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通史で読み解く司馬史観6 「公家と武家」考 豊臣家の人々

<日本独自の振り子運動>

日本史を俯瞰でとらえると、「開国と鎖国を繰り返す」という独特な運動があることに気づく。

それは幕末や戦後という狭い期間だけの話ではなく、大和朝廷の成立から、白村江の戦いなどの朝鮮半島を巡る大陸との駆け引き、平清盛の日宋貿易、元寇、安土桃山時代の南蛮貿易、徳川幕府の鎖国政策、幕末の尊王攘夷から、明治政府の和魂洋才、太平洋戦争の敗戦とアメリカによる占領政策、その後の経済成長などを、通史で読み解くことで立ち上がってくる独自の特徴なのだ。

国を開き、海外の文化を吸収する。ところが開国の接点から摩擦がおこり、他国から干渉を受ける。するといずれ海外からの侵略と戦うことになり、結果、守りを固めるために国を閉じる。そして、その閉じた期間に、海外から学んだ文化を長い時間をかけて咀嚼して、独自の日本文化を熟成させる。それが地政学から立ち上がってくるこの国独特の「在り方」なのである。

世界支配者が見向きもしない「極東」という特異な地域、加えて日本海という地政学的な「城壁」があったことが、日本をして、自分たちの意志で開国と鎖国をコントロールできた理由であろう。

地続きの大陸国家であるなら、自らの意志で「他国の侵略」をコントロールすることはできない。常に侵略の恐怖におびえ、戦闘状態を常態として国を構えるしかない。それはやがて武力中心の社会を成立させていく基盤になる。それに対して、日本が独自の平和文化と武力的独立を両立させているのは、海に囲まれた自然の要害という地政学的な優位があるからなのだ。この地理的優位性が日本に「開国と鎖国を繰り返す振り子の運動」をもたらした基盤である。

第二次大戦後に憲法第9条によって平和主義国家が成立しているという論は、通史で見れば単純過ぎる。真相はこの振り子現象にあり、大東亜戦争という武力闘争に負けたことで、いつものように日本の振り子が文化的な極に傾いて、世界に対抗できるだけの文化の熟成を目指しているとみるべきなのかもしれない。武力をアメリカに任せて、文化と経済で国力を増大させた戦後民主主義の成功は、この「地政学の振り子」の運動のなかにある。

さて、開国と鎖国の流れを大きく見ると、国家運営の中枢が、この「武力と文化の振り子」の両極で揺れ動いている様も見えてくる。そう、この地政学の振り子は、文化の象徴たる「朝廷」と武力の象徴である「幕府」の振り子でもあるのだ。

振り子は、開国せざる得ない時期には海外との闘争を前提に武力国家的な様相になり「幕府」に傾く、逆に鎖国が続くと国内の政治安定のために文化的な優位性で国を治める様相になり「朝廷」に傾く。地政学の振り子が、朝廷と幕府の政治交代劇に大きく影響を与えている。この論理では大きく見れば、幕府は開国を支持し、朝廷は鎖国を支持する。時代時代での他の要因もあるとは思うが、地政学の振り子理論ではそう考えるべきであろう。

そもそも大和の地に始まる「朝廷」は地政学的には、かなり戦闘的な集団であった。朝鮮半島での勢力争いに敗れて列島に移住してきたという背景のもとに誕生しただけに、中国と朝鮮の国家間闘争に常に影響を受けてきており、ほぼ、「地続きの大陸的な武力国家」的なイデオロギーで成立していたと思われる。

<聖徳太子が始めたこと>

このパラダイムをシフトさせ、武力国家と文化国家の振り子の運動を始めたのは、聖徳太子である。
有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。. 恙無しや、云々)がこの振り子運動の原初だと考えられる。この文章では、「中国の天子は 中華思想 では1人で、それなのに辺境の地の首長が天子を名乗った」ことになる。

