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現実より、親愛なる隣人へ

これがわたし。
これがわたしというフィクション。
わたしはあなたの身体に宿りたい。
あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。 

伊藤計劃

※この記事には『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレが含まれます
(画像引用元)


物語は内部世界のみで完結することはない。


そう言ってどれだけの人が納得してくれるだろうか。
もう少し噛み砕いて言おう。
フィクションは、どれも現実世界があることを前提にしており、それから独立した完全な空想としては存在し得ない、と。

鬼滅の刃を例に出そう。
漫画は累計発行部数1億5000万部を越え、映画「無限列車編」に関しては興行収入が400億円を越した。これは日本映画史上1位を記録し、2位の千と千尋の神隠しと100億円以上の差を生んでいるそうだ。
その情報を一切頭に入れずに鬼滅の刃というコンテンツに望むことが果たして可能だろうか?
おそらく、ほとんど無理だ。
漫画の連載が開始された当時から追っていない限り「大人気コンテンツとしての」鬼滅を追うしかない。単にその世界の内側で起こっていることを見ることは出来ず、僕らが生きる現実のコンテクストを引きずることになるだろう。
可能不可能の話ではない。
そういうものとして規定されてしまっている、というフィクションの性質の話だ。

ある意味で呪縛である。
どんな物語も、それから逃げることは出来ない。

それに対する解決、あるいはカウンターがないわけではない。前提としての現実を逆手に取り、その社会性を盛り込む、だとか、メタフィクション的な構造にするとかがよく知られる手法だ。フィクションを虚構と認めること、あるいは現実の鏡像と見立てることで、嘘であることに意味を持たせるのだ。
だがそこにも限界がある。
なぜなら、多くの作品は商品だからだ。経済という「いま、ここ」の現実に横たわる最大のルールに支配されているからだ。
マーケティングのため、あるいは単に組織の上の人間の都合、そして何よりあらゆる規定と暗黙的な約束で作品の内容や製作陣は左右される。
徹頭徹尾作品が作品に準じることはありえない。


ここにひとつの例外が生まれた。
スパイダーマンという世界から愛されたキャラクターだ。


もともとスパイダーマンの映画化権を持っていたのはソニーであり、トビー・マグワイア版の三部作も、アンドリュー・ガーフィールドのアメイジング・スパイダーマン二作もソニーのものである。それゆえ本来マーベルのキャラでありながらも、マーベル・シネマティック・ユニバースにトム・ホランドがスパイダーマンとして登場すること自体奇跡だったのだ。シビル・ウォーでのスパイダーマンとアイアンマン、キャプテン・アメリカとの掛け合いには胸が熱くなったのを、僕は今でも覚えている。
だから、スパイダーマンがMCUから離脱する話を聞いたときには大いに失望したものだ。結局、フィクションはどれだけ愛されていようが経済の中にある商品でしかないのか、と。
トム・ホランドとプロデューサー陣の尽力で何とか三部作は完成させられることになったそうだが、その事件は何となく僕の心にしこりを残していた。「ノー・ウェイ・ホーム」が始まった時、最初にスクリーンにデカデカと映し出されたSONYの四文字、それに続くコロンビアピクチャーズのロゴ。それを見たとき、僕はその頃の感情を思い出した。

映画は着々と、というより異常なまでのスピードで進行していった。展開も編集もまるで最近のYouTubeの動画のように速い。一作前の『エターナルズ』が映画としての品格に拘っていたのに対し、こちらは映像作品としてより挑戦的だ(そして内容ともかくその姿勢はより”映画的”だと僕は思うのだけれど)。想像していたピーター・パーカー=スパイダーマンの二面性が社会的にどう捉えられるかという話の掘り下げはせず、とっととドクター・ストレンジと会い、マルチバースの展開に移ってしまった。まあメディアリテラシー的な話になると「ファー・フロム・ホーム」と被るし、それはそれでいいんだけれど、ただここにひとつ、仕掛けがある。
こうは思わなかっただろうか。
「予告と違うじゃん」
予告ではスパイダーマン=ピーター・パーカーの事実が世界的に明るみに出て色々とトラブルが起こることが重めに扱われそうだったのに、実際は軽快な音楽とともにささっと済ませてしまった。ストレンジが忘却の魔法を使うシーンの前後も、ウォンが強行に反対していなかったり、CG演出が違ったりと結構わかりやすく異なっている。普通だったら「だからなんだ」って程度のことだけれど、これはスパイダーマンだ。ただでさえマルチバースの設定を全面に押し出し、かつての映画でのヴィランが同じ俳優で登場したりしている予告を出し、ファンが「ひょっとすると…」となっているこの状況。そこにきて映画が予告と違うという事実。これは意図的に演出された肩透かしだ。その「ひょっとして」の期待感を少しばかり奪い去るためのメタ的な仕掛けである。
これは僕の考えすぎだろうか?そうかもしれない。しかし考えてみて欲しい。「ファー・フロム・ホーム」の時点で僕らはエレメンタルズやマルチバースの肩透かしを食らっているのだ。

そして、僕らの予感をフラットに均して物語は進んでいく。
かつてのヴィランたち。ホランドにとっては邂逅。僕らにとっては再会。
スパイダーマンらしいコミカルなやりとりと懐かしい顔ぶれ同士の掛け合いに浸りながらも、展開は暗い方向へ。

