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ライズでロアでレヴォルトです

もう考えるな!!!走ってしまえ!!!

ガッシュ・ベル/金色のガッシュ!!


インドって多分デッケぇ。
インドって多分アッチぃ。
よく知らんインドという国に漠然とそんな印象を抱いているのはぼくだけじゃないでしょう。人口が14億いるとか、カレー発祥の国だとか、ヒンズー教だとか。ぼくらはインドをそんな情報でしか知らない。そも実際そんな暑くはないし。
インドのスピリットというものに、まったく不知でいるぼくらだけど。
今、それは映画館の中にある。
映画館の、シアターの、スクリーンの中。
インドは『RRR』の中にある。



舞台は1920年、英国植民地時代のインド英国軍にさらわれた幼い少女を救うため、立ち上がるビーム(NTR Jr.)。大義のため英国政府の警察となるラーマ(ラーム・チャラン)。熱い思いを胸に秘めた男たちが”運命”に導かれて出会い、唯一無二の親友となる。しかし、ある事件をきっかけに、それぞれの”宿命”に切り裂かれる2人はやがて究極の選択を迫られることに。彼らが選ぶのは、友情か?使命か?



この映画の最も卓越している点は説得力です。
「映っている」以上「起こっている」のだ、という叙事的かつ一方的な語り口を持つ映像という媒体において、説得力という言葉はちょっと空虚に響きますが、展開があまりに嘘過ぎると興ざめしてしまうのも事実。そのあたりのバランスのとり方というのが映画としての個性とも言えるでしょう。
徹底して生々しさを追求するものもあれば逆に夢のような嘘で塗り上げるものもあり、虚構の中にアクチュアリティを潜ませるものもあれば色々と放棄して見世物と化したものもある。


では『RRR』は?


最初に少女の母親が殴られるシーンを見たとき、ぼくは劇場で声を上げそうになってしまいました。
兵士が、無造作に拾った木片を思いきり振りかぶり、女の側頭部に向かって振り抜く。
フィクションとしてはなんでもないワンシーンに対し、誇張ではなく「うおっ」という驚きの声が喉から漏れそうになるほどに、インパクトのあるシーンでした。このとき驚くと同時に、ひょっとしてこの映画は生々しさに指向しているのではないかと思ったのです。『シンドラーのリスト』がユダヤ人の射殺を1カットで収めたのと同じように、『悪魔のいけにえ』が鉄扉を閉めるレザーフェイスを俯瞰でとらえたのと同じように、起こった事象を見せつけることが持つ力を意識した作品なんじゃないか、と。
しかし、次のシーンではあまりに生々しさ——言い換えるなら現実臭さからかけ離れた描写がなされます。


何百という圧倒的な数の群衆。フレーム内にそれだけの数の生きた人間が躍動しているというある種の異常事態にインド映画のパワーを感じるのもつかのま、その中に役者が切り込んでいきます。命令ともいえない命令に機械のように反応し、周囲の人間をなぎ倒しながら1人の対象に追いすがり、そしてついには上官の前に引きずり出して、火照った顔を消火用バケツの水で冷やす…。
この大立ち回りはあまりにも現実からかけ離れていて見世物的です。だってありえないから。
しかしなぜか、そこに嘘は感じなかった。
あまりにもありえないのに、見せられているという感覚がなかった。凡庸なアクション映画で車が横転するシーンを無感動に流し見する時とは対極の時間が流れていた。『ブレードランナー』や『デューン』のようなまったくの異世界をアクチュアルに感じるのに近い、虚構に対して感じるリアルがそこにあった。
なんなんだ、これは。


さらに意味不明かつ正体不明の高揚はとどまるところを知らず、それどころか怒涛のテンポ感でピークが更新されていきます。虎を狩り、子供を救い、友情を深め、踊り、すれ違い、対立し、歌い、暴れて、暴れて、大団円。
3時間という長丁場も、グングンと進む物語の心地よいスピード感に身を任せ、ドラマとアクションに没頭していると一瞬に等しく感じました。


鑑賞後、映画館を出たぼくの中に滞留した満足感は単に良い作品に触れたときのそれだけでなく、新たな地平を見たときの昂りがありました。
しかしなぜ?
『RRR』の作風はぼくのツボからはやや遠いところにあるはず。なのになぜぼくはこうまでハマることができたのだろう?
その理由が説得力というやつなんですが、じゃあそれってなんなんだいって話は1つのシーンに集約されています。


