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父の実家跡地が大河ドラマの舞台になっている

子供の頃の「夏の思い出」みたいなのは誰にでもあるのではないかと思うが、自分の場合それはクマゼミのシャーシャーシャーシャーという鳴き声がそんな夏の思い出のトリガーになる。

最近は地球温暖化だからなのか、都内でもクマゼミの鳴き声が聞こえることがあるが、私が生まれ育った東京都世田谷区では基本的にアブラゼミとミンミンゼミが主流で、今でもクマゼミのシャーシャーはあんまり聞かない。

なんで、クマゼミのシャーシャーが夏の思い出のトリガーになるのかというと、毎夏に行っていた父の実家は、いつもクマゼミの鳴き声に包まれていたからだ。クマゼミの生息域というのは、東京よりちょっと緯度が南くらいのところから南らしい。父の実家は、伊豆半島の韮山町というところにあった。今は伊豆の国市というらしい。

父の実家はその韮山町で「富士見荘」という温泉旅館をやっていた。旅館は戦後間もなくだったか、曽祖父が始めたらしく、父は生まれたときから旅館の三男坊(一番上のお兄さんは生まれてすぐ亡くなったらしくて、実質次男坊)だった。なので、我が家は伊豆の韮山にある温泉旅館に毎年「里帰り」していた。旅館の子というのはそれなりに特殊なものらしい。多分なのだが、父の父母、私の祖父母は旅館の居間みたいなところに暮らしていて、父を含む子供たちは旅館の庭の裏山の麓にある離れみたいなプレハブ小屋みたいな建物に住んでいたらしい。

旅館は広大だった。少なくとも、子供である私には広大な建物で、二階建てで大きな部屋からこじんまりとした部屋まで15とかそのくらいの部屋があったのではなかったかと思う。あのへんの温泉というと、修善寺とか伊豆長岡の方が多分メジャーで、韮山というのはあんまり温泉地としての存在感は強くない土地だったのではなかろうかと思うが、富士見荘は「韮山温泉」と銘打っていた。露天風呂はなくって、プールみたいに大きな円形の浴槽があった。いつも、そこで父が泳いでいた。真似して泳いだりしたものだ。

富士見荘の温泉(この後もうちょいリニューアルしているので、私が子供の頃入ったところとちょっと違う)
技術屋さんらしく、タイトルに入れた富士見荘の入口の写真をAI着色してみた。確かにこんな感じだった。AIすごい。

そんな、ちょっとした「実家がリゾート」っぽいセッティングだったものだから、母方の従兄弟なんかも一緒に夏に旅館に泊まりに行ったりもした。小学校低学年くらい、5個上の従兄弟が旅館の庭の裏山からカブトムシを獲ってきてくれたのを覚えている。そう。広大な旅館は広大な庭を有していて、その庭には裏山があった。裏山の入り口は竹藪になっていて、無数の竹が鬱蒼と生えていた。竹藪の奥は暗くって、ちょっと覗くのが怖かった。祖父は晩夏になると竹藪に生え始めるタケノコをポコポコ掘り出して、それが食卓に並んだ。

竹藪、子供的にめっちゃ怖かった。この竹藪あたりが円成寺だったらしい。

私は夏だけでなく、正月も旅館で過ごすこともあって、宿泊客にお年玉をもらったりしていた。旅館の埃っぽい匂いも、隙間風も、風呂場の錆びてるけどでかい体重計も、近隣の観光地のポスターも、とても好きだった。

私の幼少期、父がお金ないくせに8ミリフィルムを購入していろいろ撮っていた中に在りし日の富士見荘が残っていたので、せっかくの機会なので編集してみた。1978年くらいではないか。ここに映っているちびっ子は私で、老人は祖父だ。存命中の人は肖像権に配慮してカットしてみた。富士見荘の入り口や、竹藪も映っている。昭和50年代の東海道線とか、ロマンスカーとかも入れてみているが、カットしたところにも当時の世田谷区とか、すごく味わい深い絵がたくさん入っていたので、また改めて公開したり書いたりできると良いなと思う。


