
公武盛衰記 その1 中世に対する仮説
徹底的に「中世の成立」
2020年から「通史で読み解く司馬史観」というシリーズを続けていましたが、一時中断して、徹底的に「中世の成立」を学習しようと考えています。なぜなら22年1月から大河ドラマでは「鎌倉殿の13人」、そしてフジ系列で「アニメ・平家物語」が放送され、通史で読み解くチャンスが到来したからです。
参考記事
2022年は源平合戦!「鎌倉殿の13人」とアニメ「平家物語」 - ゴキゲンLifeShift (gokigenlifeshift.com)
正直、この「院政~鎌倉」時代については、教科書レベルの知識しか持ち合わせてなく、基本から学ぶ必要があります。
そこでまず、この「中世・公武盛衰記」では、この時代に入る前の歴史の流れを追うことにします。時代の流れや前提がわかっていないから、中世の人物関係も、それぞれの思惑も見えなくなるのではないのか、と思ったのです。
朝廷と幕府の政権の振り子
今回は、935年の平将門の乱から、清盛の直前までのを、得意の1テーマ1P化してみました。(表紙写真参照)
この表をつくりながら、自分なりの仮説を立てていきました。
今年この「公武盛衰記」で追いかけたいテーマは「中世において朝廷から幕府への政権移譲は、どのように行われたか? そこにはなにがあったか?」です。
この裏には、「日本は、朝廷の【公】と、幕府の【武】の政権の振り子の動きによって、海外への扉を、開いたり、閉じたりしてきた」という自分なりの仮説があり、それをじっくり検証しようと思っています。
この仮説の着想は、前述の「通史で学ぶ司馬史観」から得たものです。
司馬遼太郎の太閤記などから「平清盛が行った平家政権と豊臣姓を賜った秀吉の太閤支配には、公家化した武士による朝廷支配という共通性がある」と学びました。
興味がある方はこちらをお読みください。
ただ、後世から歴史を理解しようとする場合、結果がわかっているだけに
単純理解をしがちです。しかし、歴史の当事者たちは、複数の選択肢の中から苦渋の選択をしながら、一歩ずつ、時代を進めてきました。
時代は前にしか進まないのです。
ですから、歴史から学ぶ者は、起こった事実を順に考えて、その時にあった選択肢を並列に並べ、彼らの選択の意味をしっかりと味わう必要があります。
検証すべき仮説「日本列島は国家統一されていなかった?」
さらに中世においての自分なりの2つの仮説をつくりました。
仮説1.「朝廷の勢力圏は極端に狭く、実際は全国掌握どころか、ほぼ近畿圏のみに限定され、東国も西国も統治できていなかったのではないか」
この仮説は、律令制や、国司による税制、墾田永年私財法や荘園などの地方土地政策の実効性を検証する必要がでてきます。
坂東武士、西国武士という呼称自体が、朝廷とは独立した「地方王国」を指していた可能性があるという仮説です。
仮説2.「各地の広域武装集団が、仁義なきバトルロイヤルの末、勝ち残った結果、「幕府」と自称したが、朝廷はそれを認めていなかったのではないか」。
つまり京都朝廷政権と鎌倉幕府は、同時に各々が「日本国家統治をしていると主張する」別々の政体だったのではないかという仮説です。
「公武分離説」とでも呼ぶべきでしょうか。
この2つの疑問を主体に、1年間、日本の中世を旅したいと思います。
その旅は「なぜ朝廷が武士集団を必要としたのか、その武士集団が独自に発展して朝廷を凌駕していく様を追いかける」旅になるでしょう。
大河ドラマではないので、なるべく源平のヒーローストーリーにはならないように、歴史の構造理解を試みたいと思います。
その過程で、平清盛が日宋貿易など海外に向けての活動していた狙いなどを経済的な側面から調べていければと思っています。
それにより、「公武の振り子」が武に触れたときに、日本の「海外への扉が開いてきた」ことが証明され、それよって、革命家・平清盛の再評価をすることになるような予感があります。
ヤマト概念の地方拡大
まず、この時代の政体ですが、天皇制の絶頂だった平安時代の末期です。
ここまでの古代をざっと見渡すと、近畿に基盤を置いた朝廷は、隆盛した武家の棟梁、物部氏、蘇我氏を続いて滅ぼし、天皇による統治を完遂します。