ナートゥをご存じか?
インド映画っていうと連想するものといえばまあダンスでしょう。なんか知らんが話の合間に突然踊りだす。役者が踊る。エキストラが踊る。カメラはそれを最適な角度で納めるよう追従し、音楽が空間を表現する。展開上の必要性は一旦置いといて、フレームの中に収められた世界は、一転特徴的なダンスを演出するための舞台へと変貌する……。
一体全体なんなのかまったくもってわからん。
わからんが、たのしい。
この天井知らずの興奮の内に『RRR』の本質を見出すことができます。


『RRR』は徹底して「見世物」であろうとしているのです。


見世物と言うと聞こえは悪いですね。快感原則のツボを押すだけの"浅い"コンテンツに対して使うべき言葉かもしれません。しかし徹底するとなると話が変わってきます。
見世物であるとは娯楽であるということ。観客を楽しませるために作られたものだということです。この映画は複数の要素の掛け合わせによって見世物に徹します。


まずはディテール。
例えば、爆発が起こるとしましょう。爆発が起これば吹っ飛ぶ人間がいます。それを描写することで爆発の効力を示し、観客は「爆発が起こったなあ」と了解します。大抵ここまで映せば爆発の映画的な機能はこれで満たされるのでカットが入って次のシーンへ移行しますよね。
『RRR』はそこで終わらない。
爆発が起こった?なら人が吹っ飛ぶよな。吹っ飛べば壁にぶつかったりするな。ぶつかれば骨が折れたりするだろうからその音を入れなきゃな。壁には血がこびりつくだろう。これをぜーんぶ撮って、よし、1シーン完成!
とまあこんな風に考えたかは知りませんが、結果としてスクリーンには爆発で吹っ飛び、壁に体を打ち付け、骨を折り、絶命する人間が映されると。
起こっていることを伝えるという最低ラインで妥協せず、起こったことに対して付随する現象を細かに映し出すことで映像の威力を上げ納得感を増幅する……。爆発で例えましたが、同レベルの綿密な描写が作品全編にわたって行われています。ぼくが冒頭で生々しさと勘違いしたのはこのディテールの威力によるものです。木片で殴られる人間を見たときのインパクト。それは起こっていることを冷徹に映しているからではなく、徹底した状況の演出によって生まれたインパクトと言えます。


次に音楽。
シチュエーションの演出というものに欠かせないのが音楽です。上記の爆発の描写にも骨が折れる音という演出がありましたが、『RRR』は歌が頻繁に用いられます。
歌というのは単なる曲と違い歌詞があるので直接的に意味を持たせることができます。極端な話、登場人物の心情をすべて歌で説明させることもできてしまう。普通はそんなことしませんけどね。下品だし。
しかーし『RRR』ってやつは躊躇しません。さすがに心情の説明はしませんが、状況の説明はします。今の場面は展開上どのような意味を持つのか、リリックによって親切に教えてくださったりします。しかもこれに嫌味がない。鬱陶しさもない。昨今の映画音楽というのはムードの演出という機能に殉じるものが多いですが、ンなもん知るかとばかりにゴリゴリと前面に出てきて、なおかつ怒涛の展開の、その怒涛っぷりに肩入れしながら上手く支えている。奇跡のようなバランスが成り立っています。


そして役者。
顔の濃さもだけど体つきがすごい。ムキムキでマッチョです。いやまあそれだけだったら映画界にはたくさんいるでしょうが、ハリウッドの俳優の体つきとはちょっと違います。
あの美しさはなんていうんでしょう。魅せるために作られた体には見えません。でも機能美とも少し違う。力を振るうためでもなく、鍛え上げることを目的にしているわけでもなく……。
あえてレトリックに酔うならば、舞うために形成されたような体です。たおやかに、ではなく力強く。蝶のように、ではなく雄牛のように。単純に体見ててすげ~ってなるのもそうなんですが、前述した演出に彼らのキャラの濃さと体つきが相まって凄まじい画力を生むんですよね。
そしてその画力がとある効果を生み出します。
「何百の人間をなぎ倒しながらそのうちの一人を連れてくる?」
「虎にフィジカルで拮抗する?」
「初対面の人間とアイコンタクトだけで通じ合って燃え盛る川の中から子供を救出する?」
「肩車で幾人もの軍人をなぎ倒す?」
「……まあ、こいつらならありうるか。」
てな風に、強すぎる画力でもって「そんなわけない」ことに対して「まあそうなるか」という納得感を生ませている。これは『ジョジョの奇妙な冒険』でいうところの「スゴ味」というやつに近くて、作品が持つテイストというものが強すぎるとある程度の超展開も「味」になってしまうんですね。超展開を超展開として楽しませることができる。『RRR』も間違いなく、その手の作品の一つでしょう。


