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この世界の片隅に(おっさん)

優しいというのは、矛盾を許容できる、という意味だよ

犀川創平/封印再度


はっきり言って田舎が嫌いだ。
もう少し言うとフィクションの中での「田舎特有の~」な描写が我慢ならない。なんていうか異様に距離感の近い人間ばかりで、そいつらは往々にして人間関係の中にしか生きがいを見出せず、みんなゴシップ臭い話題が好きで、倫理的道徳的な面で遅れていてっていう…。
なんていうか、もう、

いいとこないじゃないですか田舎の人間って。

いやフィクションの話ですよ?実際の田舎の人がどうかは知りません。
とにかくそういう人間の描写が挟まるたび、それが小説だろうが漫画だろうが映画だろうが僕はそいつらを全員横に並べてトラックで突っ込みボーリングよろしくストライクを決めてやりたくなるわけです。
そしてこの映画はそういう話でした、と。



本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。賢明な妹シボーンや風変わりな隣人ドミニクの力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。美しい海と空に囲まれた穏やかなこの島に、死を知らせると言い伝えられる“精霊”が降り立つ。その先には誰もが想像しえなかった衝撃的な結末が待っていた…。



「あなたのことが急に嫌いになったからもう関わらないでくれ」
うん。まあ多くの人にとっては受け入れられないだろうし、僕だってそうだと思う。仲いい人にこれ言われたらかなりへこむ。泣くかもしれない。「デススト」のラスト以来の涙をこぼすだろう。
んで、たぶん僕は最後にもう一度そいつに会う。
自分は何かしたのか?
何が悪かったのか?
本当に元には戻れないのか?
そんな感じのことを聞きに行くと思う。それは関係の修復の希求…でもあるけれどどちらかと言えば納得のためだ。
「納得はすべてに優先するゼッ!!」と某鉄球の人はおっしゃっていたわけだが、嫌われた理由の納得というよりはそいつの意思の固さに対する納得のためにそうする。
だからまあ、その程度の未練感までは許容できる。

しかしあのクソッタレパードリックはそれで終わらない。

懲りることなく話しかけ、他人を利用して仲裁させようとし、次話しかけたら俺の指を切ると言われては話しかけ、実際に相手が指を切った後も酔って話しかけ、陰ではアイツ鬱なんじゃないかなどとのたまい、嫉妬から相手と仲良くなった人をエグめの嘘で島から追い出し、そしてまた話しかけて結局こじれて…。
なんなんだこいつは。
田舎の描写が嫌いとは言いましたがコイツのこう…しょうもなさがどうしようもなく嫌いというか。頭が悪いというか想像力が足りないというか世界を自分の視野で完結させようとする感じ…。
僕は劇場で「この世を死んだ方がいい人間とそうでもない人間に二分するならこいつは前者だな~」とか思いながら見てたよ。まだ悪人残した方がマシだろ。もう内戦とかいいからとっととこいつを砲撃しろよ。ほら!今だ!撃て!この社会悪を撃滅しろ!むしろあの小さな社会ごといけ!更地にしろ!土地を均してここにアイルランドを建国しろ!!

なんの話でしたっけ?

いやなんの話でもねぇや。僕がアイツきらいってだけの話だったわ。

んで、反面コルムの心情はかなり理解できるわけです。
彼の根幹にあるのは焦りと不安、そして絶望であり、それは同時にイニシェリン島の島民の多くが抱えるものでありながら、しかし気付かずにいるものです。身の回りにある最大のコンテンツが他人である人種にとって自分の内面を見つめるなどということはないのですから。
人生の終盤にさしかかりつつあるコルムにとって、絶望の根幹にあるものは何も残していないこと。おそらく彼は独身ですから子供もいないでしょう。このまま何も残さずに死んでいく可能性に気が付いた彼は焦り始め、つまらない友人との会話に浪費していた時間を作曲に使い始めます。
「人生は死ぬまでの暇潰しだと思ったことはないか?」
「ただ静けさが欲しいんだ」
彼の発する言葉は非常に共感性が高く、それゆえに浅く、卑近なものです。イニシェリン島の人々にとって"考える人"である彼も外から見ればその程度ということではあるのですが、たぶん僕もこの中に放り込まれたらこんな感じになるだろうなという想像から彼に感情移入をせざるをえません。

キャラクターとしてとらえるなら、彼の行動は非常に奇妙に映るでしょう。一貫していないのでは、と思う人もいるのでしょう。しかし彼に感情移入できる身としてはそこに矛盾などないように見えます。
客観的に見れば親交が深いがその実退屈を感じていた人物と絶交したくなる気持ちと、その人物が殴られ倒れているときに手を差し伸べたくなる気持ちは矛盾しません。焦りから残りの人生を音楽に生きようと決めることと、絶交した相手に自分の指を投げつける気持ちは矛盾しません。
彼は破滅的ではありますが、破綻してはいません。
じゃあそれを説明しろよと言われてもする気にはならないですが。
陳腐だからね。言語化も、彼自身も。
…僕もって言っといた方がいいかな?

そんな2人が喧嘩する、というただそれだけの話なんですよね。この映画。
正直言ってどこか卓越した映画だったかと言われたらそんなこともなく。じゃあ退屈だったのかと言われればそんなわけもなく。
ローテンションで一貫するのかなーとか思ってたら指を切るだの火をつけるだのと極端なことをするし。
イニシェリン島という閉塞的な空間の陰鬱さを俯瞰したカットは美しい…かと言われるとそうでもなくて、むしろ換気されていない部屋のようなエモから遠い空気の悪さを感じたり。
対岸の内戦、民族紛争、機能しない法、張りぼての神、とかも意味ありげでありつつ「意味ありげ」で完結しているような…。ここにサブテクストを見出す人もいるみたいですが単なる状況に対するレトリック以上のものはない気がするなぁ。いや、知らないけど。

言ってみればこの話は文学なので、キャラクターに役割などなくそれはただ人であり、世界は世界観を表現するキャンバスではなくただ舞台であり、ストーリーはテーマのないただ内面の出力の連鎖なんですね。
結果としてこいつ好き、こいつ嫌い、みたいな昼ドラを眺めてるときのごとき白痴じみた下世話な感想に終始する。そしてそれは普通に面白いことだったりする。

僕はパードリックとコルムを「紛れもないバカ」と「わかりやすいやつ」として観ていましたが、当然ながらこの捉え方は僕の視点から見た偏ったモノに違いないので、人によっては「純朴な男性」と「意味不明な老人」になりうるし「退屈な田舎者」と「退屈な田舎者」にも見えるでしょう。
誰かはこの映画に深い社会的意味合いを見出すんでしょうし、誰かは中年の醜い喧嘩と捉えるでしょう。

色んな解釈が生まれるんだと思います。そういう話なので。
その解釈を楽しむ映画なんじゃないかな、と思いました。
そしてそれは僕らの心の影でもあります。

パードリックは、ドミニクは足を滑らせて死んだと思い続けるでしょうか。

イニシェリン島は今日も、低い雲が垂れこめているでしょうか。

(画像引用元)

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