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「1Q84読解」ー村上春樹 変奏曲ー

前提としてのおことわり
この作品に興味持っていただきまして、ありがとうございます。
読み進めていただくにあたり、あらかじめご了承いただきたいことがあります。

この文章は、作家 ・村上春樹を愛読する人々のために書きました。
村上春樹の文学を味わい尽くすために、彼の作品をさかのぼって分析を行いました。逆に言えば、村上春樹の作品をあまり読んでいない方を対象にしていません。「そういう方には、全容や細部が伝わらなくてもよい」、ということを前提で、文章を構成しています。

そこでみなさんに、ここから先をお読みいただくに当り、お願いがあります。参考図書として、以下の村上春樹作品をお読みになってから、本文をお読みいただくことをおすすめします。

その条件で、この文章に触れていただく方をかなり限定してしまう事は重々承知しています。しかしながらそれも村上春樹への愛であり、「1Q84」という作品に対する尊敬の証しなのです。

事前にお読みいただきたい 村上春樹作品

1Q84
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて
羊をめぐる冒険
ねじまき鳥クロニクル


準備はいいですか?

では、「1Q84読解 ー村上春樹 変奏曲ー」を上演いたします。

はじめに
村上春樹は、僕らの世代の作家である。
何しろ大学時代、図書館で「群像」に掲載された「羊をめぐる冒険」をリアルタイムで読んでいたぐらいだ。もちろんすぐに初版本を購入した。それが1982年だ。

当時は作家で村上と言えば、村上龍だった。文壇では「コインロッカーベイビーズ」が時代の最先端だった。その頃、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」を書いただけの新人だった村上春樹はどちらかというと流行作家の一人にすぎなかった。


それでも僕らは、村上春樹が好きだった。村上春樹が僕らの時代の気分を代表していると思った。ほかの作家には感じない「僕らの時代の風」を感じた。その時、僕らは本当に、風の歌を聴いた、のだ。


そして、村上春樹が我々世代の風をつかんでいたことは、この35年が証明してきた。それは日本に留まらなかった。世界中が村上春樹を「時代が代表する作家」だと認めた。ちょうどそれは、フィッツジェラルドのように。

これまで村上春樹の小説が発売されたら、すべての本を発売直後に単行本で手に入れて読んできた。それは「海辺のカフカ」まで続いた。
それなのにこの「1Q84」だけは単行本で読まなかった。どんなにベストセラーとして騒がれようと、世界中で翻訳されようと、なぜか読む気がしなかった。そして、不思議なことに、文庫本が発売された頃になって読み始めた。なぜだろう? その理由を考えながら文庫版のページをめくる。そしてひとつの仮説に行き当たる。

この「1Q84」は、村上春樹の集大成であり、彼が今まで書いてきたことをすべてまとめた、一種の変奏曲なのだ。変奏曲が終わるまでは手にしてはいけない。

たぶん、「1Q84」は、一定の年月にさらされてから手にするべき本なのだ。その本質を理解するためには、時間が風化したほうがいい。ベストセラーのランキングにある期間に、流行のひとつとして評価すべき本ではなく、長い時間の風化のなかで「古典」として評価されるべき作品なのだ。


特に、当初Book2までという不完全な形で刊行された「1Q84」は、その1年後にBook3が刊行されて完結する。少なくても世界はこの本の評価をそれまで待つべきだった気がする。

村上春樹の熱心な読者である我々は50年、100年を経た時に古典文学としての価値が、「1Q84」にあるのかどうかを検証すべきなのだ。

21世紀を代表する作品としての価値を、厳しく問うべき作品なのだ。

流行作家のひとりだった男が、信念で自分のスタイルを貫いて35年。歴史に名を刻む作品として自分の代表作を創る挑戦をした。その意図を理解して、この作品を評価すべきなのだ。

だからこそいま僕は、村上春樹の歴史を踏まえて「村上春樹 変奏曲」という独自のテーマで、自分なりの評論にまとめてみようと思う。この変奏曲を読み解く旅は、4つの楽章で成立する。各々が作家・村上春樹の代表作を冠している。

第1楽章 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
第2楽章 4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて
第3楽章 羊をめぐる冒険
第4楽章 ねじまき鳥クロニクル

変奏曲の旅は、村上春樹の世界を巡る長い演奏になるだろう。その演奏の間、じっくりと感じてみよう、村上春樹がこの世界にもたらした風を。
そして、その変奏曲を読み解いた時に「1Q84」に散りばめられた謎が収斂して、われわれの前に立ち上がってくるだろう。村上春樹がその作家人生をかけて、われわれに対して仕掛けた謎を読み解いてみよう。

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村上春樹 変奏曲 第1楽章
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」によるBook 1読解