当時の煬帝が立腹したのは当然で、これは聖徳太子による立派な「日本国家の独立宣言」である。聖徳太子はこの時、中国大陸と朝鮮半島の政治的勢力争いから距離を取り、日本海に防衛線を張り、その内側の日本国内を支配するための政治を開始すると宣言したのだ。そして今までの武力主体の国家を改め、文化をして中華帝国と同等レベルな国家として成立させる活動を始める。

天皇家を「おおもと」として、日本全土をその「おおもと」を慕う文化的な国家に改造した。そのために太子は日本古来の神道と中国から輸入した仏教を「和光同塵」して、宗教だけでなく中国から輸入した漢字、稲等を独自のリミックスカルチャーにして普及させたのだ。中華でもなく、他の何者でもでもない独自の「おおもと」を作り、それを全土に普及させた。これを全うできたのは、先に述べた日本海という地政学的な「城」のおかげである。

当時、朝鮮半島と海運ルートでつながる九州北部ー瀬戸内海ー大和という非常に狭い勢力範囲だった朝廷が、この後、国分寺活動などで全国にこの新たな文化を広めて、日本全土に統一国家を創り上げる。これが「閉鎖的な文化国家」的スキームのスタート地点である。

さて、この日本の「或るおおもと」に関しては、松岡正剛氏の「日本文化の核心」に詳しいので、以前まとめたものから引用しながら検討することにしよう。

https://note.com/q_do/n/n1698ec7a3547?magazine_key=m07ef02f58364

聖徳太子の十七条憲法にある「百姓有礼、国家自治」。 これが天皇を巡る群臣=皇族が「国家」を為していく根本になる。皇族はブランドとしての「公家」になり、天皇家を頂点に抱くヒエラルキーが「国の家」になっていく。皇族はそれぞれに「家職」や「家学」というライセンスを世襲していくことで次第にブランド化していった。

家職の中に武芸を専門にする「兵の家」が「武家」の棟梁になっていく。当初は物部氏、続いて蘇我氏がこの武家の棟梁の任務を果たす。武家の棟梁は国家運営の中でも勢力を集めやすく、その後、天皇家と武家の棟梁の間には婚姻関係や、闘争関係などで血生臭い歴史ドラマが絶えなかった。

<朝廷ー幕府の振り子>

時代が降り、公家と武家は次第に対立していく。継続的な婚姻関係で朝廷権力を握った平家。その頂点である平清盛が滅ぶと、源頼朝が征夷大将軍に任命され「幕府」を開く。以降、その家臣は「御家人」となることで、天皇を頂点とする公職ではなく、武家の棟梁を頂く組織体を形成する。「おおもと」が天皇家から幕府側に移行した時代である。しかしながら松岡正剛はこの時代にはまだ朝廷と幕府には相対性が成立していたとして、その中核を担った役職として「武家伝奏」を挙げる。いわゆる公武のパイプ役だ。これは幕末まで続く国家の形になる。

この裏側で経済の成長も見ていく必要がある。公家と武家の振り子の運動のエネルギー源は、経済的な側面が大きいからである。日本の貨幣経済の目覚めは室町時代。元寇による中断から再開した明との中国貿易で幕府の経済力が発達して、朝廷や商業特権を握る寺社を上回る。年貢も米だけでなく、代替銭を許すと貨幣経済が本格化した。幕府による貨幣経済への移行は物々交換から貨幣交換への移行を促進した。やっと通貨が持つ交換性が理解され、運送、倉庫、金融などの業者が活躍する流通の時代になった。 そして後に、楽市楽座などを企む戦国大名と既得権を持つ寺社との争いになる。延暦寺焼き討ちや検地や刀狩りは、新興の戦国大名と既存勢力の寺社の経済戦争だったのだ。

さて、本題の司馬遼太郎論に入ろう。この連載で追ってきた戦国時代では、幕府とは室町幕府、朝廷とは正親町天皇を中心にした公家を指す。どちらの勢力も応仁の乱で相当に疲弊している。日本国全体のかじ取りする「あるおおもと」はこの時代に存在しなかったのだ。ゆえに戦国大名が各地域で跋扈しているのである。

