「ドライブ・マイ・カー」 濱口竜介が創った神の時間
サーブのエンジン音が、通奏低音でずーっと流れている。映画が終わってもそれは続く。そう、これは「音」を巡るロードムービーである。
ここでは、「静謐」や「手話」という「無音」でさえ重要な構成要素なのだ。
チェーホフの台詞が、狂言回しとして活用される。失われた妻が語るチェーホフの台詞が異界へ誘うトンネルの入り口として作用する。
それは、濱口監督が意識的に使う「呪文」なのだ。
濱口監督は村上春樹の短編「女のいない男たち」とチェーホフの「ワーニャ伯父さん」を原作として映画を作った。そしてそこでふたりの作家が使っていたセリフを滑らかに融合させた。それは見事に溶け合い、みさきが運転するサーブのように、滑らかに、一種の浮遊感を与える舞台装置を形成することに成功した。
家福が演出するチェーホフ劇の練習中に「なにかが起こる」。
ここでは9つの言語が使用され、すべての人間が多様性の中ですれ違う。だが、すれ違いを認識しながら、ゆっくり互いを理解をしようと努力していく。その過程で、気持ちがつながる共鳴が「発生」する。
うまく言い表せないが、この映画では、何度か「神の時間」が降臨する。そう、映画の中で、何かが起こっている。
そんな体験はずっとしてこなかった。たぶん、タルコフスキーの「ノスタルジア」以来の映画体験だ。
これは、まさにタルコフスキー的な「奇跡」を体験する映画なのだ。
特に、手話で演劇をする韓国人俳優パク・ユリムの演技がこの奇跡を呼び込む。
彼女の演技に音はない。しかし誰よりもチェーホフの世界を現出させる。その動作が、その指が、その衣擦れの音が、我々を別の次元に誘う。共演者は各々、自国の言葉で語りながら、彼女の意味の体系の中に召喚され、そこで再構成される。そこでチェーホフが書いた言葉の持つ本来の意味の世界で、彼女と融合する。
それが多様性の時代にふさわしい「奇跡の共鳴」を呼び込んでいく。
これがカンヌで「脚色賞」ではなく、「脚本賞」を受賞した意味は深い。
これは村上春樹の世界でもなく、チェーホフの世界でもなく、あくまで濱口竜介が創り出した神の時間だと思う。
映画の奇跡を体験する至福の179分だった。