「変奏曲とは、主題となる旋律が変奏され、主題と変奏の全体がひとつにまとまった楽曲となったものである」 ウェキペディア

「村上春樹 変奏曲」としてこの「1Q84」を読み解くと、変奏のモチーフが二つあることに気付く。テーマとスタイルである。小説の主題と手法とでも言うべきか。

テーマについては、後に第2楽章の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」でゆっくり言及することになる。読者の我々が読み始めてすぐ、明確に意識させられるのは、そのスタイルのほうだろう。

青豆と天吾の世界が交互に現れて、別々の展開を見せる。「バッハの平均律クラビーア曲集のフォーマットに則って長調と短調の話を交互に書いた」と村上春樹はインタビューに答えているが、これは村上春樹読者にお馴染みの小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスタイルだ。そこで、ここでは村上春樹の初期の代表作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、村上春樹が「1Q84」に凝らしたスタイルの変奏を読み解いてみようと思う。

スタイルの類似性を意識せざる得ない、といいながら「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を並行して読んでみると、この2冊にはスタイルとしての既視感とともに、印象としての違和感が残る。

それは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が、現実世界と幻想世界という対照的な二つの世界をまたいでいたのに対して、この「1Q84」で描かれる青豆の世界と天吾の世界には、より密接な繋がり、一種の同期性のようなものを感じさせるからだ。今回の二つの世界は同じスピード感、同じ現実感で描かれている。

美しき殺し屋・青豆の世界と小説のゴーストライティングに巻き込まれる天吾の世界。交互にあらわれる二つの世界は、ページをめくらずにはいられないスリルをはらみ、印象として似た緊張感を奏でる。その緊張感はまさにサスペンス・ドラマの緊張感だ。
サスペンスフルな緊張感はスピードを生み、ふたつの世界はどんどんと速度をあげて疾走し始める。ついには列車に乗った我々読者の想像力をすべてなぎ倒しながら進んでいく。

対照的に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」にはあきらかに違うふたつのスピード感覚があった。我々の現実世界に近い「ハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感と、もうひとつ別の緩慢な時間の流れがあったのだ。それは、すべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与える減速感だった。
それが「世界の終わり」の時間感覚である。「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと、サスペンスフルな「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の時の流れ。ふたつのスピードが落差を伴って、交互にあらわれることによって、まさに村上春樹ワールドとしかいえない不思議なリズム感を醸し出す。そのリズム感の変調が小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の成功の理由だと思う。

スタイルが共通しているはずの「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の2冊の印象に、違和感があるのは、このスピード感の落差の部分ではないだろうか?
さらに分析すすめるならば村上春樹は、読者に対して「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感の落差をイメージさせることで、驚くべき仕掛けを施している。

この物語は、開始早々から読者をミスリードすべく巧みに企まれているのだ。その技巧によって生じる誤解と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」とのリズム感の類似性を利用して、村上春樹は読者をある地点に導こうと企んでいるのだ。

まず、Book1の物語が青豆から始まること自体が、このミスリードの起点になっている。この起点により、読者はこの小説の「時・物」が青豆から始まったような印象を受けるはずだ。
小説の冒頭はスリリングだ。殺し屋・青豆の世界は、暗殺のランデブーポイントに向かうため首都高3号線の非常階段を降りる所から始まる。そしてその瞬間、青豆はいきなり「1Q84年」の世界にスリップする。

この書き出しがミスリードを誘発するのだ。後に判明するが「1Q84年なる世界」は、天吾がふかえりの「空気さなぎ」を改編したことによって、立ち上がる。つまり時間軸で並べれば、この青豆の非常階段の事件は、天吾が物語を書いた時間よりもずっと後の出来事になるはずで、村上春樹は読者を物語の出発駅ではなく、ポンといきなり途中駅から乗車させるのだ。

本当の出発の地点は、Book1の中盤で天吾が小松の忠告に基づいて、物語「空気さなぎ」をリライトするために、二つの月が浮かんだ世界を詳しく表現した。その瞬間に「1Q84年なる世界」が誕生し、無意識化で天吾が青豆をこの世界に引き寄せることになる。
つまり、「1Q84年なる世界」の話の順序は、「小説1Q84」とは逆で、天吾の世界がきっかけになり、青豆はそれに巻き込まれて、この世界での行動をスタートする。
だから村上春樹はわざと青豆を開始点に物語を始め、読者に青豆の世界からこの長大な物語が始まったかのように誤解させるように企んだことになる。では、このミスリードの意図する所はなにか?