この混乱に応じて経済のエンジンを最初に利用したのが斎藤道三であり、それゆえ経済力を使って、卑しい出自の道三ですら大名になれた。そういう時代だった。しかし彼の出自レベルで天下取りができたかは甚だ疑問なのだ。「地方大名になる」、それが下克上の限界であった。

そのことが天下布武を成し遂げることを目標にした道三の後継者たち(信長・光秀・秀吉・家康)の課題になった。故に織田信長は出自を偽って源氏を名乗る。徳川家もそれを倣う。彼ら地方の豪族上がりの大名には、天下布武のために名前を着飾る必要があったのだ。

<征夷大将軍という存在>

朝廷と幕府の振り子の重要なカギになるのが、「征夷大将軍」という存在である。

「征夷大将軍」とは、朝廷内の正式な官職であり、律令制における東北地方の蝦夷征討担当を意味する武官であった。初代の大友弟麻呂ー坂上田村麻呂(阿弖流為討伐)を経て、藤原忠文ー平将門に続く。見ての通り、歴史的にこの官位は公家の中の武門の長にしかなれない。

平家は朝臣としての婚姻関係によって皇族支配を試みる。最盛期の平清盛において、武家として朝廷内の階段を昇りつめ正三位公卿ー大納言ー内大臣ー太政大臣となり、初めての朝廷内における武家政権を誕生させる。

対する源氏は、この朝廷政権とは距離を置くために辺境の鎌倉で独自の武家による政体を起こす。それが「幕府」である。

これにより武家の棟梁が初めて日本の政治を担ったといわれるが、実のところ公職官位の観点からは従来通りであった。源頼朝は、朝廷から正二位叙勲を受けたので、鎌倉幕府が朝廷との協働政権であった点は見逃してはいけない。源系という名門に属した頼朝は当然のごとく、朝廷から「征夷代将軍」を任官された。この意味は朝廷が認めた「公武二重権力」であることを指す。この点から鎌倉幕府を単なる地方勢力に過ぎないと唱える学説もある。

朝廷と幕府の振り子は、その後、後鳥羽上皇による承久の乱以降、公武対立か、公武融和かの激しい振れを経る。

南北朝時代に足利尊氏に北朝から権大納言ー征夷大将軍が与えられ、南朝の天皇親政を失敗に追い込み、公家勢力が無力化。ついに武家単独政権が成立する。振り子が完全に幕府側に振り切れた状態、これが「室町幕府」である。

この室町幕府15代将軍・足利義昭を担いで政権奪取を成し遂げたのが織田信長であり、彼はついには朝廷との距離を近くして、義昭に征夷大将軍を返上させ、長く続いた武家単独政権を終焉させた。ところが当初は親朝廷派を取った信長だが、「麒麟がくる」でも描かれたように彼が存命すれば、この朝廷と幕府の振り子自体を破壊して、新たな日本の政権スキームを確立させた可能性がある。持って生まれた合理主義の信長が、この旧態依然の振り子運動に満足するはずもなく、まず幕府も否定し、最終的には天皇家すら否定しただろう。そして権力の振り子を無理やり武力の極に振り戻し、政体をわがものにしようと企んだ。その暴力的な活動を制止したのが、朝廷派の明智光秀であったと読めるだろう。この見地からは、本能寺の震源は、大航海時代を見据え開国を無理強いする信長と、鎖国=平和を希求する朝廷派閥の対立だったと見える。信長はいずれ平和主義の朝廷と開国を巡って対立したであろう。そして日本の地に固執する天皇家を廃し、独自の支配者として君臨し、アジアに打って出るという前代未聞のレベルの天下布武を画策したのではないか。それが成功すれば日本の世界デビューが数百年早くなったわけだが、それは歴史のifの中にある。

