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朝焼けを待つ

 死にたくなる夜、というのがやってくる。
 たいていはそのたびに、薬を飲んで、寝ようとして、 眠れなかったり、でもほかのことでは気を散らすことができなかったり、朝日が昇るまでの時間を、苦しいまま過ごすことになる。

「死んでもよいですか?」と、誰かに訊きたくなる。

 否定してほしいわけではない。「死んじゃダメだよ」と言われたいわけてもない。心配なんか、かけたくない。
 でも、その言葉は甘えだと、よくわかっている。

 死んでもなにも起こらない。あとに残された人がいろいろ面倒だろうから、申し訳ないだけである。
 それでも、この苦しさがあとどれだけ続くのかと思うと、耐えられなくなって、ベランダからじっと地面を見つめるときがある。
 冷たいベランダの縁を握って、「いつでもこの苦しみと決別しようと思えばできるのだ」と心に言い聞かせる。
 
 私が死んだら、大好きな恋人やお友達やみんなは、
「私と一緒にいる時間は楽しくなかったの?」
と思うだろう。
「笑っていたけど、あれは嘘だったの?」、「苦しんでいることに気づいてあげられなかったの?」。
 そんなことはない。全部本当で、楽しくて、愛されていることも知っていて、ただ、私には私の、どうしようもない傷がある、というだけのことなのである。
 
 時間が経てば、こんな傷など、何も感じなくなるときが来る。
 経験でわかっていても、人の心は、なぜこんなふうに揺れるようにできているのだろう。

「この先の景色を見たい」という気持ちが、私にはない。
 いつも、ずっと、一度もない。
 「この人と一緒の時間を過ごすには、残りの人生は短すぎる」と思ったことは、一度だけある。
 
 誰かと出会ったり、ものすごい才能を見たり、かなしいことに触れたり、そういうことがあるたびにまた、あの冷たいベランダの縁握りしめて、「もうここまででいい」と思うんだろう。
 
 いつも、ベランダの縁から引き返した日常を生きている。普通に笑って、話して、食べて、文章を書いて。
 
 そうじゃない日常が、どこかにあるのではないか。
 
 たとえば死ぬとしたら、もっと、思い切り、もっと、何か、強烈な何かが欲しい。たまらなくそう思うときがある。感情が、少し、過多なのだろう。 
 
 明日が、強烈な一日であるように。
 「これでいいのだ」と思えるような決断ができるように。
 引き返した先のほうが、ずっといいんだと実感できるように。
 
 夜が過ぎるのを待つ。

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