見出し画像

いま、ここ。いつか、どこか。

……何を隠そう、かく云う吾輩自身の事なんだが、おかげでこうして大学校の先生に納まりは納まったものの、正直のところ、考えまわしてみると吾輩は、一種の研究狂、兼誇大妄想狂に相違ないんだからね。そこいらの精神病学者の研究材料になる資格は充分に在るという事実を、自分自身でチャント診断しているんだ。
正木敬之/ドグラ・マグラ

※この記事には『THE BATMAN』のネタバレが含まれます。
(画像引用元)


物語が一人称で展開されるとき、それは自己欺瞞と韜晦に満ちたものになる。かつて、夭折の作家伊藤計劃が自身のブログ上でそう発言したことがある。この時は小説においてという文脈だったが、『THE BATMAN』を観賞し、この感想文を書きながら、僕はそのセンテンスを思い出した。

今作のバットマンは、ミステリーとも言えるし、ファンタジーとも言えるし、SFとも言える。

ミステリーという点に関してはきっと誰もが同意できることだろう。病質的な犯罪者リドラーが起こす連続殺人を、ゴードン警部と手を組んだバットマンが探偵として追い詰めて行くという話の構造がそれだ。映画「セブン」と比較されているのをよく見かけるが、犯罪の猟奇性、作品のテイストを鑑みると確かにそう見える人もいるだろうと思う(ディテールはどちらかといえばゾディアックな気もするが)。この作品がセブンと決定的に違うのは、あれが一刑事と名も無き犯罪者のイタチごっこなのに対し、今作は探偵役としてバットマン、殺人犯としてリドラーというアイコニックなキャラクターたちの話だという点だ。


僕がファンタジーだと感じたのは、そのキャラクターと世界観にある。
今作における「探偵」と「犯人」は、どちらも病質的だ。誇大妄想と嫉妬から連続殺人と爆破テロを起こすリドラーは言わずもがなだが、バットマンですら、復讐心と猜疑心に身も心も窶した破滅的な人物として描かれている。
ダークナイト・トリロジーにおいてクリスチャン・ベイルが演じたブルース・ウェインは、ハンサムで金持ちの自信と余裕がありおまけに女たらしだった。しかもゴッサムシティ内に住んでいないのだ(いなかった、だっけ?)。今思えば、その二面性を演出するためのキャラクター描写は、ブルースの”ヒーロー稼業”を微妙に軽薄なものにしており、そしてそれゆえのリアリティがあったとも言える。
しかし、ロバート・パティンソン演じるブルースはそのような二面性を持たない。もちろん、表の顔→ブルース・ウェイン、裏の顔→バットマンという意味での二面性は従来通りちゃんと担保しているし(というかそれがバットマンというキャラクターの根拠なのだが)、後述するがその二面性というやつを今作のテーマにもしている。しかし、それは客観的に見た時の二面性であり、彼自身の中ではブルースとバットマンは人格として分けられることなく、融けあったものとして存在する。コインの表裏ではなく、天秤の左右のようなもの。どちらにも振れるし、どちらも彼自身だ。社会性を失った富豪としてのブルースと自らを”復讐”の化身とするバットマン。目的のためなら法は犯すし暴力も振るう。女性の着替えを平然と監視するその危うく変質的な姿は、彼をヒーローというよりも単にフリークスとカテゴライズした方がしっくりくる。そう、フリークス。それは、リドラーと同じ類型だ。