<「藤原秀吉」の意味 関白による武家政権>

さて、今回は、秀吉の天下取りの話である。

秀吉の天下取りでは、この武家と公家の権力の振り子が絶妙な振動を見せる。前置きが長くなった理由はその「豊臣家政権」という手品のような奇妙な政体をわかりやすくするためだ。

天下取りを成し遂げるために秀吉は、何度も名前を変える。猿ー藤吉郎ー木下藤吉郎ー羽柴秀吉ー羽柴筑前守ー藤原秀吉ー関白・豊臣秀吉ー太閤・秀吉。

この過程が武家と公家の振り子の極を行ったり来たりしている証明である。

氏ももたない卑しい生まれー農民から成り上がるための足軽奉公ー武士としての栄達ー天下取りのための名門藤原氏への養子入りー関白太政大臣という公家職の獲得ー公家「豊臣家」の創設というヒストリーがここに織り込まれている。

その変遷の裏にある事実は一つ。この混乱の戦国時代でも、卑しい出自のものは「征夷大将軍」になれなかったということだ。まさにそれが下克上の限界だったのだ。そのため、秀吉は一世一代の手品として、「正系藤原氏の猶子」になった。司馬史観・戦国時代編において指摘してきた、斎藤道三らが持って生まれたハンディである出自問題を、最終的に克服したのが秀吉であり、その解答が「藤原ー豊臣」秀吉だったのだ。

そしてつかんだのが「関白」の座である。関白は宮廷内の第一等の職であり、人臣として最高位である。従一位、これ以上の官職はない、公卿筆頭である。

これが豊臣家による「関白による武家政権」、誕生の秘密である。秀吉は、武家の棟梁である征夷大将軍にならずに、公家の関白になった。そして、藤原、源と並ぶ、公家の一門として、豊臣家を建てることになる。これが百姓出身の秀吉の天下取りであった。「天下人」とは武門の棟梁ではなく、公家による天下支配のことを意味するのだ。

<公家・豊臣家>

この政治劇の裏側で、豊臣家を名乗る家族たちに悲劇が訪れる。そのドラマを描いたのが「豊臣家の人々」である。この作品は短編集であるがゆえにあまり評価されないが、今回の「公家と武家」の権力の振り子理論でみれば大変重要な作品である。

主要な登場人物は10人。主に3つに区分できる。①秀吉の出自に関わる直系家族。②秀吉の子供ができなかったために必要になった養子・猶子たち。③淀と秀吉の実子、である。

以下に短編の主人公たちを整理してみる。

①秀吉の出自に関わる直系家族 ー 妻・寧々(北ノ政所)、弟・秀長(大和大納言)、母お仲(大政所)、姉のおとも(瑞竜院日秀)、妹の朝日(駿河御前)

②秀吉の養子・猶子たち ー 関白・豊臣秀次(殺生関白)、小早川秀秋(金吾中納言)、宇喜田秀家、結城秀康、八条宮

③淀と頼家 ー 茶々、豊臣秀頼

この中で「秀」の名を継いだものは、すべて公家として高い位が与えられている。

秀長は従二位大和中納言、秀次は関白、秀秋は金吾中納言、秀家は従三位備中中納言、秀康が結城少将、そして秀頼はわずか13歳で右大臣になっている。

これが、秀吉による特異な政体の象徴だ。武家の名門に生まれなかったが故に、正式な武家の棟梁である「征夷大将軍」を継げなかった秀吉は、逆転の発想で、朝廷の内部で「武家政権」を成立させた。秀吉は武力で国内を制圧した後、経済力で朝廷権力を買収したのだ。武家として秀吉を見る歴史観が多くあるが、この観点では、公家として「豊臣家」を分析する視点が重要になる。