ゴブリンが暴走し、ピーターとの戦闘になったとき、彼はその道徳心を嗤った。お前はそれに縛られている。お前は叔母の道徳心に規定されている、と。彼はピーターに殴られながらも高笑いした。それは「ダークナイト」におけるバットマンとジョーカーのやりとりと似て非なるものだ。ジョーカーはバットマン=ブルース・ウェインの二面性が持つ矛盾を抉り出し、その葛藤がこもった重い拳をぶつけられることに本物の歓喜を見出し、笑っていた。ゴブリンはスパイダーマン=ピーター・パーカーが子供という事実、その甘さが込められた軽い拳をそんなものは効かないとばかりに笑い飛ばしたのだ。
そして、彼が元凶と見定めた叔母を、その手で殺した。
「大いなる力には大いなる責任が伴う」
スパイダーマンという物語に五寸釘のように打ち込まれた呪い。ピーターの保護者にかけられた運命に従い、彼女は死んだ。

メイはこうも言っていた。「やり直すチャンスを与えるべきだ」と。それが今回の「ノー・ウェイ・ホーム」におけるキーワードだ。それは物語上ヴィランが持つ死ぬ運命の回避という意味で使われる。だからピーターは彼らが本来持っていた善性を取り戻す選択をしたのだ。その意味でゴブリンは正しいことを言っている。彼女がそういう人だったから、ピーターはストレンジとの対立を選んだのだから。
ただ、「やり直す」のであれば、それはホランドの仕事ではない。

ネッドがピーターに会うため、ワームホールを開く。
するとその向こうにスパイダーマンが見える。
MJが彼を呼び、彼はこちらの様子を伺っている。
こっちへ来い、と呼ぶ。彼は小走りでくる。
あれ?
なんか違うな。
ちょっと大きい、ていうか背高くない?
なんか、これ、あれ?あっあっあれあれあれ?
あっ、嘘っ、ホランドじゃない!
てことは…!

彼がマスクを脱いだ時の興奮を何と形容したらいいだろう。いや、形容など不可能だ。MCUのスパイダーマンを観ているときにスパイダースーツを着たアンドリュー・ガーフィールドがスクリーンに映った時の感動は「MCUのスパイダーマンを観ているときにスパイダースーツを着たアンドリュー・ガーフィールドがスクリーンに映った時のような」という以上に適切に表現せしめることはできない。そして、トビー・マグワイアもまた同じ。彼のおよそヒーローらしからぬ優しげな顔がスクリーンに映ったときの感動。僕はその瞬間、まだ話の途中でありながら「完成した」と思ったのだ。

そしてそれは愚かな考えだったと思う。
この物語は「やり直す」物語だ。
彼らはやり直す。
かつて自分が殺した宿敵達との和解を。そして、自分自身の救済を。
ガーフィールドが自由の女神から落下するMJを受け止めた時、鳥肌がたった。
マグワイアが復讐の念を込めた重い拳を振るい、ゴブリンにトドメを刺そうとするホランドを無言で止めたときの感動は他では得られない。
20年の時がここに集約された。彼らは、ここに救われたのだ。

長い時間をかけて展開されるコンテンツの集大成という意味では、「エヴァ」や同じMCUで「エンドゲーム」、また「FF14」なんかに似た要素がある。蓄積された時間の回収、その解放。それが持つカタルシスが、スパイダーマンにもあった。
しかし、それらとは違う点がある。
それは、経済という壁を越えた点。
メタに存在する権利・契約という、本来超えられるはずのない壁すらをもスパイダーマンたちは飛び越した。
現実というコンテクストを利用し、超越した。
3人のスパイダーマンとヴィランが集結するあの瞬間、それはフィクションが確かに現実を凌駕した一瞬だった。

結末として、ピーター・パーカーは世界から忘れられることとなる。
愛し合った人物、相棒であり親友、信頼できる仲間たちとの絆を失い、また物理を専攻する優秀な高校生という肩書きすらも失くしてしまった。
テクノロジーに守られていない、狭いワンルームの部屋に帰り、ヴィヴィッドなカラーのスーツをミシンで製作する卑近とも言えるその様は、アベンジャーズとともにあった日々とあまりにも差がついている。かつてのように宇宙へ行き、世界を守る戦いをすることなどもうないのだろう。その日常がニック・フューリーに脅かされることだってありえない。スターク・インダストリアルの後ろ盾もない。
それは彼自身の決断によるものだ。
自らを犠牲に世界を救うという判断は、エンドゲームにおけるトニー・スタークに重なって見える。自らを忘れた恋人、親友との関係の再構築を選ばなかったのは、別世界のピーター達のように彼女らを傷つけないためだ。
だから彼はマスクを被る。自らと身近な人々を守るために正体を隠し、叔母から受け継いだ道徳心を胸に、警光灯色のスーツに身を包みニューヨークの夜を駆る。
彼は世界を股にかけるヒーローから、親愛なる隣人へと戻ったのだ。
帰り道はない。
彼はもう、MCUの世界に戻ることはないかもしれない。
けれど、スパイダーマンという物語は死んでいない。
それはいつだって、親愛なる隣人として、現実の、僕らのそばにある。

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