時代設定は作中では明確にされていなかったけれど、SNSが日常のそばにあり、街の中心部では巨大な街頭テレビがいくつも並んでいる風景は現代的にも見える。しかし、一度中心街の外に出てみれば、そこにはまるでガス灯のような色合いの電球色の街灯が立ち並んでいたし、その街を跋扈するギャングたちは「ゴッドファーザー」の世界から抜け出したかのような典型的なギャングといった出立ちだ。そして、それら全てを見つめるカメラ(観客の視点)はエッジがぼやけ、世界の輪郭は漠然として定まらない。
これは、作り手が今作におけるゴッサムを「いま、ここ」じゃないどこか別の世界として表現しようとしていることに他ならない。かつてクリストファー・ノーランは、ダークナイト・トリロジーにおいてゴッサムという街をどこまでも僕らの現実のそばに定着させようとしていた。僕らの生きる世界の延長に、リアリティを保ったままスーパーヒーローとスーパーヴィランを顕現させるための場としてゴッサム・シティという街を創造した。
対してマット・リーヴスは、ゴッサムをいつかどこかの異世界として、フリークスたちの住むファンタジーとして作り上げたのだと、僕は思う。危険なソシオパスや、探偵気取りの変態の存在を許容する、フィクションの箱庭として、ゴッサムはスクリーンの中にあった。
そう考えると、ファンタジー性という意味で今作はティム・バートン版バットマン的とも言える。実際オマージュのようなシーンも多かった(といっても僕はバートンのバットマンは数カットしか見ていないのでほとんど憶測ではある)。


しかし、それは世界観の話、かくて世界はこうあるのだという表現の話だ。現実味のない世界ではあるが、そこで展開されるストーリーには現実性が多分に盛り込まれている。

冒頭、映し出されるのは街中の雑踏。群衆は皆、何かしらの怪異を象ったマスクを被っている。ハロウィンだ。街のあらゆる人間が、マスクをかぶっている。強盗も、グラフィティを描く若者も、みんなみんなかぶっている。誰が誰だかわからぬように。私というアイデンティティを、偽るように。髑髏のフェイスペイントをした若者の集団が、仕事帰りのサラリーマンを襲っている。そこに闇から現れる、黒尽くめのコスチュームを身に纏った男。おかしなコスプレイヤーかと思い、襲いかかった若者を、その男は過剰なまでの暴力で叩き伏せた。彼はバットマン。闇の住人だ。

後々明示されるが、今作において「マスク」はSNSにおけるアバターの隠喩とされている。自分という個人に結びつかないように自分を表現する術としてのマスク。大衆においては自分を隠すものとしてだが、リドラーやバットマンにおいては彼らの存在の象徴としても扱われる。つまりアイコンだ。彼らは自らの顔とアイコンの二つを使い分けているのだ。
そして、この物語は今を生きる人々の二面性だけでなく、その危うさも表現している。
リドラーが標的にするのは社会的な不義を働き、間接的に彼自身を軽く扱った人物たちなのだが、同時に、彼らはマスクで顔を隠していない、実名と顔をマスコミに晒している有名人でもある。彼は自らの実態を隠し、「嘘を暴く」と称して彼らをリンチにかけている。
バットマンは警察と協力してそれを追うが、その動機は個人情報が脅かされることに対する防御と自らのトラウマに対する間接的な復讐である。
後にブルースの両親を殺した犯人は物語冒頭で殺されていたということと、リドラーはブルースの父親の再開発計画に踊らされた孤児だということが明らかになる。二人はどちらも、標的を失った復讐者というわけだ。
わざわざ具体的に表現するまでもない、SNSにおける日常の、どこかしらで見たことのある光景の隠喩が、このストーリーの骨子となっている。
そして終盤、最も悍ましい現実性が観客には突きつけられる。
リドラーによる爆破テロにより、ゴッサムの中心部を囲む防波堤は決壊し、市民が避難所に集まる中、彼らに銃口を向けた「どこかの誰か」たち。今まで話の主軸に関与しなかった、いや、そも物語の中にいなかったどこにでもいる市民、その集まり。今回のテロルに参加した、リドラーに共感する人々だ。
9.11以降、世界は変わった。国単位での対立というドラマチックな戦争は発展途上国に押し込められ、僕らはいつ隣の人間が自爆するか分からないという日常化した戦争の中を生きることになった。それをバットマンの世界を借り受け、的確に表現したのが「ダークナイト」だった。
今作は、それをもっと現代的に分解したもの。テロリズムからイデオロギーやハリボテの論理すらが脱落した、感情の暴走としての「騒動」。それが人々を結びつけ大きな事件を起こすという「いま、ここ」を生きる僕らにとっての現実。それが、この「THE BATMAN」のストーリーにおける肝だ。

