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大人になってしまった少年たちへ

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そして、全ての子供達チルドレン
おめでとう
新世紀エヴァンゲリオン

※この記事には『トップガン マーヴェリック』のネタバレが含まれます
(画像引用元)



映画『トップガン』が公開されたのは1986年だそうだ。
僕が最初に観たのは確か2年前だっただろうか。つまりつい最近。あまりにも真っ直ぐな話に清々しい感動を覚えた記憶がある。
戦闘機、海軍、友情、ロマンス、戦争と英雄。
「男の子」なテイストがふんだんに詰め込まれ、そしてその「好き」に対して愚直とも言える正直さのあるストーリー。ともすれば凡百のハリウッド映画の1つとして消費されてしまいそうな代物だけれど、当時まだ注目されていなかったトニー・スコットの巧みな業とトム・クルーズのオーラ、何よりあまりに真っ直ぐ過ぎるという理由からどこか心に残ってしまうような、そんな印象だった。そしてその記憶はきっと多くの人にとってとっくに昔のことであり、今や思い出の一つとなっていたことだろう。

ではその続編である「マーヴェリック」の公開は「トップガン」が僕らの前へと帰ってきたことを意味するだろうか?
それは、少しだけ違う。

前作「トップガン」においてマーヴェリックは若々しく、自身に溢れ、挑戦的であり、そして傲慢だった。そのキャラクター性はトム・クルーズのナルシズムを感じさせる所作とルックスと融合し、トム=マーヴェリックの構図が見事に成り立っていた。
それはロバート・ダウニー・ジュニアがトニー・スタークとして覚えられているという「コンテンツのファン数」という外部テクストが生んだ認識や、ジョン・ウィックとキアヌ・リーヴスの僅かな人格のギャップが生む「むしろ合っている」感覚とは異なる、「これしかない」という確信に近い。
トムは否応なくマーヴェリックだった。

今作ではどうだろう?確かに導入部の飛行試験において過剰なチャレンジを行う様は確かにマーヴェリックその人であった。しかし、その後、不時着してボロボロになった彼の顔を見てきっと多くの人が思ったことだろう。
「……トム、老けたなあ……」
そう。トム・クルーズは順調に老いている。バイクを飛ばしたりビーチフットボールに興じたり雪原をダッシュしたりと数々のシーンでは確かに若々しいバイタリティを感じるし、作り込まれた肉体は筋骨隆々で素晴らしいのだが、それでもメイクや光の加減によっては顔のシワは隠しきれないし、所作の所々には年齢特有の緩慢さが滲み出ている。観客は映画冒頭で、あのトム・クルーズでも老いるのだ、という当然の認識をさせられるのだ。

そして、老いたのは役者だけではない。
当然主人公である、ピート"マーヴェリック"ミッチェルも現実世界と同様の速度の時間を経験していた。老いてなお無謀さに満ちたマーヴェリックの今回の立場は、かつて自らが所属していたトップガンの教官だ。一度自分が学んだ場で教鞭をとること。それが老年に差し掛かろうとする彼に与えられた役割だった。
パイロットはもう必要としていないと言われ、ビーチバーからつまみ出され、作戦に参加するなと言われるマーヴェリック。かつての相棒グースの息子ルースターとの関係も上手くいかない。マーヴェリックは老いた。しかし、だからと言ってそこに晩成や達観があるわけでなく、あくまで等身大のキャラクターとしてのマーヴェリックがいた。それを目の当たりにした時のこの感情をどう表現すべきだろう?
老いたのは役者だけではない。
それはきっと観客たちもだ。
観客たちはマーヴェリックに対して共感を抱いたはずだ。特に子供の頃「トップガン」を観た人々には刺さったことだろう。マーヴェリックは歳をとった。彼はその性格上自分の人生から降りるような真似はしないが、それでも時代や世代を意識せざるを得ない状況になった。それに相棒の息子との疑似的な親子関係は彼を不器用な父親のようにも見せ、女遊びに興じていた若い姿からは想像できないオーラを醸し出している。

寂寥、郷愁、栄光、過去。
もう一度輝くこと、次世代を背負うこと。
今マーヴェリックは僕達の前にいる。
しかしそれは、あの頃の彼が帰ってきたのではない。これは共に歩んでいた彼との再会だった。
単に思い返すためだとか、もう1度あの世界に浸るためではなく、僕らと共に前に進んだマーヴェリックの物語がそこにあった。

この映画は「本物」だ。CGを使っていないことや実際にトムがF/A-18を操っているという点でもだが、何よりマーヴェリックその人が確かにそこにいたからそう感じたのだと思う。そしてマーヴェリックとはトム・クルーズだ。トム・クルーズの生き様がそのままカメラに捉えられているから「本物」があるのだ。
この映画と似た構造の映画を1つ知っている。『グラン・トリノ』というクリント・イーストウッドが監督と主役を務める映画だ。この映画はイーストウッド自身が自分について、そして自分と似た境遇の人々が若い世代に対してできることについてを映画にしたものだった。
きっと今現役で最もイーストウッドに近いのはトム・クルーズなのではないだろうか?観客を魅了し続ける「本物」としてスクリーンの中で輝き続け、そしてそれを人々に提供する製作側もこなす。巨匠とはいかずとも、ハリウッドを牽引する映画人となることは間違いない。
虚構に本物を感じさせること。それが優れた映画が持つ機能であることに間違いはないのだから。


余談だけれど、この映画の鑑賞中、僕は貴重な経験をした。
基本的に日本人は劇場では静かに映画と向き合うと思うのだけど、この映画を見ている間では随所で笑い声が小波のように発生し、クライマックスでは啜り泣きの声さえ聞こえたのだ。
思い返せば最初からあの空間には一体感のようなものがあった。
映画はメディアに残るしこれからの時代サブスクで配信されるだろうけど、それでは得られない体験が劇場にはあるのだと、マーヴェリックは思い出させてくれた。

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