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、この長大な変奏曲を読み解くならば、この「1Q84年なる世界」には「もうひとつ別の世界、もうひとつ別の時間」が隠されていることを示唆している。それこそが、スピード感の落差をイメージさせるスタイルで村上春樹が企んだ驚くべき仕掛けなのだ。この青豆を開始地点とするミスリードを利用して、あることに読者を気付かせようとしているのだ。それは青豆と天吾のふたりがいま置かれている二つのサスペンス・ドラマのスピードの世界とは別に、もうひとつ別の時間感覚を持つ「世界の終わり的な世界」が隠されていることを暗示しているのだ。
その世界では、すべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与えるはずで、「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと同じスピード感覚のはず、なのだ。

そしてその「世界の終わり」の世界は、「1Q84」の中に巧妙に隠されている。

実は20年前の青豆と天吾が小学4年生だった、10歳の当時の市川市の小学校の「教室の世界」にしっかりと変奏されている。
この教室で天吾と青豆は100パーセントの契りを交わす。誰にも知られていない、ふたりだけの「秘密の約束」だ。証人会の信仰とNHKの集金人の子どもという特異な家族環境が引き寄せた、孤独なふたりだけの秘密の儀式。そう小学4年生の青豆が、12月初めの放課後の教室で突然、天吾の手を握りしめた瞬間、ふたりにとって何物にも変えられない「教室の世界」が始まったのだ。

この教室の有り様や匂い、感触こそ、彼らがいま暮らす1Q84年のハードボイルド・ワンダーランドの対極に位置している世界だ。まさにその世界では、すべてが静止し、すべてが結晶化したような印象を与え、幻想の世界だけが持つ緩慢な時の流れが支配している。

だから1Q84の謎を追う賢明な読者は、この12月初めの放課後の「教室の世界」を丹念に追うことで、物語の本質を理解できるはずだ。それこそが、テーマの変奏として企まれた「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の変奏曲の世界なのだ。

そして、この市川市の小学校の教室の形をした幻想世界の主役は紛れもなく青豆であり、そこでは紛れもなく青豆が物語を開始する。教室で突然、天吾の手を握るという人生をかけた大胆な行動によって、ふたりの「教室の世界」は始まる。その物語の主役はあくまで青豆なのだ。

「物語に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない」

この言葉は深い意味で、この青豆の行動に結びつけられている。女の子が命懸けで男の子の手を握ったら、二人は最後には、むすばれなければならないのだ。この長大な物語は、真の意味で、青豆がきっかけを創ったものであり、青豆の世界なのだ。それは、天吾がつくった「1Q84なる世界」よりも20年も前に始まっている。だからこそ「小説1Q84」は、途中駅からであろうと青豆から始まるのだ。

「物語でヒロインが恋人の手を握ったら、二人は結ばれなければならない」。
これが読者と村上春樹の長い約束となる。だから、物語のラストにおいて統合されるべきは、ゴーストライター天吾と殺し屋青豆のハードボイルドの二つの世界ではなく、もうひとつの「世界の終わり」的な「教室の世界」であるはずだ。そしてそれこそが、熱心な村上春樹読者だった私がある予感を持って、「1Q84」を文庫本化まで読まなかった真相だったのだと思う。というのも、 この約束である「二つの世界の統合」はBook2では完結しなかったからだ。

ということで、次に「教室の世界」を丹念に追いながら、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を梃子にして、「村上春樹 変奏曲 第2楽章」を分析してみたい。

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村上春樹 変奏曲 第2楽章

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」による BOOK2 読解

はじめに「1Q84」が村上春樹文学の総決算としての「村上春樹 変奏曲」をイメージさせるポイントは2つあると述べた。それがスタイルとしての変奏と、テーマとしての変奏である。 スタイルとしての変奏が第1楽章で見たように「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であるならばテーマの変奏については村上春樹自身が直接語っている。
「小説1Q84」は、自身の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(1981)をふくらませたものであるとインタビューで答えている。

「男の子が女の子と出会う。二人は別れ、お互いを捜す。単純な物語。長くしただけです」

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のストーリーを紹介しよう。

四月の晴れた日、原宿の裏通りで「僕」は100パーセントの女の子とすれ違う。しかし、僕は何もしないで「ただすれ違う」だけしかできなかった。後に、僕はそのときに彼女に話すべきだった話を思いつく。
昔々あるところに少年と少女がいた。巡り会った瞬間に、彼らはお互い100パーセントのカップルだった。二人はもう孤独ではない。
しかし、二人の心にほんのわずかな疑念が横切る。
「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕らが100パーセントの恋人同士だったとしたらいつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない」
そして、二人は別れる。
そしてお決まりの運命の波が二人を翻弄することになる。二人は生死の境をさまよった上で記憶をなくしてしまう。時は驚くべき速度で過ぎ去っていった。
四月の晴れた日に原宿の裏通りでふたりはすれ違う。しかし彼らの記憶の光は弱く澄んでいない。二人はことばもなくすれ違う。
悲しい話だと思いませんか。

