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「1Q84読解」第1楽章  ー 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」によるBook 1読解ー

「変奏曲とは、主題となる旋律が変奏され、主題と変奏の全体がひとつにまとまった楽曲となったものである」 ウェキペディア


「村上春樹 変奏曲」としてこの「1Q84」を読み解くと、変奏のモチーフが二つあることに気付く。テーマとスタイルである。小説の主題と手法とでも言うべきか。


テーマについては、後に第2楽章の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」でゆっくり言及することになる。読者の我々が読み始めてすぐ、明確に意識させられるのは、そのスタイルのほうだろう。
青豆と天吾の世界が交互に現れて、別々の展開を見せる。「バッハの平均律クラビーア曲集のフォーマットに則って長調と短調の話を交互に書いた」と村上春樹はインタビューに答えているが、これは村上春樹読者にお馴染みの小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスタイルだ。

そこで、ここでは村上春樹の初期の代表作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、村上春樹が「1Q84」に凝らしたスタイルの変奏を読み解いてみようと思う。


スタイルの類似性を意識せざる得ない、といいながら「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を並行して読んでみると、この2冊にはスタイルとしての既視感とともに、印象としての違和感が残る。
それは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が、現実世界と幻想世界という対照的な二つの世界をまたいでいたのに対して、この「1Q84」で描かれる青豆の世界と天吾の世界には、より密接な繋がり、一種の同期性のようなものを感じさせるからだ。今回の二つの世界は同じスピード感、同じ現実感で描かれている。


美しき殺し屋・青豆の世界と小説のゴーストライティングに巻き込まれる天吾の世界。交互にあらわれる二つの世界は、ページをめくらずにはいられないスリルをはらみ、印象として似た緊張感を奏でる。その緊張感はまさにサスペンス・ドラマの緊張感だ。
サスペンスフルな緊張感はスピードを生み、ふたつの世界はどんどんと速度をあげて疾走し始める。ついには列車に乗った我々読者の想像力をすべてなぎ倒しながら進んでいく。

対照的に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」にはあきらかに違うふたつのスピード感覚があった。我々の現実世界に近い「ハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感と、もうひとつ別の緩慢な時間の流れがあったのだ。それは、すべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与える減速感だった。それが「世界の終わり」の時間感覚である。「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと、サスペンスフルな「ハードボイルド・ワンダーランド」の時の流れ。ふたつのスピードが落差を伴って、交互にあらわれることによって、まさに村上春樹ワールドとしかいえない不思議なリズム感を醸し出す。そのリズム感の変調が小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の成功の理由だと思う。


スタイルが共通しているはずの「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の2冊の印象に、違和感があるのは、このスピード感の落差の部分ではないだろうか?
さらに分析をすすめるならば、村上春樹は、読者に対して「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感の落差をイメージさせることで、驚くべき仕掛けを施しているのだ。
 この物語は、開始早々から読者をミスリードすべく巧みに企まれている。その技巧によって生じる誤解と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」とのリズム感の類似性を利用して、村上春樹は読者をある地点に導こうと企んでいるのだ。


まず、Book1の物語が青豆から始まること自体が、このミスリードの起点になっている。この起点により、読者はこの小説の「時・物」が青豆から始まったような印象を受けるはずだ。


小説の冒頭はスリリングだ。殺し屋・青豆の世界は、暗殺のランデブーポイントに向かうため首都高3号線の非常階段を降りる所から始まる。そしてその瞬間、青豆はいきなり「1Q84年」の世界にスリップする。
この書き出しがミスリードを誘発するのだ。後に判明するが「1Q84年なる世界」は、天吾がふかえりの「空気さなぎ」を改編したことによって、立ち上がる。つまり時間軸で並べれば、この青豆の非常階段の事件は、天吾が物語を書いた時間よりもずっと後の出来事になるはずで、村上春樹は読者を物語の出発駅ではなく、ポンといきなり途中駅から乗車させるのだ。


本当の出発の地点は、Book1の中盤で天吾が小松の忠告に基づいて、物語「空気さなぎ」をリライトするために、二つの月が浮かんだ世界を詳しく表現したその瞬間に、「1Q84年なる世界」が誕生し、無意識化で天吾が青豆をこの世界に引き寄せることになる。


つまり、「1Q84年なる世界」の話の順序は、「小説1Q84」とは逆で、天吾の世界がきっかけになり、青豆はそれに巻き込まれて、この世界での行動をスタートする。


だから村上春樹はわざと青豆を開始点に物語を始め、読者に青豆の世界からこの長大な物語が始まったかのように誤解させるように企んだことになる。

では、このミスリードの意図する所はなにか?


