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歌集『母の愛、僕のラブ』3人の3首選&新作3首

みなさま、こんばんは。
詩人・歌人・俳人による、
作りながら生きていくための同人『Qai〈クヮイ〉』です。

同人の柴田葵の歌集刊行をもりあげるべく、メンバー3人が評つき3首選をしました。※「」内は連作のタイトル。すべて歌集『母の愛、僕のラブ』からの選です。

歌集を手にとっていただく前にも後にも、ぜひ。
柴田の新作3首も併せてご覧ください。

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from 箱森裕美

きみは私の新年だから会うたびに心のなかでほら、餅が降る
「冬と進化」

本当にかわいくてかわいくてにこにこしてしまう。希望と、戸惑いと、静かなうれしさと、めでたさがすべて一緒くたになった「私の新年」、すごくいい表現だ。「きみ」はいつもほんのりあたたかい光を発している。
餅が雪みたいに静かに降ってきたら、声を出して笑ってしまうね。拾い集めてふたりで食べようね。

じゃあ言わせてもらうけれど 言わないけれど 押しボタン式だよ
「さよなら」

わたしがこの子の友達だったらどうするだろう。「それくらい言っちゃいなよ!」って怒る。泣くかもしれない。こんな、なんの気なしに言えるようなことすら言えないなんて、かなしすぎる。お願いだからもっと縛られず、おびえずに生きてほしい。顔色や機嫌など、うかがわないでほしい。大丈夫だから。絶対。わたしはあなたのことがとても大切で、ほんとうに好きだから。ずっとすこやかにのびのびと笑っていてほしいから。

桃色の片想い 揖保乃糸 いろつきの麺をよろこぶ大人になりたい
「七月のひとり」

大学生のある一時期、毎日あややを聞いていた。サークルの部室でもよくかかっていた。こんなことをしょっちゅうみんなで言っていたな。ばかなことをたくさん言って、たくさんして、笑ったり泣いたりおかしさに満ちていた大学生のとき、年齢は成人していてもわたしはまだ大人ではなかったように思う。
今でも、自分が大人になったのかどうかはわからない。そのときとなんら変わらない気もするし、だいぶ変わった気もする。ただ、昔は目を輝かせていただろうほんのりピンクのそうめんの一筋も、他の白いものと同じようにひとまとめに、無感動に口に運ぶようなひとにはなってしまったなあ、と、少しさびしい。

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from 亜久津歩

捨てられたバケツなみなみ雨を飲みわたしはそれを見て満たされる
「不在通知」

 「なみなみ」雨水を溜められるのだから「バケツ」はまだ使えるもの。「捨てられた」と分かるのは、ごみ捨て場にあるからだ。雨の中ごみを捨てに来て(通りすがりの可能性もある)捨てられたバケツが水を湛えている。捨てる自分(または傍観する自分)が捨てられたそれを見、投影し、「満たされる」――主体の心情を想うとき、バケツは人から与えられた役割を解かれ自由になったのだと気づく。
 なミなミ雨を飲ミ・ミてミたされる、という「み」の連なりからは水面の揺れと反射、潤い満ちた様子が想起される。

ふるさとはここより寒いときみは言う 私にはその雪が見えない
「冬と進化」

 一文字開けの白さが「雪」と響き合う。視界を遮る「雪」と「見えない」空白がふたりの断絶を示している。わたしたちは同じものを同じく見ることができない。「きみ」と「私」は「ふるさと」をその雪景色を、そして別の過程を生きてきたからこそ「ここ」の寒ささえ、等しく共有できはしない。傍にいて同じ時を過ごしてもなお、捉えている世界は別のものなのだ。
 「捨てられたバケツ」もこの歌も「私/わたし」が「見」ることを描いている。見る主体を見ようと目を凝らす作者の、短歌へ・現実への立ち向かい方が現れている。

水性マジック彗星マジック忘れたくなくても忘れるばかになろうね
「強いとんび」

 濡れずにも時とともに掠れ消えていく「水性マジック」の筆跡と、夜空に溶ける「彗星」の尾が重なる。リズミカルな音の繰り返しがマハリクマハリタ、アブラカタブラ、ラミパスラミパスルルルルル‥魔法の呪文のようで、すてきな「ばか」に変身できそう。
 主体は忘れたいことを忘れるだけでなく、忘れたくない記憶ごと、不可抗力のもとに失いたい。それは、自ら忘れることに罪悪感があるからだ。痛みを伴いつつも憶えていることで守りたい何かがあるのだろう。らくになると分かっていても忘却を選択できない不器用さを愛しく思う。
 「ばかになろう【か】」でも【よ】でもなく「ね」であること。近い痛みを抱え込む者へ向けたメッセージだが、きっと叶わぬ願いだ。「ばか」になれぬまま、忘れる己を許せぬままに、柴田葵作品の主体は、世界を「見」続けるのだろう。

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from 西川火尖

生煮えの白玉かよ浮きもせず溶け込みもせず笑うアルバム
「強いとんび」

あとがきで「たぶん、あなたの手にあるその短歌は、あなたです」とある通り、これは私で、この短歌は前後の並びから学校生活の一場面とするのが適当である。中学高校の卒業アルバムで浮かべた薄笑いは今も直視できない。余り物グループで写る修学旅行や見切れている体育祭、クラス写真の真ん中で寝そべる奴とピースサインでその周りを囲む奴らの三列くらい後ろの右側に私は息を殺していた。
そして今現在ではそのままで幸せと言える日々を過ごしている。

八月のマツモトキヨシは冷えていて簡易検査の箱はなおさら
「カレンダーを繰る」

子供ができたかもしれないことは当然ながら妻から知らされた。子供がおなかの中にいる感覚、大きくなっていく感覚など、私には知りようがなかった。検査薬のプラスチックの軽さとか、細かく折り畳まれた説明書やら、単純な陽性の線だとかもすごく他人事のように感じられて、それも自覚のなさに由来するのかとも考えていたが、もしかしたら、あのときの妻も同じように感じていたのかもしれない。「へーー、とか、えーー」とか二人で言ってたし。

八ヶ月後の分娩を予約する 枠が埋まると産めないらしい
「カレンダーを繰る」

妊娠が分かった妻は駅前の産婦人科でよく分からないまま急かされて分娩できる病院を選んできた。そのとき「枠が埋まると産めない」らしいと同じように言われたのだ。「今更止められんのやけど?」とか、そんな当たり前の事を無視して回る不自然な現実と「八ヶ月後」の遠さの揺らぎに目が眩む。子を生むことに関して、男性である私が感じられる「自然」などほぼないが、この「不自然な現実」だけはいくらかザラリとした違和感として残っている。

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from 柴田葵

ゆうぐれに停まってしまった屋上のパンダよ僕らは冬のかたまり

もうすこしがんばりましょうシールまとめ売り二百円五億光年の星

何度めの新年だろう数えればわかるとかそういうんじゃなくて

(新作3首)

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本の購入・情報
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