるということのようで、さすがに3回あればどうにかなるのではないかという気もするが、これも調べたら二次の合格率は65%ということで、結構低いので、油断すると三連敗する可能性もある。とはいえ、そもそも試験に受かることが目的というわけではなく、英語が上手になってくれれば良いので、思い出づくりにがんばってみようかと思うが、折角だから受かると良いなあとも思う。

昨日は大事な会議がいくつかあったが、そのうちの一つが、非常にノリが大事な会議だったにもかかわらず、先方のネット環境がちょっと遅かったのか、5秒程度ラグが出る状況になってしまっていて、あー、という感じだった。こういうのを体験すると、やはり面着だからこそ進む仕事っていうのはあるなあと思う。ノリで進んでいくような話だと余計にそういう傾向はあって、なかなか悩ましい。


6/16


村上春樹の小説なんてもう何年も読んでいなくって、最後に読んだのなんて大学生の頃なのではないかと思う。なにしろ、どこかのタイミングでいわゆる「文学」というものを楽しみとして摂取することができなくなってしまったところがあって、それは理由を求められればこじらせているのは自分自身だけで十分、みたいな話になってしまうのだが、実際のところなんでなんだろうと思うと困ってしまう。

なにはともあれ、昨日は「ハルキスト」な方とお話をする機会があって、いろいろお聞きしたのだが、その中で良かったのが、「ノルウェイの森」に出てくる「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」というセリフについての話で、その方はこの言葉をとても大事にしていて、日々暮らす中で、ジャンクな情報に触れてしまいそうなとき、この言葉を思い出して自戒するのだそうだ。これは本当にそうだなと思った。昨日も一昨日も、まだ始まったばかりの今日でさえも摂取しなくても良い情報を摂取してしまった。

断酒してかれこれ2週間経つので、酒の存在を思い出すことも減ってきた。離脱症状が終わったのかもしれない。うまく表現できるかわからないが、情報というのも酒と同じで、単純に人を酩酊させるために精製されたものもあったりするし、今日に流布する情報なんてわりと精製されたものばかりではある。酒を止めると、何か生活の中にぽっかりと空き地ができてしまったような気がするもので、それがいわゆる離脱症状というものだが、情報というものにもそういう離脱症状は間違いなくあって、コントロールできなくなってしまうことがある。

じゃあ文学というものは自分にとって摂取すべきタイプの情報なのかというと、文学というのは全粒粉や玄米のようなもので、情報としては吸収が遅いというか、分解にエネルギーが必要なので急に血糖値が上がらないタイプの、ゆっくり効くもので、文学ではない、例えばビジネス書みたいなものって、精米みたいなもので、吸収が良すぎて身体に良くない情報なのかなあと思う。そう考えると、心の健康のために摂取するべき情報は、文学から得ても良いのかもしれない。

村上春樹を読むのかと言うとそうでもない気がするが、そろそろ文学をやり始める時期なのかもしれない。

6/17


子供の学校は期末なので、単位がどうとか、在学証明がどうとか、学校関係のやり取りが多い。アメリカの学校の先生って、明確な担任みたいのが全部把握してくれているわけではなくて、複数科目の先生がかっちり連携もしていなくて、わりと管轄外の教科の情報を把握できていなかったりすることもあり、誰か一人の先生にコミュニケーションを集約するのではなく、いろんな先生と各教科の状況を話さなくてはならなくて大変だ。

今週も毎晩深夜まで日本のお仕事をしているが、2週間前くらいにSOSを出したのもあって早朝にミーティングが入ることは少なくなったので多少気持ちに余裕を持ってやっていけているところはありつつも、やはり平日、ずっとこういう生活を続けていくのはなかなか大変だ。

BASSDRUMという集まりは、なにか特定の要素技術を専門としている人達というよりは各所の専門家が集まっている「総合病院」的な集合体なので、わりと雑食的にいろいろなお仕事をさせて頂く傾向があるが、私自身もスキルセット的にはなかなか雑食的な傾向があるので、日によってぜんぜん違うタイプの仕事をしていたりする事が多い。

なので、展示物からエンターテインメント、からのサービス設計とかシステム設計的な仕事に至るまで、いろんなものに触れている。

その中で結構感じるのは、なにかちょっとしたサービスをつくろうと思ってもそこで求められるユーザーエクスペリエンスというのは年々気の利いたものになっていっていて、初期段階の実装で組み込むにはかなりカロリーが高い要素がサービスを構築する上での基本的なお作法になってきてしまっていて、これはなかなか大変な時代だなあということだ。