白村江の戦い以降、朝鮮半島との関係も切れて、大和朝廷が日本列島に生きる覚悟を固め、平城京をつくり、近畿地方以外への進出を図って、天皇領の公地だけでなく私有財産を認め、墾田永年私財法を制定したことで、地方での土地開発が活発になります。
中央政権の地方進出に反発する地方豪族の蝦夷・熊襲との抗争が激化。それに対して朝廷は、征夷大将軍を派遣して討伐します。
ここまでが、まさに「大和」の拡大期でした。
地方からの富が集中した都では、中央貴族の権力争いが勃発。
その中心になったのは藤原氏でした。藤原不比等以来、他氏を排斥し、天皇の外戚になり摂政・関白の座を独占しました。平家の冠位独占の前例はここにあるのでしょう。
朝廷内部では、荘園を基盤にする藤原氏の専横を巡って対立、次第に律令制が崩れていきます。
いっぽう、朝鮮半島の基盤がなくなった天皇家は、独自の日本文化を創るべく、国を閉じます。
ここで自説の「公武の政権の振り子が朝廷に傾くと海外への扉を閉じる」が1つ証明されます。
国分寺の分布に見える古来人の排斥
朝廷は、日本の固有性、天皇の正当性を高めるために、古事記・日本書紀を完成し、各地の風土記も編纂します。宗教も国家統合に利用します。
東大寺に大仏を建立し、それをモデルとして「国分寺」を全国各地に展開していきます。
世界中の支配階級が取った「中央のシンボル→地方への流布」という図式と同じです。中央集権による地方統治の模倣がはっきりを見えてきます。
「都の形式にあらぬもの、すべて野蛮ゆえに討伐可能」の論理です。
それは「都が定めた画一的な正規のルール」の強制的な流布であり、「多様性の排除」を意味します。しかし当時の地方に乱立する勢力への攻撃という観点で見れば、とても便利な論法でした。
「文」の成り立ち
中華における「儀式」の発展の真意は、同じく「都の形式にあらぬもの、すべて野蛮ゆえに、討伐可能」論にあります。天皇家としては身近な研究対象であった中華帝国の統治方法に学んだのだと思われます。
これが「公」が利用した「文」の成り立ちです。
文の権威で、野蛮を制する政権維持の形です。
ここまでで、当時の大和朝廷の優先政策が、いまだ統治できていなかった地方への勢力拡大だったとわかります。
朝鮮半島から渡ってきた天皇家が九州から畿内に勢力基盤を東に進め、その勢力基盤の拡大を様々な方法で実行してきた姿が見てとれます。
逆に言えば、天皇家の統治に抵抗する勢力が全国に多々あったからこそ、こうした強制的な統治を躍起に行う必要があったと考えるべきです。
平安時代でも全国は統治できていなかったのです。いまでいう「全国」という概念は、当時はとても狭かったはずです。
それが、国分寺の分布範囲内と想定しても構わないと思います。
西国はかなり広範囲ですが、東国は三街道と言われた筋に沿って延び、東海道が栃木県の石岡市、東山道は山形県鶴岡市、北陸道は新潟県上越・佐渡が北限です。
国分寺 - Wikipedia
この図で直感的に、アイヌとクマソは、この時代でも統合できていないことが見えてきます。
現在の通説である、縄文文明が弥生文明によって、すっぱりと移行したようなイメージとは違うのです。
長い長い期間、2つの文明は「大和エリア」と「それ以外エリア」で共存していたはずです。
このイメージをよく表しているのが「もののけ姫」です。
あのアニメが示した時代感覚が、まさにこのアイヌ・クマソ文化と天皇系文化の同時共存です。主人公アシタカが所属する縄文系文明圏と、鉄砲・鉄器を操る文明の共存は、実際の日本の中世の姿だと思います。
同時に、畿内では天皇家を巡る貴族の勢力争いが繰り返されていました。時に暴力化する寺社との闘争を収めるためにも、この時期から、社稷の天である天皇家は「寸鉄を帯びず」で、武装勢力を外部化する動きが表面だって来ます。
これら、京都を中心に、内に対する渦と、外に拡散しようとする渦が同時に起こっていることがはっきりしてきます。
「はじめに「文」があり、それを否定する「武」が現れ。やがて「武」が「文」を学んで「文と武」の双方の重要性が認識される」
「暴力と武力の日本中世史」本郷和人
東洋経済新報社「いっきに学びなおす日本史【古代・中世・近世】」