このストーリーラインでは、二人は出逢い、別れ、そして捜し求める。

「1Q84」のストーリーでは、教室の世界で100パーセントの契りを交わした二人は、手をつないで、お互いの存在を確信するのだが、別れてしまう。そして二人は永遠に相手を捜し求める。その間にふたりの間で交わされた約束すら忘れてしまう。
しかし、青山のカップルとは違い、20年後に青豆と天吾は「教室の世界」で約束された「隠されたメッセージ」を発見し、それに気づく。そして互いに捜し求めていたものを見つける。

では、青豆と天吾のふたりが30歳になって発見した「隠されたメッセージ」とはなんだったのだろう。それが理解できるか否かで1Q84の謎に迫れるかどうかがわかれる。
そしてその「隠されたメッセージ」は、我々読者が「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」が出版された時に、村上春樹から贈られたメッセージでもあるのだ。我々は100パーセントのカップルのように、その「隠されたメッセージ」を30年以上も忘れていたのだ。

 そのメッセージを解く鍵は、物語に登場する2つのグループの対比にある。2つのグループは、男女で区分けするならば、女性は一方に青豆がいて、もう一方に、環、あゆみ、年上のガールフレンド安田恭子が置かれている。男性は一方に天吾がいて、もう一方のグループに天吾の父親、ふかえりのクラスメイトのトオル、牛河が配置されている。この違いがわかるだろうか。

 そして2つのグループの差は「ゴムの木」と「金魚」の差でもある。

 青豆は、柳屋敷で緒方夫人がつばさに買い与えた金魚が気になり、自分も買いにいくが、どうしても金魚が買えなくて、誰からも見捨てられたようなゴムの木を買ってしまう。
青豆はひとしきり「どうしてこんなにあのゴムの木が気になるのだろう」と考える。が、青豆にとって、金魚が買えずに、ゴムの木だけが買えたのには意味があった。そう、ゴムの木は「決意した孤独」の象徴なのだ。それは青豆が生きてきた人生と同じく、誰にも依存しない、自立した「孤独」の象徴だ。

 金魚は自立していない。金魚は一見すると悲しげで、孤独の象徴のようだが、金魚は人から餌を与えられ、愛でられる。自立もしていないし、決意もしていない。孤独の状態にいるものの、自らの意思で孤独になった訳ではない。
さらに言えば、1Q84に登場する金魚は、老婦人とつばさとの「結ばれなかった約束」の象徴になっている。それは一方的な庇護と憐憫を含んだ、上から目線の一方的な救済だ。結局つばさはこの救済を受け入れない。つまり金魚は「一方的な救い」の象徴にしか過ぎず、そこには、互いを認めあう共感も、決意の上で自立した孤独も存在しない。

 では、この「一方的な救い」の反対に位置する「約束」とはなにか? この理解ならば、それは、二人以外には誰にも依存しないように互いの自立を促す「結ばれるべき約束」に違いない。教室の世界で20年前に青豆が天吾の手を握ることによって、天吾に届けたメッセージは、まさに「誰にも依存しないと決意するための約束」だったのだ。

 「あなたは孤独ではない」

 その当時、愛のない不幸な世界に囲まれた10歳の子どもが、お互いの孤独を感じ取ることで、共感し、互いに運命的な絆を察知したことで、手を握り、そして孤独から抜け出した。

 「あなたがいれば、もう孤独ではない」

 このメッセージを交わすことで、ふたりは100パーセントのカップルになったのだ。それは、これから先、あなたさえいれば、ほかの人たちからの無視や、周囲からの無理解や、酷い仕打ちに耐えていける、という「決意」だ。
決意はどこから来るのか、それは100パーセントのカップルの間で交わされた「いつかは結ばれるはずの約束」から来るのだ。

 あゆみや環、年上のガールフレンド安田恭子、病気の少年、天吾の父親、牛河には、天吾や青豆のように約束をした相手がいない。2つのグループの差とは、「孤独」を巡るものであり、約束をした相手がいるか、いないかであり、その相手を待って「一生の孤独に耐える決意」があるかどうかだったのだ。その決意が、この2つのグループを峻別している。
100パーセントの相手を見つける幸運があるかないか、例え見つかったとして、その相手以外からの「一生の孤独に耐える決意」があるかどうか。それが各々の人生を決めていたのだ。

 青豆とリーダーとの間で交わされる会話の中で、青豆から突然発せられる言葉が重要だ。

「私には愛があります」
「愛があればそれで十分だと?」
「そのとおりです」

 そう、青豆には「愛に対する決意」があるのだ。たとえ「孤独」で一生を過ごしたとして、それに耐えていくだけの決意がある。青豆だけではない30歳になった天吾にも、この愛のために「一生の孤独に耐える決意」がある。その決意は20年前に「教室の世界」で運命の相手と「約束」したことに起因している。
しかし悲しいかな二人が30歳になった現在では、ふたりともその「約束の意味」を忘れている。それでも、「孤独に対抗する決意」だけは残ったのだ。

ではなぜ、ふたりはこれほど大事な約束の意味を忘れてしまったのだろう?