豊臣秀吉が行った桃山政権は、摂関政治的な要素が強く、朝廷官位の武家への下賜を基本としている。まさに平清盛と同じく、「武家関白」による政体なのである。

<豊臣家の弱点>

この豊臣家の最大の弱点が人材不足であったのだ。

秀吉は、愛知の片田舎の農家出身で、肉親も少なく、家族には教養が圧倒的に欠けていた。①の肉親たちはその出自ゆえに運命に翻弄される。母の大政所を含め、すべからく豊臣家の犠牲になった。

そして秀吉と妻の北政所には子が授からなかったことが、二つ目の課題になった。これが②の養子と猶子の多さを生む。

最も有名なのが二代目関白に就任した豊臣秀長である。秀吉の姉おともの子供であり、農民として育てられたが、秀吉の驚異的な出世のおかげで名門三好家に養子縁組され、三好孫七郎秀次として育てられた。だが小牧長久手の戦いで失敗し秀吉に疎まれる。しかし豊臣家の人材不足の証明のように、跡取りのない秀吉の数少ない後継者候補として祭り上げられ、九州征伐・小田原征伐などを歴戦。秀吉による公職買収の極みとして、わずか20歳で従二位まで昇る。後に解説する秀吉と茶々の間に突然授かる実子問題に一番直面したのも、この秀次であった。最初の鶴松誕生で後継の座をはずされ、逆にその鶴松の早すぎる死で、今度は豊臣家の養嗣子になり、秀吉から関白の職を譲られ、早々に二代目関白になった。

同じように、秀吉の後継者育成候補として、数々の若者も巻き込まれていく。彼らは一様に「豊臣家には子がない」という致命的な一門の欠陥の犠牲であった。

血縁は秀次くらいしか候補がいなかった。そこで妻・寧々の甥・秀秋に白羽の矢がたつ。筆頭養子の秀次の弟として豊臣家に迎えられた。他にも岡山城主宇喜田直家の実子をもらい受けた備前中納言・宇喜田秀家や、徳川家康の実子の結城秀康など、他家からの養子たちがいる。

彼ら、「秀」の名を継ぐ者たちの運命を翻弄するのが、③淀と秀吉の実子である。そう、公家・豊臣家にとって運命の子、「豊臣秀頼」の誕生だ。いないはず、できないはずの秀吉の正統後継者の誕生により、養子・猶子たちは想定外の人生が訪れる。

まず、関白を秀頼に譲らなかった秀次は太閤の怒りを買って、早々に誅殺される。彼はそれ以外にも関白なのに辻斬りを娯楽とし「殺生関白」と言われていた人物である。退場はやむなしであろう。

金吾中納言・秀秋は黒田如水の救いの手で毛利家の従三位小早川隆景の養子に席を得る。彼が後の小早川秀秋である。朝鮮出兵では遠征軍司令官になり、石田三成と対立し、それが理由で徳川家康に取り込まれる。この因果が、関ヶ原の戦いの勝敗を分ける。養子の彼が豊臣家をつぶすことになるのだ。この件は次回の関ヶ原で述べる。なにしろ秀秋は、「秀」を名に持つにふさわしい、人生を歩むことになるのだ。

かたや関ヶ原の西軍の総帥となったのが、宇喜田秀家であった。秀吉に愛され、前田利家の愛娘・豪姫と結婚したことで、備中中納言に登り、五大老の一角に入る。秀家は、関ヶ原の後にも生き延び、家康によって八丈島に流される。そこで五十年暮らしたため、八十三歳という誰よりも長寿を全うするという不思議な人生を送る。

関ヶ原で、その名前に翻弄されたのは「秀康」も同じである。元は徳川家康のいたずら心で、できた子供で、生まれの卑しさから後継者リストから外された。ついには秀吉への人質に出され、そこで養子になった。その時についた名前が、実父の家康と、養父の秀吉からいただいた「秀康」である。幼少から器量・天賦の才があるとして秀吉に愛されたが、その才能こそが天下の覇権から秀康を遠のかせた。秀頼が誕生すると正統後継者の邪魔になるとして、結城家に養子として出された。関が原では家康に、徳川家の正統後継者である弟・秀忠よりも武功をたてて目立つことを恐れられた。結果、関ヶ原から遠く外され、その後、越前北の庄に閉じ込められた。若狭・信濃の七十五万石の大名になったものの、大坂の陣の前に若くして死んだ。

