見出し画像

1976年生まれの陰キャとサッカー

サッカーが嫌いだ。

という意思表示は、日本においてはなかなか口に出しづらい。
しかし私はサッカーに興味がない、とかではなくて、恐らく嫌いだ。野球には興味がないが、サッカーは嫌いだ。自分が心の中で思っていることの中では、「ジブリアニメの女性主人公がだいたい嫌い」というのと並んで、2大「口に出しづらい」ことだ。それほどに、日本においてジブリアニメの女性主人公はみんなが大好きだし、みんながサッカーが大好きだ。

なぜ、自分はこんなにもサッカーが嫌いなのだろう、ということについて、そんなに深く考察をしたことが無かったのだが、ここのところ、サッカーワールドカップが始まろうとしていた頃から、サッカー絡みで腹を立てることが多くて、同時に、「自分はなぜそんなに、何に対して怒っているのだろう?」と感じたので、いろいろと反芻して考察してみた。

最近、サッカー絡みで腹を立てたことというのは全く些細なことだ。

私は「SmartNews」というニュースアプリを常用している。このアプリでは、タブを横スワイプすることで、好きなジャンルのニュース一覧を回遊するというのが基本的な動作で、いろんなジャンルのニュースが並ぶ「トップ」タブが最初に表示されて、その右に、よく閲覧するジャンルを並べておく、という使い方になる。なので、トップのすぐ右には、一番よく見るジャンルのニュース一覧を入れておく。

自分の場合はそれが「相撲」になる。「相撲」→「アメリカ」→「テクノロジー」→「散歩」→「競馬」の順に回遊するのが私のSmartNewsだ。

ところが、ある日突然、「トップ」と「相撲」の間、つまり一番よく使う場所に「サッカーW杯」というカテゴリーが、恐らくすべてのユーザーに追加された。SmartNewsの運営の方は、「世の中のすべての人類はサッカーが好き」という前提で、良かれと思ってやったんだろう。

当時の状況を再現してみた。左がいつもの。右が強制的にW杯が入ったやつ。

こういうことはたまにある。たとえば、総選挙のときとかに、突然総選挙タブが追加されることがある。が、私の場合それにはイラッとしたりはしない。しかし、「サッカーW杯」とは何事か?!

「サッカーなんかより大相撲のほうが5万倍重要な人間がここにいるんだこのリア充どもが!」

なんて、心の中で叫んだものだ。

その他にも、AbemaTVで気になる大相撲の取組を観ようとしたら、突然ワールドカップのバナーがポップアップで表示されて大事な取組を見逃した、とか、そういう些細なイライラが発生するごとに、私は、「このリア充どもが! 爆発しろ!」などと腹を立てていた。

しかし、冷静になると、別にボールが嫌いなわけではない。サッカーという競技そのものに、興味は無いが、恨みがあるということもない。よく考えたらルールもシンプルで、興奮を促すところもあるし、良い競技なんじゃないかと思ってしまう。自分は、サッカーを好きになる必要はないが、嫌いになる必要もないように思える。

じゃあなんでサッカーが嫌い、なのかということを省みたときに、ヒントになったのが、「このリア充どもが! 爆発しろ!」という、自分が心の中で叫んでいたフレーズだ。なぜ、自分は、サッカーに腹を立てるとき、「リア充」に対して怒っているのか? よくよく考えれば「サッカー」=「リア充」というのはおかしくないか?

自分、というか、日本の生活の中でのサッカーというものの存在感が増大したのはいつだったか。それは、1993年のJリーグ設立であり、例の「ドーハの悲劇」とかなんとかいう事件だろう。そのへんの時期、日本国民は突然サッカーサッカー言い出し、今までそんなこと言っていなかった人たちもこぞってサッカーについて話し始めた。

その頃、自分は高校生で、都内の男子校で鬱屈した高校生活を送っていた。今の言葉で言うと陰キャだ。別にいじめられていたわけではないが、目立つわけでもなかった。お坊ちゃま学校だったので、陽キャだろうが陰キャだろうが自分も含め、所詮はお坊ちゃまの集合体でしかない。スクールカースト、というほど露骨な階級構造はないが、露骨ではないヒエラルキーはあった。

学校の中で「イケている」同級生たちは女子進学校の女の子と交際し、茶髪にし、耳にピアスの穴を開けてみたりしていた。教室でも高圧的な雰囲気を振りまき、今風に言うとわかりやすく他の生徒に対してマウントを取っていた。

自分も、どこぞの女子校の文化祭に行く、と言って同級生に誘われたことがあって、喜んで行ったのだが、女子校の女の子に、「いつも話題にしているダサい変わった清水という奴」を見せに行くという屈辱的なイベントだったことがある。

同級生は避けて通ればよかったが、自分が所属していた吹奏楽部にもそういう奴らはちょこちょこいて、なんやかや私たちを支配しようとするようなムーブをかましてくる。

そんな、1976年生まれの陰キャな私たちにとっては良い思い出など特にない陰鬱な1993年。我が国にサッカーはやってきた。

そして、そうだ。私が嫌いで仕方がなかった同じ世代のリア充たちは、同じクラスの奴らも、吹奏楽部の奴らも、馬鹿の一つ覚えのように、サッカーに熱狂し始めたのだ。

奴らは突然、オーレーオレオレオレーとか歌い出し、カズダンスを真似し始め、聴き慣れない「サポーター」という言葉を10年来使ってきたかのように使い始めた。ある同級生は、突然浦和レッズのユニフォームを制服の下に着て学校に来て、学ランをはだけてレッズサポーターアピールをし始めた。奴らは、1年前には興味もなかったであろうサッカーの「ドーハの悲劇」だかなんだかに涙していた。それを、私のような陰キャは冷めた目で見ていたのだ。

実際、当時のメディアに登場するサッカー選手たちは派手に遊んでいるチャラチャラしたイメージの方も多かった。武田選手とか。「軽薄な奴らによる軽薄な奴らのための軽薄な奴らのスポーツ」にしか見えなかった。

恐らく、そのあたりから自分にとって、サッカーは「敵性スポーツ」となってしまったのだ。

自分の潜在意識の中に「サッカー」=「リア充爆発しろ」という接続があることに気づいて、原因を求めると自分の陰鬱な高校時代とJリーグの誕生が重なっていたことが大きいのだと気づいた。

しかし、よく考えたら一緒に会社・組織をつくった村上さんは、すごいサッカーファンだけどめちゃくちゃ良い人で自分にとっては世界一仕事もできる人なわけだが、そんなにわかりやすいリア充的な人ではない。し、私の周囲にはサッカーが好きな人は多い。そして、その多くの方々のことを私は好きだ。

別にサッカーはわかりやすいリア充向けのスポーツではないし、サッカーを好きな人たちが全員自分と相容れない人たちなのだ、ということはまったくない。

だからたぶん、自分がサッカーのことを嫌うのは、私が「1976年生まれの陰キャ」だからなのではないか、と考えた。

これは個人的な恨みとか嫌な思い出、なのかもしれないが、しかし、同じ時代に同じようなコミュニティの構造の中で同じようにサッカーの登場を「彼岸の嫌な祭り」として迎えて、サッカーが嫌いになってしまっている人は結構いるのではないか、と考えたところもあったので、書き記してみた。

そこのサッカーが嫌いなあなたも、もしかしたら同世代の陰キャだったのではないか。

「ジブリアニメの女性主人公がだいたい嫌い」な件についてはたぶんさらに個人的な話のような気がするのと、怒られそうだから詳細を書くことはないだろうと思う。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!