 青豆と天吾は20年前に教室の世界で、100パーセントのカップルとして約束をした。それはいつか果たすと決めた「約束」であった。しかし、当時の青豆と天吾にはそれがどんな「約束」なのかははっきりわからなかったのだ。
幼いふたりにはその当時、約束の意味が正確につかみ取れなかった。ゆえに100パーセントのカップルだったにも関わらず、ふたりは別れ、その後の20年を別々に生きていくことになる。そして長い年月の果てに約束そのものまで忘れさられてしまった。約束の意味がふたりにとって難解だった理由は、2つあった。一つは、当時二人が置かれていた子どもとしての環境の問題であり、もう一方は、子どもではわかり得ないことだった。

日曜日の家族行動が、10歳の子どもであった青豆と天吾の感情に特別な共感を感じさせたのだろう。天吾はNHKの集金人の父親に連れ添って市川の街を歩き続ける。青豆は証人会の勧誘をする家族に連れ添って同じく市川の街を歩き続ける。10歳の子どもにとって、家族は絶対だ。生きるための最低の帰属単位である。家族から離反して、10歳の子どもが生き続けることは不可能だ。その年代の子どもは家族から離れて暮らす術を持たないのだから。
しかし教室の世界の約束の後、100パーセントの相手が自分は「孤独ではない」ということを保証してくれた。そして、ふたりはそれまでの孤独の元凶であった家族と決別するのだ。そして家族と決別することと引き換えに、生涯に渡る「孤独」を代償として受け入れた。だからこそ約束の相手以外ではその「孤独」は癒されないのである。

二人が決意して約束した「つぎにすべきこと」は、家族からの離反であり、ふたりは別々にそれを実行した。青豆は証人会の家族から離れ、おじの家に行き、ソフトボールの特待生になる。天吾は父親に日曜日は自分の意志で過ごすと宣言し、担任の先生のうちに行って援護を勝ち取り、その後、柔道の特待生で自立する。
彼らは家族から離反するだけで精一杯だったし、その後の人生は自分たちが自立するために捧げられた。そして30歳になるまでその自立のための努力は続けられた。

 さてもう一方の、子どもではわかり得ない約束の意味とは何か。簡単に言えば、それは「セックス」のことである。
約束をした当時、「いつか結ばれる」という曖昧な形でセックスが10歳の子どもたちに提示されたのだ。教室の約束の後に、天吾は精通を、青豆は初潮を体験した。つまりふたりは約束した当時、セックスが出来ない状況だった。それどころかセックスの目的としての受胎、懐妊を受容し得ない段階だったのだ。

ふたりの当時の状況でそれ以上のなにができたであろう。10歳の男女が同居して、新たな家族を形成することなどあり得なかった。経済的にも、肉体的にも、ふたりはまだ子どもだったのだ。「いつか結ばれる」という約束は、まさに実現不能で、意味不明の形で10歳のふたりの前に提示されたである。だからふたりは手をにぎりしめただけで、別れたのだ。

村上春樹の世界ではセックスの問題はおなじみである。村上春樹ほどセックスを情緒的に表現しない作家も珍しい。文章中に「セックスをした」と端的に書いたのも日本では村上春樹が最初だと思う。そこには性愛の匂いを感じさせない。感情的な要素も感じさせない。単に行為、行動として身体を合わせるニュアンスしか存在しない。スポーツのようなセックスを文章で実現したのが村上春樹なのである。
しかし、それ故に村上春樹は特別な領域を切り開いた。村上春樹が男女の営みを「セックス」と書かないとき、それは単なる性愛を越えた「交わり」を指すことになるのである。これによって村上春樹は、純粋な愛に非常に近い、儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」を表現できるのである。

「1Q84」でいえば、雷雨の夜における天吾とふかえりの「オハライ」がそれに当たる。それは青豆の開放なセックスライフでもなく、天吾と年上のガールフレンドとの相性のいいセックスとも別の次元の行いである。

特にこのオハライは、肉体的には天吾はふかえりと結ばれるが、精神的には、生涯ではじめて青豆と結ばれる。まさに性愛を越えた「交わり」であり、儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」だ。そして結果、青豆は「処女懐胎」を果たす。
この「処女懐胎」の件に関しては最終章で検証することになるだろう。

