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『仮面ライダーBLACK SUN』は「左翼賛美」の物語ではない。

当記事は、端的に言えば「この作品は左翼もテロも賛美していないよ。」という私なりの解説です。

私は普段はこういったレビューなどは書かないのですが、一部の方々に本作の脚本(特にその結末)の真意が曲解され、声高らかに酷評する意見が少なからず見受けられ、この作品が不当に低く評価されている現状が看過できず、慣れない筆を執った次第です。
この記事を読んで、物語の結末を誤解している人がちょっとでも減ってくれたらいいなという思いです。

※当記事は作品の結末に関する重大なネタバレを含みます。


未視聴の方が読むのはおすすめしないことを予め断っておきます。

以下本文

仮面ライダー生誕50周年記念企画のひとつとして満を持して公開された本作であるが、これが諸手の称賛で迎え入れられたかというと、世間での評価は芳しくないようである。
Amazonのレビュー欄やSNSには、制作者に対する落胆の声や期待を裏切られたファンの恨み節など辛辣な文言が並び、さながら阿鼻叫喚の様相を呈している。

しかし、作品に対して低評価を下している視聴者の感想の内、以下に挙げられるような意見に対し「それは誤解ではないか。」と私は言いたい。
曰く、
「テロを肯定している」「暴力革命を容認している」
「左翼礼賛がきつい」「監督はアカだ」
「政治的主張を仮面ライダーに持ち込むな」
といった内容だ。だが、少し冷静になっていただきたい。

本作には確かに、70年代の連合赤軍、全共闘、安保闘争や、昨今の在日外国人をめぐるヘイト問題などがモチーフとされる過激な描写が盛り込まれており、これに不快感や嫌悪感を示す視聴者は決して少なくない。
過去に実際に起こった事件や社会問題をモデルとしたこれらのシーンは、作中では「怪人の人権運動」として描かれている。
これらの問題を扱った描写が、まるで現実に視聴者の目の前で起こったことかのような、リアルな不快感を呼び起こすのは、まさに制作者の意図した演出であり、Amazonのレビュー欄やSNSにあるような、こうした議論が巻き起こることこそが、監督や脚本家の思惑が見事に功を奏した証なのである。

現にあなたも、拡声器を手に街頭演説を行う井垣渉を見たとき、反怪人団体にリンチにされる小松俊介の姿を目にしたとき、それがフィクション(作り物)であるとは思えないほどのリアルな嫌悪感を覚えたのではないだろうか。
それ故にこそ、これらの描写は、あくまで物語にリアリティを持たせるための演出であり、換言すれば「舞台装置」に過ぎず、それ以上の(政権批判や左翼思想の称揚といった)意図はないと私は考える。
一応付言しておくと、私もこれらの露悪的な描写に気分を悪くした者の一人である。

ただ、こういった題材を取り扱ったからといって、モチーフとなったそれらを「肯定している」とか「礼賛している」と捉えるのは些か短絡的、あるいは穿ち過ぎではないか。
そこに「制作者の政治的主張」といったものは含まれていないと私は考えている。
まず、そこを明らかにしておきたい。

例えば『プライベート・ライアン』や『フルメタル・ジャケット』は、戦争を題材にした映画ではあるが、戦争を賛美している内容なのかと言えば、むしろ逆のメッセージが込められていることに疑問を差し挟む余地はないことを、読者諸賢は既にご存知のはずである。
同様に本作に於いても、ヒロインがテロリストになったからといって、それを「正しいこと」として肯定している訳ではないことを、ご理解いただけるのではないだろうか。
多くの視聴者は「これでいいのか?」「こんな結末は受け容れられない。」といった疑問や違和感を抱いたはずである。
クライマックス、和泉葵の「悪い奴が生まれる限り、戦うよ。」という印象的な台詞と共に物語は幕を閉じるのだが、この発言をしている彼女自身がテロリストという紛うことなき「悪」なのだ(そして本人はそれが正しいことだと確信している)という痛烈な皮肉を含んでいる。
しかしこれこそが、本作の脚本の妙味なのである。
こういった反語的表現やアイロニーの類を汲み取れない大人が増えたことを、非常に残念に思う。

物語の結末でヒロインがテロリストになってしまったからといって、それを「暴力やテロ行為を肯定している」と解釈するのは、あまりに早計である。

思い出して欲しいが、この作品のキャッチコピーは
「悪とは、何だ。悪とは、誰だ。」である。

本作は終始、「こいつを倒せば全てが丸く収まる」といった「敵」つまり「悪」が明示されない。
南光太郎から「信じるものの為に戦うこと」を受け継いだ和泉葵はその後、反体制テロ組織を結成する。
この「本来であれば、正義を執行する役回りを果たすはずである主人公サイドが、事もあろうにテロリスト(つまり悪)となって社会に仇なす存在と化す」という展開が、多くの視聴者から問題視され非難の的とされている点である。
繰り返しになるが、主義や主張がどうあれ、その実現のために暴力を用いる行為はテロリズム以外の何者でもなく、紛れもない「悪」である。
一方で、それを取り締まる立場である体制側(政府閣僚)も腐敗し切っており、そこに成立しているのは「正義 対 悪」の戦いではなく「悪 対 悪」の構図であることに注目していただきたい。
つまり、どちらも「正義」ではないのである。

私たち視聴者(あるいは読者)が、フィクションを消費する際の姿勢として「主人公のやることは常に正しい(または、正しくあるべきだ)」という思い込み、あるいは「そうであって欲しい」という願望(あえて辛辣に言えば「盲信」である)が強い人ほど、この結末に拒絶反応を起こすのではないだろうか。
本作の脚本は、そういった視聴者の予想、願望、思い込みをことごとく逆手に取った筋書きなのである。

そして、そもそもこの物語では、一度たりとも「主人公=正義」という描かれ方はしていない。
あえて身も蓋もない言い方をすれば、南光太郎は廃バスに住み着き裏稼業で日銭を得る無頼漢であり、秋月信彦はテロ組織の首魁であり、和泉葵は人権活動家気取りの学生でしかない。
そこに従来の「正義のヒーロー」の姿は見当たらない。

以上の点から、『仮面ライダーBLACK SUN』の脚本は、その結末に於いてテロリストとなったヒロイン和泉葵も、文字通り首相の首のすげ替わった新政権も、どちらも、誰も、等しく「肯定していない」のである。

時系列は前後するが、物語の終盤、和泉葵は怪人の起源に日本政府が関与している事実を全世界に暴露するシーンで、「画面の向こうで私の話をシラけた顔で聞いているあなた」という台詞から始まる問いを投げかける。
これは、作品世界内での「視聴者」への問いかけであると同時に、現実世界の私たちに対してのメッセージでもある。
このような典型的なメタフィクションの手法が用いられている点に注目したい。
作品の中で描かれたこれらの問題を、単に「フィクションの世界で起こっていること」と切り捨てるのではなく、「どうするべきなのか」「何が正しいのか」と、現実を生きる私たちに問うているのだ。

かつて一世を風靡し、今もなお多くの人を魅了してやまない、明確な「悪」や「敵」を示した上で、それを討ち倒すカタルシスに満ち溢れた
単純明快な「これが正義だ!」の押し付けではなく、「悪とは、何だ。」という問いかけこそが、この物語の本質であると私は考えている。

怪作『仮面ライダーBLACK SUN』は、この混迷の時代を生きる私たちに、
静かに、しかし力強く問いかける。

「悪とは何だ悪とは誰だ

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