富士見荘の庭
客間。今でも旅館とかに行ってこんな感じの椅子とかを目にするとグッとくる。

自分が小学校中学年くらいになったときにはもう、旅館として斜陽だったんじゃないかと思う。鮮烈に憶えているのが、日航機123便の墜落事故だ。あの事故当時、私は小学4年生だった。あの事故が起こった日は、お盆休みということで、我が家は韮山の旅館に帰省していた。そして私は風邪か何かで高熱を出してしまって、寝込んでしまったのだ。クマゼミがシャーシャーいっている中、熱にうなされているうちに墜落事故が起こった。本当は墜落の日に東京に帰る予定だったのが、私が体調を崩したので仕事があった父だけが帰京して母と私だけが韮山に残ったのだったと思う。翌日には熱が下がって、旅館の大広間に寝かされていて、だだっ広い部屋でテレビを見ていたのをよく覚えている。そのときテレビに映っていたのが、御巣鷹山からヘリコプターで救出される川上慶子さんの姿だった。そして、大広間のテレビの青い背景に淡々と表示される、被害者の方々の名前たち。大変なことが起こったのだなあ、と、だだっ広い大広間で感じていた。

恐らく、昭和52年あたり、祖母が私を富士見荘の客間で抱いている。

旅館としてはそこそこ繁忙期なんじゃないかと思われるお盆の大広間に熱を出した孫を寝かせていたわけで、その頃にはもう旅館は末期に差し掛かっていて、祖父母もあまりモチベーションを持っていなかったのではなかったかと思う。小学校高学年から中学に上がる頃には、旅館はほとんど営業を止めていて、祖父は客間を自室にして暮らしていたし、お客さんがいた感じもしなかった。

その頃になると、学校や中学受験で日本史を勉強するようになる。私は歴史が得意な子供で、いつも小学館の漫画の「日本の歴史」を読んでいたし、今に至るまで歴史系の本を愛読しがちだ。で、そうなると、父の実家の旅館の周囲が結構特異な環境であることに気づき始めた。韮山という土地は妙に史跡が多い。有名なのは韮山の反射炉だ。確か世界遺産になっていたような。韮山代官の江川太郎左衛門が作った大砲をつくる炉だ。

韮山の史跡はそんな、新しめのものから結構古いものもあって、古いのだと、蛭ヶ小島という、源頼朝が流刑になっていた場所、というのがある。

で、その蛭ヶ小島は旅館からそんなに近くないのだが、父の実家である富士見荘の周囲も、いろんな史跡に囲まれていた。歩いて3分くらいのところに、堀越御所の跡地があった。室町時代の後期に関東管領が御所を置いていた場所だったかと思う。そうかと思えば、北条政子の産湯というのがその向かいくらいにあって、ああ、北条家ってこのへんの人だったのか、なんて思ったものだ。いつも正月の年越しで除夜の鐘を聴きに行っていた願成就院というお寺は、旅館の裏山の向こう側にあったお寺で、そこには北条時政のお墓があった。

それどころか、幼少期からカブトムシを獲りに行ったり、竹藪に怯えていた旅館の裏山は、「守山」という山で、あろうことか源頼朝が平家に反旗を翻して旗揚げした場所だ、ということを知った。それってすごいことなのではないかと子供心に思って、父に聞いてみたら「ああ、そうらしいよ」みたいな返答をふんわり得たので、ふんわり答えている場合ではない、などと思ったものだ。というか、当時の旅館のパンフレットを見ると、しれっと書いてある。今思えば、明らかに父の実家の立地は「何かありそうな場所」だったのだ。

前述のように、私は富士見荘が大好きだった。一度は閉店休業になってはいるし、伯父も伯母も父も旅館を継ぐ気はなさそうだ。高校くらいになると、富士見荘を自分が継いで旅館の親父になるのも悪くないなあなんて、受験勉強からの現実逃避気味に考えたりもしていたものだ。