当然のようにふたりは自立して、セックスが出来る年齢になるまで、別々に生きていくことになってしまう。そして、「あなたは孤独ではない」というメッセージは、離れている間に次第に薄れていき、いつの間にか思い出せなくなっていき、ついには忘れてしまうくらいになってしまう。
しかし、二人は決して約束を完全に忘れた訳ではない。何かの拍子に思い出そうと必死にきっかけを求めていた。たとえは、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」がそれだ。ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は青豆と天吾を、特定はできない「どこかの場所」に結びつけている。どこかの場所とは「教室の世界」に他ならない。

現実の世界に生きる青豆と天吾にとって、「教室の世界」は通常忘れ去られている。しかしふたりの心の深層では「渇望」されている。偶然か必然か、ふたりともその「教室の世界」を思い出すために「シンフォニエッタ」を睡眠導入剤のように活用していたのだ。
ふたりによって、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は互いを意識的に引き寄せるための唯一の入り口として、何度も再生される。小説の中では、ひとつの挿話や小道具の使用が繰り返されるほど、現実的な事象としてその世界に立ち上がる。青豆の世界でも、天吾の世界でも「シンフォニエッタ」がこれほど繰り返されるのには、それなりの理由があるのだ。

さらに天吾は「シンフォニエッタ」に加えて、この「教室の世界」に対して、より簡単にアクセスできる方法を手に入れる。ふかえりの「空気さなぎ」の物語を再生したことにより、天吾のなかのレシヴァとしての才能の開花したのだ。雷雨の夜、ふかえりと「オハライ」をすることで、天悟は「教室の世界」に意識的に入る能力を身につける。それ以降「教室の世界」はより頻繁に現れるようになる。そして「あなたは孤独ではない」というメッセージは、いまや自立し、十分に成熟した天吾に対して「大人として果たすべき約束」の形で具体的に立ち上がる。

「青豆と会わなくてはならない」

そして、その能力が開花され、約束を果たすべき準備ができた時に、天吾は初めて「二つの月」を見る。「あなたがいれば、もう孤独ではない」というメッセージの「あなたがいれば」の部分を思い出すのだ。

「青豆がいれば、僕はもう孤独ではない!」

月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。「青豆はどこにいるのだろう。青豆と会わなくてはならない」。天吾には、青豆にもこの二つの月が見えているはずだという確信があり、だからこそ、我々は巡りあわなくてはならないと決意する。
ふかえりは天吾に予言する。「そのひとについておもいだすことがいくつかある。やくにたつことかあるかもしれない。」

天吾はそうしてメッセージの意味を次第に思い出す。この「1Q84」は「教室の世界」で交わされた「約束」を思い出し、それに気づく物語なのだ。
逆に不幸にして「約束」を思い出せないパターンが「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」なのである。100パーセントのカップルが約束を忘れてすれ違うのが青山の物語だとすると、逆に「1Q84」は「約束」を20年かけてでも思い出し、それを実行する物語だ。
二つの物語は同じ開始点で始まるが、東京駅から始発する山手線と京浜東北線のように、いつしか離れ、各々の別の終着点に向かうのだ。約束を忘れてしまい、青山ですれ違うカップルと、約束を必死に思い出し、それを果たそうと様々な試練に立ち向かう「1Q84」のカップル。
実は山手線のカップルは、天吾と青豆の「1Q84」の世界に来るまでの姿でもあり、ぐるぐると同じところを回って、逡巡するだけでめぐり会うことがない。しかし「1Q84」に来たふたりはその円環から抜け出してしまったが、なかなかめぐり会えない。

ここまで読み解いてきて、最後の命題が残る。それは、我々読者が、1981年に村上春樹から贈られて、30年も忘れていたメッセージの意味を思い出すことである。
メッセージの意味は、「人生において100パーセントの相手を見つけること。その相手を待つためには、一生の孤独に耐える決意を持つこと」にあるだろう。それは孤独と愛を巡る「決意」だったのだ。

そこに「愛」があれば、我々は長き孤独に耐えることができる。しかし、愛以外のものをあてはめる場合もあるのだ。これが、「1Q84」を複雑にしている理由だ。答えが愛ならばシンプルだ。愛でない場合、我々はその難解さの前にたたずんでしまう。