「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、この長大な変奏曲を読み解くならば、この「1Q84年なる世界」には「もうひとつ別の世界、もうひとつ別の時間」が隠されていることを示唆している。

それこそが、スピード感の落差をイメージさせることで、村上春樹が企んだ驚くべき仕掛けなのだ。

この青豆を開始地点とするミスリードを利用して、あることに読者を気付かせようとしているのだ。それは青豆と天吾のふたりがいま置かれている二つのサスペンス・ドラマのスピードの世界とは別に、もうひとつ別の時間感覚を持つ「世界の終わり的な世界」が隠されていることを暗示しているのだ。

その世界では、すべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与えるはずで、「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと同じスピード感覚のはず、なのだ。そしてその「世界の終わり」の世界は、「1Q84」の中に巧妙に隠されている。


実は20年前の青豆と天吾が小学4年生だった、10歳の当時の市川市の小学校の「教室の世界」にしっかりと変奏されている。


この教室で天吾と青豆は100パーセントの契りを交わす。誰にも知られていない、ふたりだけの「秘密の約束」だ。証人会の信仰とNHKの集金人の子どもという特異な家族環境が引き寄せた、孤独なふたりだけの秘密の儀式。そう小学4年生の青豆が、12月初めの放課後の教室で突然、天吾の手を握りしめた瞬間、ふたりにとって何物にも変えられない「教室の世界」が始まったのだ。
この教室の有り様や匂い、感触こそ、彼らがいま暮らす1Q84年のハードボイルド・ワンダーランドの対極に位置している世界だ。その世界では、まさにすべてが静止し、すべてが結晶化したような印象を与え、幻想の世界だけが持つ緩慢な時の流れが支配している。


だから1Q84の謎を追う賢明な読者は、この12月初めの放課後の「教室の世界」を丹念に追うことで、物語の本質を理解できるはずだ。それこそが、テーマの変奏として企まれた「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の変奏曲の世界なのだ。


そして、この市川市の小学校の教室の形をした幻想世界の主役は紛れもなく青豆であり、そこでは紛れもなく青豆が物語を開始する。教室で突然、天吾の手を握るという人生をかけた大胆な行動によって、ふたりの「教室の世界」は始まる。その物語の主役はあくまで青豆なのだ。

「物語に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない」


この言葉は深い意味で、この青豆の行動に結びつけられている。女の子が命懸けで男の子の手を握ったら、二人は最後には、むすばれなければならないのだ。この長大な物語は、真の意味で、青豆がきっかけを創ったものであり、青豆の世界なのだ。それは、天吾がつくった「1Q84なる世界」よりも20年も前に始まっている。だからこそ「小説1Q84」は、途中駅からであろうと青豆から始まるのだ。


「物語でヒロインが恋人の手を握ったら、二人は結ばれなければならない」。


これが読者と村上春樹の長い約束となる。だから、物語のラストにおいて統合されるべきは、ゴーストライター天吾と殺し屋青豆のハードボイルドの二つの世界ではなく、もうひとつの「世界の終わり」的な「教室の世界」であるはずだ。そしてそれこそが、熱心な村上春樹読者だった私がある予感を持って、「1Q84」を文庫本化まで読まなかった真相だったのだと思う。というのも、 この約束である「二つの世界の統合」はBook2では完結しなかったからだ。


ということで、次に「教室の世界」を丹念に追いながら、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を梃子にして、「村上春樹 変奏曲 第2楽章」を分析してみたい。


つづきはこちら

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