やがてみえるもの
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樋口真嗣のパンツ理論、というのをご存じだろうか。
宮崎駿:パンツを脱ぎそうで脱がない
庵野英明:パンツを脱いだら変なものが付いていた
押井守:パンツを脱いだら偽物が付いていた
なんのこっちゃかと思ったかもしれない。
これは映画監督:樋口真嗣が提唱した理論(というか冗談)なんだけど、要はあの辺の映画監督がどれだけ作品に自身を赤裸々に反映してるかってことを表してるわけだ。なんとなくわかるって人が多いんじゃないだろうか。
ちなみに富野は「パンツも何もかも脱ぎ捨てて全裸で暴れまわっている」らしい。ものすごい納得感。
で、パンツ理論になぞらえるなら、今回の宮崎駿はかなり脱いでいたのではないかと、僕は思った。
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『君たちはどう生きるか』が今までのどの作品よりも"死そのもの"の匂いが濃いのはなぜだろう?
「不思議の国のアリス」の白ウサギに代表されるように、ファンタジーに対する導入には"扉や洞穴をくぐる"という過程を経ることが多い。
宮崎作品においてもそれは例外ではなくて、「トトロ」では小トトロを追って藪の小道から大人には気づけない非日常への導入がなされていたり、「千と千尋」では言わずもがな例のトンネルをくぐったりしている。
けれど、今作においてはそれはない。
主人公:眞人は塔の抜け穴を通らなかった。
使いの老婆たちに引き止められて通らなかった。
しかしアオサギは喋り、眞人は足元から蛙が這い上がる体験をする。
ベッドで目覚め、夢だったと気付くものの、夢の中でアオサギに破壊された木刀はやはり破壊されていたことを知る。
眞人は通過儀礼を経ず、非現実に現実が侵食されていく。
実際は床に潜る過程があるわけだから通過儀礼というならそれだろう、と思うかもしれないけれど、あちら側へ踏み入った眞人は案外簡単に扉を開けて戻ってこられたり、あちらの世界の存在があっさりこちらの世界へと出てきたりもする。
そして実は、眠った眞人が夢から目覚めたと保証する場面は、映画内にはなかったはずだ。となると同時に、"いつの"眠りからかも曖昧である。
最初に連想したのは押井の『イノセンス』のようにレイヤリングされていない世界。ただこの映画で現実と溶け合うのはバーチャルではない。
それこそが死の匂いだ。
この映画の死の匂いの濃さは、死の世界が彼岸の風景としてではなく、あくまで此岸の、日常を侵すものとして描かれていることに起因している。
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実はこれは、彼のフィルモグラフィーを見ていけば至極真っ当な到達かもしれない。
「千と千尋」で描かれたあの世は異世界だった。それは千尋がたまたま川を渡ってしまったがゆえに、少しだけ向こう側の景色に足を踏み入れてしまった物語だった。
「ハウル」は表現が暴走した結果、映画の構造が伏線も説明も何もかもを放り捨ててしまって、果たして物語と言っていいのか怪しいラインに乗ってはいるけど、だからこそ虚構であり続けていて、個人の生死は壮大な叙事の中に埋もれていた。
「ポニョ」における世界の氾濫は当時はただ混沌として正体を掴めなかったけれど、「風立ちぬ」においてはそれはやはりあの世であったと気付き、堀越二郎の夢として描かれた。
宮崎駿は確実に迫ってくる死という現象と、知ってか知らずか向き合い続けていたんじゃないかな。
だからこそ今回の到達はわかりやすい。
彼にとっての死は、ここまで近くにきた。
まるで足元から這い上がり、全身を覆うような実感として。
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テイスト自体は単純に好きだ。老齢に差し掛かった人間にのみ視える世界を体感できるのはフィクションの力の1つだと思う。
画の威力も——他の追随を許さないとまでは流石に言えなくなっているにしろ——相変わらず凄まじい。
だから浸るだけでとても楽しい作品ではあった。
ただ、見過ごせないことがある。
この映画は、物語構造を放棄していない。
「千と千尋」まではどうにか保っていた物語の構造を、彼は「ハウル」で放棄した。「ポニョ」においてはお話としての破綻を"子供向け"の風味で煙に巻き、「風立ちぬ」では実際の人物を取り扱うことでストーリーテリングにしがみつきつつもあの世の訴求に抗えず、だからこそそれを夢としてレイヤリングして描かずにはいられなかった。
でも、今回はそうではない。
言葉としても映像としても伏線は生きていて、中身の混沌に対して展開は段階的に進行する。
内容は"よくわからない"としても、つくりは真っ当だ。
作品を満たす観念と理性。
宮崎駿は、自分に迫りつつある死を受け入れつつある。
そこには悲哀があった。
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僕は別にジブリに対する愛着があるわけではない。
農耕主義で古の戦争マニアで特有の女性コンプレックスを持ち合わせた爺さんに対する思い入れなんてさらさらない。
けれど。
彼はどうしようもなくレジェンドで、僕がオタクになる前から強靭な物語を提供し続けた多くはない人物のひとりだ。
その彼が死を見つめている。
パンツを脱いだ、と僕は言った。
赤裸々という意味では確かにそうだ。
でもそれは、死装束を着込む準備のようでもあった。
『君たちはどう生きるか』なんてテーマをそのままタイトルにしておいて、「悪意とともに生きる」なんて結論しておいて、実のところ何も解決していない。
こちらに問いかけるその"姿勢"に相対し、しかし僕は自分自身に向き合うより彼に対して感傷的な視線を注がずにはいられなかった。
表現だとか創作だとかの枠組みを越えて、
ひとりの人間が遺そうとしたもの。
それはどこまでも哀しく、
不思議なほど透き通っていた。
(画像引用元)
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