孤独に対して、青豆と天吾には「愛」があった。この二人は、なにものにも変えられない存在として「愛」を人生の中心においた。もう一方で孤独に対抗しようとして、別のものを「決意」した人々がいる。
教団さきがけや証人会、そして柳屋敷の緒方老婦人のグループである。「1Q84」はある意味、こうした人々を描くために書かれた。教団や証人会は孤独に対抗するものとして「宗教」を人生の中心に置いた。緒方婦人は女性への家庭内暴力を追放する「信念」をおいた。両者は対立しているようで、村上春樹から見れば同じキーワードで結ばれる。

「カルト」だ。

これがこの本の重要なテーマであることには間違いがない。青豆とリーダーとの間で交わされる会話の中には続きがある。

「私には愛があります」
「愛があればそれで十分だと?」
「そうです」(中略)
「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛・・・
どうやらあなたは宗教を必要としていないみたいだ。
なぜなら、あなたのそういうあり方自体が、言うなれば宗教そのものだからだよ」

ということで、第3楽章では「カルト」というテーマに対して「羊をめぐる冒険」を梃子にして、「村上春樹 変奏曲 第3楽章」を分析してみたい。

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村上春樹 変奏曲 第3楽章 

「羊をめぐる冒険」による BOOK2 読解

第三楽章では、村上春樹の長編第1作「羊をめぐる冒険」を梃子にして、カルトや邪悪なるものやリトルピープルをめぐる冒険をしてみよう。

海外での翻訳が多い村上春樹だが、現在、処女作の「風の歌を聴け」と続く「1973年のピンボール」の翻訳を認めていない。作家としての技量が足りなかった時代の習作と位置づけているためであり、結果、海外では3作目の「羊をめぐる冒険」がデビュー作であると考えられている。

「羊をめぐる冒険」の初版当時の僕らの受け止め方も似ており、過去2作とは違い、「村上春樹の本格派への転向」という印象を持った。単に長編第1作ということではなくて、ファッションのようなスタイルの作家であった村上春樹が、「本物の物語」を書く「作家」になった作品だったと記憶している。この印象は「羊をめぐる冒険」では、今までになく「テーマ」がしっかりと扱われたからだと思う。

「羊をめぐる冒険」は、「羊憑き」をめぐる冒険譚だ。
物語は、主人公・僕が、失踪した友人・鼠を探すロードストーリーだ。鼠は北海道のとある村で「星の印がある羊」にとらわれている。星の印がある羊には世界を支配する霊力がある。羊は満州で農林省の役人に乗り移って日本に渡り、戦後右翼の大物に乗り換え、政治と広告の世界から日本を操った。「羊をめぐる冒険」では邪悪なる羊は、人間に取り付くことで、その人物を介して日本を操る。そして邪悪な力を使って、政治状況を操るカルト集団として右翼的なグループを組織化した。一説には人物のモデルは児玉誉士夫ともいわれる。この物語は、絶大な力を持った「羊憑き」亡き後の邪悪な力をめぐる後継者争いが「テーマ」だった。

この神憑きの人物と邪悪な集団という「テーマ」が、そのまま「1Q84」に変奏されている。羊に憑かれた友人・鼠が1Q84では教団のリーダーとして配置され、不思議な力をもつ存在として登場する「耳のきれいなガールフレンド」が超能力を宿したふかえりとして配置されている。天吾は羊をめぐる冒険をする「僕」と同じ存在であり、物語の狂言回しになる。

注目すべきは「羊をめぐる冒険」で絶大な権力を握っていた黒服の男が掌握するカルト集団が進化した形で「1Q84なる世界」で変奏されている点だ。「1Q84」には、邪悪なるものを推進するカルト的な集団が2つある。リトルピープルのレシヴァであるリーダーによって運営される教団さきがけと、娘を夫の暴力によって殺された緒方婦人が立ち上げた家庭内暴力に対抗する地下組織だ。
緒方婦人やタマルの穏やかに描かれた人格から後者の地下組織は一見カルト集団に見えないが、青豆が語るように、この組織は外部に対する敵意に満ちた暴力的なカルト集団だ。

「青豆はやりきれなくなった。緒方婦人やタマルとの密接な関係が、暴力というかたちを通してしか結ばれないからだ。法律に背き、人を殺し、誰かに追われ、殺されるかも知れないからこそ、この組織は団結している。
信頼の絆は殺人を介在にしか成立していない。暴力性がある種の純粋な結びつきを作り出している」

この集団のように、内部に向かって収斂・結束し、外部に対して攻撃的になる、それがカルトの特長だ。
カルト的な集団を描くに当たって村上春樹が最も苦心したと思われる部分は、オウム真理教などの特定の宗教団体に矮小化して、読者に伝わることを防ぐことだったのだろう。そこで「羊をめぐる冒険」の神憑きの集団の変奏だけでなく、もうひとつのカルト集団を置くことでこのカルト的な状況をより広く、より深く警告したのだと考えられる。