普通にBtoCな感じのサービスをつくっていても、ここにAIチャットボットベースのお問い合わせ導線がないと他に勝てないだろう、とかになっていくと、その機能だけで組み込みや設計やインフラに至るまで、面倒を見ないといけない領域というのはかなり多く、しかし他がみんな実装しているものを実装しないのもディスアドバンテージになるということで、基本的なコストや必要リソースがどんどん増えていく。スタートアップみたいな感じだと、どんどん初期費用が上がって事業を推進しづらくなる。

6/18

昨日の続きだけれど、とにかくユーザーエクスペリエンス的な話でいうと、いろんな発明とかトレンドが日々登場していて、それが定着すると基本的なものづくりの前提となるハードルというのは上がる。たとえば、検索ワードの自動補完という機能は今では当たり前だが昔はそんなものなかった。しかし今ではそのくらいないと「何か気が効いていないサービス」ということにもなりかねないので実装を前提に考えなくてはいけない。しかし検索ワードの自動補完、つまり、たとえばGoogleで「Saqoosha」と入力するとすぐに「Saqoosha 年収」という有力な関連ワードの補完がなされるわけだが、この仕組みは当然、入力の途中でもサーバに関連ワードの問い合わせをするので、通信がめっちゃ増えるし、外部のサーバと通信するということは、そのサーバがちゃんとした答えを返してくれるかどうかの保証もないということになるので、通信をする限り、単純な処理ではなくていろんなケアをしなくてはならない。

しかしユーザーにとっては、便利な仕組みがよいに決まっているので、こういう通信が多くなる重めの仕組みがデファクトスタンダードになってしまう。こういう、ユーザーエクスペリエンスという文化の洗練というかベースアップが、徐々にサービスづくりの参入障壁にもなっていく。firebaseみたいに、必要な通信機能や面倒なところを予め処理してくれるような仕組みは新しいものをつくる上でとても尊いものだと思うが、それでもいろんな前述の面倒な実装が有り物のフレームワークにラップされていってブラックボックスになっていくということではあるので、それで良かったんだっけ、とも思ってしまうが、もう少しメタなことを考えると、じゃあお前はいまいろんな最近のプログラミング言語でものをつくってるけどマシン語とかアセンブラとか理解できるのかと言ったらできないわけで、つまりそれは古代から蓄積された必要で面倒な機能やとっつきにくい概念をわかりやすくていじりやすいものでラップしているということじゃないか、ということになるので、ああそうか、世の中そういうものなのか、とも思う。しかしそういう意味では今だからマシン語やアセンブラを勉強すると新しいもの作れたりするのだろうか。

前述の通り、今週から臨時で英検の二次試験向けにオンライン英会話を始めている。先生はフィリピンの方だが、全然アクセントがなくって違和感もない。これは良い。普段から利用しようかな、とも思ってしまう。今回は二次試験向けなので、一セッション約10分間の二次試験の過去問というかスピーチをやって質疑応答と評価をしてもらう形だが、「しゃべる内容も発音も良いけど、文法は適当ね」と言われてしまった。ニューヨークなんていう場所はいろんな人がいすぎてある種世界で一番英文法が適当な場所ではある。というか、世界で一番「英語なんて通じれば何でもいいんだよ」的なスピリットに満ちている場所なので、許して欲しいなあと思いつつ、そのへんは一週間二週間で治ることでもないし、そこを正規化するのもそんなに目指していないので、とにかく短い時間でスピーチをまとめてちゃんとしゃべり切る練習を重ねるしか無いのだろう。

やっと金曜日だ。先週くらいはぐったり疲れてしまったので、今週はやや間引き運転した感もあるが、それなりに働いた。

6/19


昨日は子どもたちが全員学校で出ていたので、お昼に妻と近所の牛角に行ってコロナで緊急事態になってしまって以来初めて焼き肉を食いに行った。というか、近所の牛角は緊急事態ちょっと前から建設してて、営業開始したのが緊急事態中だったので初めて行った。この緊急事態の中で、ニューヨークの飲食地図は大きく変わった。焼き肉一つとってもいちばん有名だったお店は閉店してしまって、もはや牛角くらいしか選択肢がないような気がする。

で、焼き肉に行った後、やや食欲が決壊してしまっていろんなものを食べてしまったので、トレーニングジムで600kcal消費するまで帰れません的なことをやったが、600kcalというのはなかなか半端ないエネルギーで、ウォーキングマシン的なものだったが、足がパンパンになってしまった。それでも厳密にカロリーを管理することをしなかったので今朝の体重は増えていた。いい加減標準体重に近づいてきたのもあるが、なかなか減らなくなってきた。

こう、ダイエット終盤になってきて思うのは、世の中にはダイエットそのものの情報はたくさんあるが、いざ痩せてからそれを維持したりとか、その先に何をしていくべきなのか、とかそういう情報が全然ないということだ。痩せきった後に、果たしてどのような形でどういう努力を続けていけばよいのかがよくわからない。

