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公武盛衰記 その3 坂東と伊勢に播かれた不穏な種 


平将門と藤原純友が残したモノ(承平・天慶の乱)


歴史上、武士勢力が発現したタイミングは、承平・天慶の乱といわれます。律令制が機能しなくなり、地方政治が乱れたことが原因です。

935年 平将門が関東の常陸、下総、上総に独立国家を立ち上げ、新皇を名乗ります。
939年には瀬戸内海・伊予の藤原純友が海賊を率いて四国・九州を攻め立てます。
これを承平・天慶の乱と言います。

当時、律令制の要であった班田制の統制が効かなくなり、私領が横行し、寄進地系荘園によって、中央では藤原氏が、地方では各地の国司が、私腹を肥やしていきます。
朝廷統治が乱れると群盗が跋扈し、荘園貴族が武装して自衛をします。さらに治安が悪化すると農民たちも武装して自衛しなければならなくなります。こうして自衛集団により強い力が求められ、ついには武士団が発生したと言われます。

平将門と藤原純友には、こうした乱れた世情に義憤の念がありました。

彼らの一族は、朝廷とつながる貴種であることを強みに、地元で自然発生した初期の粗野な武士団を取りまとめ、「武士の棟梁」として認められていきました。
こうして地方で次第に力をつけていった武士団は、幾内の政治の腐敗に不満を募らせ、独立の機運が高まります。この時期の粗暴な武士団は、いったん火がつくと一気呵成に燃え上がりました。

こうして、地方における独立戦争が起きました。

この二人には京都を見下ろす比叡山で謀議したという逸話があります。
藤原氏に占有される朝廷で、上級職とは無縁だった男たちが国家転覆を誓うのです。
いかにも後の時代の創作のような、ありそうな話です。

坂東の分与・独立


さて、私の「源平公武盛衰記」では、この二人が決起した土地が重要になります。

平将門は坂東、藤原純友は瀬戸内海を中心に反乱を起こしました。

とはいっても、乱そのものは、将門はわずか2ヵ月、住友は2年を経て、平定されてしまいます。

ただ中央貴族には「地方の反乱」といえば、将門と住友という大きなトラウマを植え付けました。

その後、東国は将門の乱を平定した藤原秀郷と平貞盛の子孫によって支配されていきますが、「坂東の分与・独立」というスローガンは、平将門に始まります。

この将門の血流は、鎌倉殿の13人に登場する千葉氏、相馬氏に受け継がれていきます。今回の大河で強調される「坂東の分与・独立」の芽はここにあります。

平家の海軍力の大元


西国では元寇以前にも何度も海外勢力からの侵攻を受けていました。特に1019年に起こった満州・女真族による「刀伊の入寇」があり、それを藤原隆家と伊勢平氏が協働して平定します。
それが縁で、瀬戸内海・伊予を中心に伊勢平氏が地盤をつくり、伊勢で産出された水銀(辰砂)の貿易により蓄財を重ねていきます。
その後、海外貿易最大の障害になる海賊(海の民)を伊勢平氏が束ねていき、その海軍力は朝廷にとっても軍事的な砦となります。

伊勢と坂東が天皇家の鬼門になる

こうした経緯で、この坂東と伊勢という2つ土地が、その後、朝廷のジオポリティクス上の重要な場所になっていくのです。

前回挙げた「朝廷の勢力圏は極端に狭く、実際は全国掌握どころか、ほぼ近畿圏のみに限定され、東国も西国も統治できていなかったのではないか」という、仮説1に関しては、この2つの土地が天皇家のチョークポイントになっていたと考えられます。

仮説の参照はこちら
源平公武盛衰記0 平家物語、その前の時代 |太田泉 / 太泉|note

天皇家の支配エリアの不安の種は、その後200年に渡って、禍根を残し続けます。

特に宋からの海上ルートであった九州→瀬戸内海→四国→神戸にかけてを平家一門が掌握したことが、後に平清盛の台頭を許す最大のポイントになります。


こうして承平・天慶の乱によって、坂東と伊勢に、武士勢力による幕府誕生につながる、反乱の種が植えつけられました。



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