そんな大学受験真っ盛りの頃だったか、夢想が夢想になってしまった。旅館の庭に発掘調査が入った。そこから、なんだかいろんなものが出てきたらしい。なんと、富士見荘がある場所には、北条氏の邸が建っていたらしい。そりゃ、近所に北条政子の産湯もあるし、北条時政の墓もあるわけだ。頼朝も裏山で旗揚げするわけだ。

そんなわけで、「父の実家が史跡指定される」という、なかなかレアな体験が始まった。それは、決して愉快なことではなかった。旅館は閉店休業だったが、祖父母はまだそこに住んでいた。旅館を更地にするということは祖父母が長年住んだその場所を離れるということにもなる。しかし、祖父は程なくして体調を崩して入院、私が大学1年の時に鬼籍に入った。その時には祖母は認知症になっていて、うちで引き取っていたこともあった。

自治体が旅館の跡地を買ってくれることになった。条件とか含めて、いろいろ面倒なことがあったようだが、父も、そういうので面倒な思いをしたくないタイプなので、なんか色々適当なところで手を打ったのだろうと思う。

大学4年くらいのとき、既に取り壊しが決まっていた誰もいない旅館に、友人の岩下くんと2人で肝試し気味に泊まりに行ったことがある。もう旅館は老朽化も良いところで、電気も通っていなかったように思う。あれが取り壊しになる前に訪れた最後だった。

程なくして旅館は取り壊された。15年前、長男が生まれてすぐに、妻と長男と3人で旅館の場所まで行ってみたことがある。「富士見荘」の入り口の石の看板だけがそこに残っていて、その先には更地が広がっていて、これから史跡としての整備が進むようだった。

2010年に富士見荘跡を訪れている。富士見荘の看板跡に、「清水」と上書きした表札だけ遺っていた。今は多分無いんじゃないか。
富士見荘跡地、現北条氏邸・円成寺跡に遺っていた庇のようなもの。確かここにシャベルとかの工具を置いていたんじゃなかったか。

北条氏邸・円成寺跡。それが、父の実家の跡地の今の名前だ。いや、本当は北条氏邸・円成寺の跡地に父の実家の温泉旅館があったので、元々は北条さん家の土地だったんだが、そこは「清水氏邸跡」でもあるのだ。裏山だった守山には遊歩道が整備されていて、登ることもできるようになっているはずだ。

新しく始まった大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最初の舞台は、北条氏の屋敷だった。この北条氏の屋敷に源頼朝が匿われたことからドラマが始まる。北条氏の屋敷、ということはそれは、その750年後くらいに父の実家、富士見荘が建ち、父が子供時代を過ごす場所、ということだ。初回を見始めてすぐ、そのことに気づいて、周囲の景色のイメージであるとか、普段の大河ドラマよりなんだか高解像度で見れる感じがしてしまった。

大河ドラマの放送直後に「なんとか紀行」みたいな、ドラマに関係する史跡を紹介するコーナーがあるじゃないですか。「鎌倉殿の13人」初回の「鎌倉殿の13人紀行」は、北条氏邸・円成寺跡、つまり富士見荘跡。図らずも、正月明けのアンニュイな夜に、懐かしい韮山の景色を目にすることができて、ここまで書いてきたような富士見荘の思い出であるとか、風景であるとかが甦ってきた。これは記録しとかなきゃ、ということでこの文章を書いた。多分これから、守山(裏山)を舞台に頼朝が旗揚げするはずだし、まだしばらく韮山を舞台とした物語が続くのだろう。この文章に遭遇してしまった方は、なんとなく、「ああ、この場所に富士見荘という旅館があったんだなあ」「そこにはクマゼミの鳴き声が響いてたんだなあ」なんて思いながら見てもらえると、富士見荘も浮かばれるのではないかなと思う。

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