さて以上の要素を合わせただけでは勢いだけの迫力主義的な映画となってしまいます。見世物としてはそれで十分です。ていうかそれだけでもかなり面白そうではある。しかし舐めてはいけない。『RRR』は洗練され研鑽された、言うなれば見世物の極致と言える領域にある。
最初の話に戻りますがこの映画の最も卓越した点は説得力です。説得力とはスクリーンの中の状況を、それが起こっているということを観客に納得させる力。辟易するような嘘臭さを脱臭する力。フィクションをリアルに体感させる力。それを生むのは何か?
それは論理性。この映画には画の威力を、音楽を、役者をまとめ上げるものとして、ロゴスが天蓋のように覆っているのです。


論理性?この映画に?て感じでしょうが、実のところかなりロジカルに構成されていると思います。いや実のところというか徹頭徹尾ロジカルです。違う言い方をすれば理由付けがしっかりしています。
例えば、ラーマが群衆に切り込むシーン。普通はタコ殴りにされて終わりです。これが観客の頭の中にある常識。で、どうなったかというと、やっぱりタコ殴りにされます。ただし、それを脅威のフィジカルで跳ね返す、とかはせず、ちょっとした小道具を利用したり軍人らしい対人格闘の技を見せながら、ボロボロになりながら目的を達成します。ここでその小道具や格闘術は外連味ではなく、状況の妥当性を保証するためのものとして存在します。
例えば、ビームが虎と取っ組み合うシーン。普通は膂力で負けて殺されて終わり。これが観客の常識。でどうなったかというと、罠として設置してあった滑車を利用して抑え込むんですね。虎を縛り付けた縄を振りほどかせないよう、人類の知恵と持ち前のパワーでもって対抗する、と。真正面から拮抗してたらビームをフィクション的ヒーローに落とし込んでしまうところを滑車の機構によりギリギリで回避していると言えましょう。
他にも子供を助けるときの濡れた旗、音楽隊の中にいた黒人、猛獣を追い払うための松明、脚をけがしてる相棒を肩車、とかとかとか……。
映画なのだからある程度理由のない、展開のための展開というのも許容されるはずですが、『RRR』はそれを周到に避けています。Aが起こってからBが起こる。Bが起こった後にDが起こったなら、Cを音楽や描写で補足する。基盤のパッショナブルかつエネルギッシュなテイストにがっつり説明と言い訳を乗せることで、リアリティラインのギリギリを潜り抜けている。
もちろん、ここでいう論理性とは『RRR』独自のロジックであり言ってしまえば「ゆで理論」とかに近い代物ではあるのですが、それを意識的に実行している計算の匂いを、ぼくは感じます。



spotifyで『Hideo Kojima Brain Structure』のラージャ・マウリ監督ゲスト回を聞いたとき、彼の思いのほか物静かな声が意外でした。が、よく考えてみれば『RRR』はパッションの塊のような映画かと思いきやふたを開ければ非常にクールにロジカルだった。パトスとロゴスを併せ持つ彼の人間性も納得というものです。

……いや、あるいは、そもそもインドとはそういういう国ではないでしょうか。

インドって多分デッケぇ。
インドって多分アッチぃ。
ふわっとしたそんな印象を持ってしまっている、とぼくは冒頭言いましたが、実のところインドは数学的に発展した国でもあり、有数のIT先進国でもあります。
だからなんだというつもりもありません。こじつけ臭くなるし。
しかし、あの国が生んだラージャ・マウリという人間、彼が生んだ『RRR』という映画が、インドが持つスピリットをフラクタル的に持ち合わせているように思えてなりません。これを観て「インドを感じた」と言ったとして、それが傲慢でしょうか?
もうわざわざ自分探しに旅行することもないでしょう。
ぼくらには『RRR』がある。

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