<桃山文化・豊臣家の文化の振り子>

ここで際立つのが、豊臣家の猶子「八条宮」の存在だ。

秀吉の公職買収は、近衛前久の養子入りに始まり、藤原姓を名乗り関白になり、源平藤橘に次いで千年ぶりに豊臣姓という新姓を誕生させ、この八条宮を養子に迎えた行動に極まった。宮の父は、誠仁親王であり、この段階で皇位継承権第三位であった。天皇家の外戚になったのだ。

さらにこの直後、誠仁親王が崩御され、正親町帝が上皇に上がられ、兄の周仁親王が、後陽成天皇に即位された。これで天皇の実弟であり皇族筆頭が、豊臣家の猶子という異常な事態が出来上がる。いずれは八条宮の成人にあわせて、天皇家に婚姻関係を迫ったであろうことも容易に想像できた。

「豊臣家の人々」の「八条宮」の章では、この特異な事態が紹介されており、とても興味深い。豊臣秀吉が、その朝廷活動の中で、「新たな文化」を活用して、後陽成天皇や八条宮など宮廷を魅了していく過程が描かれる部分は特筆に値する。

天皇にしても、八条宮にしても朝廷が古来大事にしてきた「清明」なる文化の継承者であった。それも和歌においては、古今伝授の秘伝を継承されるレベルの道の達人であった。

司馬は書く、「御所はすべて清明でなければならなぬ。この清明さが宮廷人の伝統的な美意識であり、御所の造作も調度も、すべて清らかであり、ほがらかであるか如くにつくられていた」

そこに秀吉は、細川幽斎という稀代の数寄者を通じて、宮廷に「茶の湯」という新しいカルチャーを持ち込ませた。

「公家の伝統社会には、まだ茶のような、つかみどころない新興の美意識は移入されていなかった。前時代の信長は茶を好んだが、茶を公家の中には持ち込まなかった」

この「茶の侘び」、それに加えて「濃みた(だみた)黄金」の美意識、これが秀吉の公家制圧の最大の武器になった。そこには、ザビエルらの宣教師が持ち込んだ南蛮の文化が深くかかわる。それらを独自のリミックスカルチャーにして普及させる。古来の伝統でもなく、南蛮でもなく、他の何者でもでもない独自の「おおもと」が、秀吉のもとで新たに作りだされた。当の茶の湯ですら、キリスト教の聖餐の儀式から影響を受けているといわれる。そして自らの行動で「この新たな文化」の大流行を演出する。大阪城の山里廓、禁中茶会、北野大茶湯、黄金の茶室、聚楽第行幸、吉野の花見など秀吉の文化活動は枚挙に暇がない。

そして誕生したのが、旧来の清明文化に対抗しうる、豪壮華麗な「桃山文化」である。千利休、狩野永徳、狩野探幽、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、小堀遠州、出雲阿国など綺羅星ごとき才能が、秀吉のもとで開花した。日本のルネッサンスである。

ここで「ルネッサンス」の言葉を使うのは、武力の極に振れていた振り子運動が、文化の極に戻ったことを意味するからであり、同時に清明を求めるばかりの古代・中世の神仏中心の文化が、人間中心主義の文化に傾いたからだ。

はじめの「武力国家と文化国家の振り子の運動」に話を戻そう。こうして、しばらく没落していた朝廷主体の文化が復興を遂げ、大きく花開いた。振り子は文化国家に大きく振れる。それが秀吉の桃山時代なのだ。