僕はこの映画のテーマを二面性だと書いた。実際、その通りではある。しかし、もう少し詳しく説明するのであれば、この映画が語ったのはその二面性の危うさ、不安定さだ。
二面とは何か?
それは正義と悪というわかりやすいものでもある。
自分とそのマスクという表面的なものでもある。
表と裏という普遍的な意味もある。
しかし何より、人間においてもっと根源的な、理性と感情とでもいうべきものだ。
それは人の社会性の根幹をなすもの。その二面が、僕らのセカイを成り立たせている。
しかし、ゴッサムは「決壊」した。リドラーという一個人の暴走によって、そしてそれに先導された「どこかの誰か」たちによって。
それに例外はない。次の「どこかの誰か」があなたや隣人でない保証はどこにもない。
バットマンだって、アドレナリンによって理性のタガが外れた時、そちら側へと落ちていきそうになったのだ。
これは考えすぎでも誇大妄想でもなんでもない。
事実僕らは、京王線から逃げ惑う人々を見てしまった。

現実性の盛り込み、現代に対する批評性という点が、僕がこの物語をSFでもあるとする理由だ。それはSFの文法に他ならないのだから(じゃあSFって言い切れよという意見は早計である。なぜならこの映画からはサイエンスやテクノロジーに対する関心がほとんど感じられないからだ。バットマンの地下室のガジェットは最新機器にしてはしょぼすぎるし、バットモービルの描写にも気合が入っていない。たびたび出てくるスマートフォンやその着信画面、ライブ配信画面は妙に浮いていた。あの世界の色合いには黒電話の方がずっと似合う)。


現代に蘇ったバットマン。それは、連続殺人犯リドラーを追う探偵バットマンの物語というスリリングなミステリーでありながら、ゴッサムという街をバットマンらフリークスの生きるファンタジーの箱庭として描きつつ、現実世界を鋭く抉り出したSFでもあった。「いつか、どこか」でありながら「いま、ここ」に言及する本作は、時代を反映するものとしての映画の一つであり、かつ「バットマン」としての面白さが十分に含まれた素晴らしい大作映画だった。




余談。
話の中身ばっかりに触れてもっと表層の部分に触れてませんでしたが、今作はかなり露骨に「光と影」がモチーフになっています。それは影を生きる登場人物たちとその世界の隠喩として、光に対するマイナスとしての影だったりするのですが、これがかなり画作りに影響していて、それがめちゃくちゃにエモくてかっこいいんですよね。トレーラーにもあった暗闇の中マズルフラッシュだけを光源としてバットマンが格闘するシーンはすでに今年トップクラスのかっこよさなんじゃないかと。
で、その光の方なんですが。
所々ちょっと眩しすぎじゃありませんでした?w
特に暗いとこで急に明るくなる時とか目が痛いぐらいだったんですが、僕だけかなこれ。いやまあ、このモチーフがあの感動的なラストのとあるシーンを作り出したんだし文句はないんですが。
あと音楽ですが、けっこう演出の意図が単純というか大胆というか狙ってるというか。内容が内容なんでぐっとおさえた静か目なトーンとか、あるいはセブンみたいに自傷的なテイストにしてもいいと思ったけど。「ノー・タイム・トゥ・ダイ」よりかはずっとマシですが。
というか、全体的に演出や隠喩がわかりやすいというか説明的な感じがしたのは僕だけですかね。若者向けというか。やっぱりブロックバスターって今後こういう方向に舵切ってく事になるのかなあ。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,494件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?