当初の予定だと、20日まで断酒してその後はぼちぼちやるようにする、という感じにしていたが、離脱症状が終わっていてそんなに強く酒を飲みたいとも思わないので、特に明日から飲酒を再開したい、という感じもしない。思えばなんとなく、脳ははっきりしてきているような気がしている。全体的なモチベーションは下がってきているような気がする。

今日は家族が動物園に行きたいというので、Bronx Zooに行くことにした。地下鉄でも行けるが、やはり家族で行動する場合アジアンヘイトがなんとも怖いので車を借りて行くことにする。

今はどうか知らないが、ちょっと前、日本からやってきた人がアメリカで車を運転すると、AppleのCarplayに対応している車にUSBでiPhoneを接続するといきなりカーナビが iOS仕様になるやつに感動していたような気がするが、あれは本当にそんなに日本で普及していないものなのだろうか。なにはともあれ、最近はアメリカのカーシェアリングとかで借りる車もだいたいCarplay対応になっているので助かる。何が良いって、スマホホルダーみたいのをくっつけたりという煩雑な作業をしなくてよいのが良い。

ニューヨークではいよいよ、ワクチン打ってたらマスクをせずに外に出てもいいよ、という空気になってきていて、半分くらいの人がマスクをしていない。フルオープンだ、なんていって花火も上がったりして盛り上がっているが、まだまだニューヨーク全体の傷は癒えていないどころかいろんな生傷がむき出しで残っているような気がする。まさに、嵐が過ぎ去った街、という感じがある。しかしそれでも、今度こそ、やっと終わるのだなあという空気が漂ってきている。

6/20


昨日はブロンクスの動物園に行ってきた。長男はあまり家族と行動を共にしたくないというか、喜んで動物園に行く感じではないので留守番だったが、次男と長女は、コロナ禍になってから初めて訪れることもあって、楽しそうだった。なんだかんだ、大人である私も、折角だからトラが見たいだの折角だからシロクマが見たいだのいろいろあったり、地図を見ながらどのように歩くかを計算していたりするのだが、子どもたちはそういうことを全く気にせずに、突然広大な園内の反対側の場所にあるキリンを見たくなったり、クマの場所に向かっていたかと思えばクマは見たくないと言い出したり、非常に自由にいろんなことを主張するので、総合的な動物園体験としてはわちゃわちゃし始める。

ここ数日は、持続可能性のあるダイエット生活との戦いで、自分はこのままの節制生活を続けることができるのか、あるいはまた暗黒面に落ちてしまうのか、といったところが焦点になってきている。昨日はかなり食事を制限したし、運動もやったにも関わらず体重が増えていた。誤差の範囲内ではあろうと思うが体脂肪率も増えていた。

ここから先は急激に目標の体重に到達したいとかではなくて1ヶ月に1kgでも減らせれば御の字なのだと思うが、そのちょうどよい、サステナブルな減量生活のバランスというのがなかなかよくわからない。新型コロナにかかった際も似たような状況に陥った気がするが、世の中には、ターゲットの母数が多い情報しかなかなか流通しない。

私がコロナに罹患したのは1年以上前だが、その頃は何しろ発症した人が世の中に全然いなかった時期だったので、発症した後にどうやって回復するのか、とか、発症した際の細かい症状の話題すらなかなかニュースになっていなくて、世の中に出てくる情報は、いかに感染を防止するか、みたいな話ばかりだった。それはおそらくそんな情報を必要とした人たちが少なかったからだろう。

それで言うと、世の中にはダイエットに挑戦する人・したい人はものすごくたくさんいるが、実際にダイエットに成功してその先のステップに踏み出す必要がある人は母数として少ないんじゃないかと思う。ゆえに、そのへんの情報には数字がつかない。数字がつかない情報はなかなか共有されない。たまに考えてしまうけど、これはインターネットの使い方を間違ってしまっているように思う。インターネットというのはそもそもマジョリティが求める情報以外の細かい、いわゆるロングテールな感じの情報を届ける仕組みなのであって、そこに視聴率的なものさしを導入してしまうとそれはマスメディアの再生産にしかならない。

2010年代のソーシャルメディアを取り巻く重苦しさはこのへんに原因があるのだと思っていて、ソーシャルメディアという第二マスメディアがコモディティ化しすぎてしまった結果、インターネットはマスメディア生まれマスメディア育ちの人たちの焼き畑の場所になってしまった感がある。

とかなんとかそれっぽいことを書いているが、実際は、タイピングの練習のために書いているだけで、頭の中は揚げ物食いたいというイメージでいっぱいだ。

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