<南蛮文化の咀嚼・開国と鎖国の狭間>

その後、振り子はさらに武力国家に振れ戻すのが面白い。関白として朝廷内の地盤を固めた秀吉は、朝鮮半島へ出兵する。

朝鮮半島から追放された天皇家が、日本列島に根を張り、聖徳太子が中華帝国に対して独立宣言してから千年、今度は、朝廷の関白太政大臣が朝鮮派兵を実行した。

征夷大将軍ではなく、公家の一門がそれを行った事実は大きい。結局、征夷大将軍というのは国内の武力闘争用の存在に過ぎないことがこの事実から判明する。海外派兵を企てる時、それは挙党一致の政治が求められる。

まさに、秀吉のもとで「武家と公家の権力の振り子」は絶妙な振動を見せるのだ。

さらに秀吉には興味深い動きがある。必死に取り込もうとしていた南蛮文化に対して、急速にそれを閉じて、鎖国への動きを起こす。「鎖国」は家康の政策のようでいて、すでに秀吉の桃山時代に始まる。1578年には、大名のキリスト教入信を制限し、宣教師の追放・バテレン追放令を出す。朝鮮出兵はその後、1592年である。

この間に、また振り子運動の特徴が現れたのだ。この論の最初に書いた通り、開国と鎖国の運動には法則がある。

「国を開き、海外の文化を吸収すると、開国の接点から摩擦がおこり、他国から干渉を受ける。結果、守りを固めるために国を閉じる。そして、その閉じた期間に、海外から学んだ文化を長い時間をかけて咀嚼して、独自の日本文化を熟成させる」

秀吉は、南蛮から学んだ。大航海時代の最先端の知識・技術を吸い尽くした。そして、それを咀嚼するために「国を閉じた」。吸収した海外の文化を独自の文化に咀嚼して、後の世に誇る桃山文化を残したと言える。茶道も、華道も、香道も、庭園芸術も、琳派も、歌舞伎もこの時代に始まるのだから。

<桂離宮の佇まい>

八条宮は、庭園芸術の粋と言われる「桂離宮」の創設で名を遺した。

秀頼が誕生した後に、秀吉によって八条宮家(桂宮家)が創設された。その本邸として京都御所の北側、今出川通りに面して建設されたものが桂離宮の「おおもと」である。

司馬は書く「宮のつくった別邸は、宮の表現によればー瓜畑のかろき茶畑ーであった。軽くはあってもその美しさは宮廷の評判になった。宮はこの別邸の設計において、源氏物語、伊勢物語、古今和歌集それに宮の好きな白氏文集などから発想し、それらの詩情を形象化しようとした。瓜畑に夏の月がのぼる夜など、この別業に秀吉を生かしめて招きたいと何度かおもったことであろう」

その桂離宮の美しさは、桃山文化の豪壮華麗なものでもなく、後の徳川幕府が残していく東照宮に代表される重厚感とも異なる。その佇まいからは、洗練と粋が漂う。

それは秀吉が南蛮から学んだ文化を咀嚼した成果でもある。宮廷人の伝統的な美意識である「清明さ」と、狩野派などの豪華などを調和して、海外の動きなどを知ったうえで、なおかつ、すべて清らかであり、すべてがほがらかである。

八条宮は、秀吉が求めた豪壮な文化を飛翔して、公家の持つ清明を発展させ、独自の質素・簡素な洒脱を生み出した。

これが桃山時代の振り子運動の成果なのである。


時代は、秀吉の死を以て、急速にこうした公武融合から離れていく。関が原の後、徳川家康は、公家御法度を定め、征夷大将軍として、強大な「幕府」を打ち立てる。三河の田舎大名に過ぎない徳川家康に、宮廷の伝統は必要なかった。特に豊臣家の影響が強すぎる後陽成天皇や八条宮は邪魔者でしかなかったのだ。

朝廷にとって、日輪の光は沈んだ。

秀吉によってもたらされた手品様な「公武融和」は、こうして跡形もなく消えていくのである。「豊臣家」という花火のごとく。

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