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"ありえない"と対峙する

自然は必ずしも最善の解決を生み出しはしません。それどころか、自然は手当たりしだいにあらゆる解決をこころみるのです。

クリスチャン・ダンチェッカー/星を継ぐもの


ホラー、と聞いてまず思い浮かべるもの。
まあ日本人だったら多分幽霊だろう。欧米やヨーロッパだったら悪魔かな。東アジアだったら、なんか儀式的なオリエンタルっぽい怪異だったりするのだろうか(『呪詛』面白そうですよね)。
じゃあ、宇宙人とか、どうだ。
最初は「いやいや…」と思うかもしれない。なんだか宇宙ってテクノロジーの領域っぽくて、そういう非科学的要素との相性が悪そうだから。
んが、実はそんなこともないというのはあの有名なドラマ『X-ファイル』が示している通りだし、別の文脈で発達したホラーとして宇宙的恐怖って言葉もある。宇宙というほとんど未知の化身な存在は、実はホラーとかなり相性がいいのだ。エイリアンとかジェイソンXとかあるしね。え、なんですかその目は。いい映画ですよね、エイリアン。

じゃあこの『NOPE』ってホラー映画が宇宙的なホラーかっていうと、実はそうじゃなかったりする。いやがっつりUFOとかUAPとか言ってるし、その撮影がテーマではあるんだけど、でもこの映画から受け取る恐怖は宇宙の恐怖とは少しだけ違う。


異常事態を表現するとき、何を画面に映すか。

空に何やら異常なものがある。
であれば、空から何かが降ってくることにしよう。降ってくるものは見えず、砂ぼこりと音だけを立てるようにしよう。

異常なものが近づいてくる。
であれば、それは自らの周囲に無電地帯を発生させることにしよう。近づいてきたときに電話は繋がらなくなるし、モニターは切れるし、スカイダンサーは力なく倒れるようにしよう。

異常な事態が起こってしまった。
靴を垂直に立たせてみよう。ちょっと普通じゃない光景だから。

こういった婉曲的な演出はスピルバーグの『宇宙戦争』なんかにも通じるところがあって、呼吸を映すために口元にクモの巣を置いたり、虐殺を映すために死者の服を宙に回せたりする手法と似ている。
異常そのものを映さず、それが引き起こす事象を映す。そうして異常事態を演出する。状況から実体を演繹的に想像させることで、観客から見せられているという意識を巧妙に盗んで、異質な空気が匂うような感覚に陥らせ、没入させる。この手法をホラーに持ち込んだときの威力を『NOPE』は見せつけた。

映画において"演出"というのはほとんど何を画面に収めるかということに等しいけれど、ジョーダン・ピールという監督はその演出力がちょっと飛び抜けている。そんな圧倒的演出力によって表現されるホラーは、確かに宇宙的な未知に圧殺されるような緊迫感に満ちた代物だった。

前半までは。

後半、とあるTV番組のシーンが挿入される。観客は、それが冒頭に音声のみ流された部分だとすぐに気づく。まさにアメリカンホームコメディといった調子で展開される茶番劇は、獣の金切り声を境に惨劇と化した。
直後に映されるのは血みどろの現場。生理的な厭悪を引き起こす鈍い打撃音を響かせて、ヒトの祖先から分かたれた動物のむき出しの野性、それが生む暴力を観客は見せつけられる。

この凄惨なシーンは、それまでの圧迫感と似た感覚を想起させるが、少しだけ違う。空に浮かぶ「未知」がもたらしていたのはまさに未知ゆえの恐怖であり、それは僕らが知らない超越的な存在に対するある種の畏敬を孕んだ、潔癖な恐怖だった。しかし、中盤に挟まれた惨劇の恐怖は野生が引き起こすものであり、生々しく、言ってしまえば卑近なものだ。未知への恐怖の対極にあると言っていい(「エイリアン」に抱いたものだって"完璧な有機物"に対する畏敬が少なからず含まれていたわけで、暴力的な霊長類に対する恐怖とは全く違ったはず)。

惨劇の最後、唯一の生き残りである当時の子役・パクは、ひとしきり暴れたチンパンジーのゴーディと目を合わせ、拳を突き合わせて、まるで心を通わせるようなコミュニケーションをとった(正確にはとりかけた、だけど)。しかし、大人になった彼がGジャンという何とも卑近な名を付けられ、「未知」の称号をはく奪された未確認生物と目を合わせたときは心を通わせる暇もなく、命を奪われた。

パクを媒介として明白に対比されたのは「対話の可能性の有無」。野生を見せつけ暴力をふるったゴーディでさえ、暴力の動機はストレスであり、ヒトとコミュニケーションをとりうる余地があった。しかしGジャンにはそれがない。Gジャンはもはや未知の神棚から降ろされ、コミュニケーションの可能性という高級さも失われた、原始的な動物として表現された。
この時点で『NOPE』はホラー映画ではあれど、さながらパニックホラー映画のように変質するのだ。

野生の暴力を起点としてアクロバティックな転換を決めた『NOPE』は、しかし、その面白さを衰えさせることなく、後半の数十分をアクションの連続で駆け抜ける。最終、未知から原始に還元されたGジャンは、天使のごとく神々しく、無機と有機双方の印象を与える不可解な姿に変容し、人の手によって死んだ。僕は最初から最後まで手に汗を握りながら観ていたけれど、その汗を生んだ感情というのは前半と後半で全く違っていた。


不思議な映画体験だった。
前半はホラー的演出力に気圧され、後半はグングンと加速する展開に手に汗握る。これだけベクトルの違うものを見せられながらも、失速や置いてけぼり感を受けることなく連続的に感情の盛り上がりを感じる。
正直なんだか騙されたような気分になっている。が、よく考えてみればジョーダン・ピールは『GET OUT』や『us』でもこのアクロバットをやってのけていた。多分、彼はエンターテイナーなんだと思う。ストーリーテラーであり、映画作家でありつつ、本懐はきっと人を楽しませることにあるんじゃないだろうか。
だから僕らは騙される。巧みな演出に、グングンと進むストーリーに、恥ずかしげもなく押し出される批評性に、どこまでもまっすぐな音楽に、完璧な緩急の編集に、すっかり騙され、流され、乗せられ、大満足で劇場を後にする。
つまり、まあ、騙されたっていいんだと思う。
こういう映画を見た時の感想って、
だいたい「NOPE」よりも
「YUP」に近いし……なんて。

うーん、いい感じにまとめようとしたが失敗したかな。

上手いこと騙されてくれません?

(画像引用元)

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