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創作とこども|草田男の気持ちが分からない|西川火尖

俳句では我が子のことを詠んだものは「吾子俳句」と呼ばれる。しかし、この吾子俳句だが、他の「〇〇俳句」つまり、新興俳句、社会性俳句、根源俳句、前衛俳句などとは少々毛色が違う。通常「〇〇俳句」と名付けられる場合は運動として主だった作家や結社などと結び付けられ、俳句及び俳句史上の影響や果たした役割が語られることが多いが、吾子俳句には中心人物もいなければ、掲げる結社もなく「俳句」そのものを吾子俳句から読み解くという試みも今までされてこなかったように思う。
ただ単に子供は句材の一つ、句の価値は別として、ジャンルではなくインデックス的なものとして私も吾子俳句を捉えていた。それこそ高浜虚子も、富澤赤黄男も吾子を詠むのだ。そこに吾子俳句を詠む集団として分析するやり方は通用せず、吾子俳句とはつまりそういうものだと思っていた。

しかし、吾子俳句の代表的名句を並べてみると、少々奇妙な共通点があることに気づいた。比較的狭い年代の中に屈指の佳吟が固まっているのだ。
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 中村汀女 昭和11年
万緑の中や吾子の歯生え初むる  中村草田男 昭和14年
子を殴ちしながき一瞬天の蟬 東京三 昭和14年

特に吾子俳句の傑作中の傑作である、「万緑」と「天の蟬」が同年に詠まれたことは、単なる偶然で片付けられるものではないように思う。戦争が濃厚に漂い振り払えなくなったこの時代に、これらの俳句が詠まれたことの意味を考え、その視点から再評価するべきではないかと思う。吾子俳句に時代という背景を立てることによって、今まで見えていなかったものが見えてくる可能性があると思う。
当時を少年として過ごした、三橋敏雄は青年時代の句をまとめた句集「靑の中」の後記において、「その前途は戦場に直結していた」という不可避の死を述べている。このような時代に子を持つ親として、眠る我が子や、初めて子の歯が生えた喜び、親としての逡巡を詠むとはどのような心境だったのだろうか。
俳句研究者の青木亮人は「俳句の変革者たち」で戦争の迫る時代の俳壇やその周辺を次のようにも述べている。

しかし、日々の暮らしでは国家の行方や時代動向よりも、個人的で取るにたりない喜怒哀楽の方が身近で、動かしようのない実感ではないでしょうか。(中略)生まれた時代の慣習や先入観の中でそれなりに幸せや不幸せを感じ、日々の出来事に一喜一憂しつつ、時に怒り、悲嘆にくれながら想いを胸に秘めて暮らす俳人(中略)取るにたりないからこそかけがえのない戦時下の日常の姿をみるのは、感傷的でしょうか。(P74)

これは草田男たちもそのような認識だったのだろうか。子供が徴兵され殺人を強制され死ぬ未来を目前にしても尚、吾子の生命の輝きを詠む幸せとはいったい何なのだろうか。青木氏の見解は、当時が新興俳句や戦争俳句一色ではなく、日常の俳句にも人々の生活の息遣いがあり、かけがえのない俳句があるということを示すもので、現代の私達が当時の俳句を語る上で見過ごしがちな視点だと思う。
しかし、ちょうどtwitterでは吉田健一の
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」や、
糸井重里の
「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。」
という言葉が回りに回っているこのような時代は、差し迫った戦争という脅威はないにしても、国民の生命を顧みない政府や全体主義的な政治傾向と法破壊的な独裁体制の確立など、はからずも青木氏の述べる戦時下の日常及び精神構造に似通ってきている。いや、当時から我々は何も変わっておらず、それが同じ状況に陥ることで顕在化したと見るべきだろう。
しかし戦前戦中は主権もなく、ただただ為政者の国家運営の隙間隙間に「かけがえのない」暮らしを築いてきた我々だが、今再び、失敗例も主権も手にしているにもかかわらず、同じ「戦時下の日常」を送ろうとしているのはどういうことだろうか。私はこれから自分の吾子俳句でもって、当時の草田男や京三の心境を思い知ることになるのだろうかと、思い悩まずにはいられない。

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