「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。
多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない、オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。
物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。
目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」
村上春樹 談  毎日新聞インタビュー、2008年5月12日 より

この「精神的な囲い込み・枠組み」を広く表現するために、村上春樹はリトルピープルなる存在を持ち出し、太古から面々と続く「善悪を越えたものごと」としてカルトを捉え、根源的な「神」の存在を説いた。
実際、リトルピープルの存在は世界に広く流布している。指輪物語のドワーフもホビットも、アイヌのコロボックルも、日本神話のクーナも、ハワイのメネフネも同じく小さい人の神話である。
リトルピープルだけでなく原初的な神様や神憑きの王様は、どこの大陸、どこの地域、どんな民族にも共通して存在する。古代史に置いては、神憑きの「王」という機構は、民衆をとりまとめ、集団を率いる手段であり、全ての部族、村落、都市、国家の源といえる。
「1Q84」で実行される「王殺し」の習慣ですら欧州では当たり前の風習だった。フレイザーの「金枝編」以外にも、古代以前のローマでも王殺しの事例はある。日本でも神憑りのご請託を操ってヤマト朝廷の礎を築いた卑弥呼が霊力の低下によって、民衆によって殺されたと考えられている。不吉な日食のなかでの、女王の暗殺と王権交代劇の一部始終が「天照大神の雨の岩戸伝説」の出所と言われる。

そしてこの「神憑きのレシヴァ」と民衆の関係は、神の言葉を迷える民衆に伝える「預言者」の存在として広く流布している。それはエホヴァの神を戴く、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教と共通の構造である。イエスもモーゼもモハメッドも同じく神の言葉を預かる「預言者」なのである。

人智を越えた神という存在は、我々人間を監視する。そして監視するだけで事態が解決しないために止むを得ず行動する場合は、預言者を通じて、行くべき方向を示唆する。時に反抗する民に向けて事件や試練を起こして干渉する。預言者にはある種の「奇蹟の力」を授ける。奇蹟によって民衆を束ね、集団催眠状態を作り出させるのである。そしてその預言者を通じても事態が収拾できない場合、最大の恫喝手段として「災厄」を与える。

この預言者を通じて関与するという「神と人間の関係性」こそ、リトルピープルの在り方なのだ。ここでは神の不在性ではなく、「神の存在性」が問われているのだ。

多神教社会に帰属する多くの日本人は、自分たちが不神論者だと考え、神の不在を中心に物事を考えやすい傾向がある。だから人智を越え、善悪を越えた存在が実在した場合になると思考停止してしまう。
逆に、神の存在を前提にする三大宗教社会の民衆は、絶対なる神の指導がない世界を一瞬たりとも想定し得ない。神の指示は絶対であり、神に間違いは存在しないと、思考停止してしまう。

今回、村上春樹が用いたリトルピープル論が面白いのは、神は絶対ではないという視点にある。宗教を信じている人々が考えるように、神は行動を起こすべき時に行動を起こす絶対的な存在ではなく、人界との通路が開かれた時にだけ行動を起こすことが出来るという解釈である。
「絶対善」としての神を持ち得ない多神教の日本人作家ならではの解釈だ。よって、この神の行いには良いことも悪いこともある。村上春樹にとっては、神も完全ではないのだ。

「1Q84」では、ふかえりが盲いた山羊を殺してしまった罰として、独居房に山羊の死体と10日間閉じ込められたことで、通路が偶然開かれる。リトルピープルたちはその山羊を仮の通路としてやってくる。
青豆が小説「空気さなぎ」を読む。それはふかえりが創作し、天吾がリライトして完成した小説だ。人智を越えた神と人間の関係性は、すべてその文章の中で提起されている。

「ドウタはマザの代理をつとめるドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ。
ドウタはパシヴァの役目をする。パシヴァは知覚したことをレシヴァに伝える。
つまりドウタはわれらの通路になるぞ。死んだ山羊は仮の通路で、生きているドウタが本当の通路だ。
マザの世話なしにドウタは完全ではなく、長生きできない。ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」

順に考えれば、山羊を仮の通路として、それを使って人界にやってきたリトルピープルは、ふかえりと共に空気さなぎを作って、ふかえりのドウタという本物の通路を作った。それを直感的に正しくないものとして、マザふかえりは教団から脱走した。

先に述べたようにこの世界の神様は、ふかえりによって人界との通路が偶然開かれ、その偶然を利用して行動を起こしたのだ。その後ドウタとリーダーは「多義的に交わり」、レシヴァとしてリトルピープルと人界の通路を完成させる。そして教団さきがけに「声」が届けられるようになった。「預言者」が機能するようになったのだ。

この一連の「正しくないもの」に対抗するために、脱走したふかえりは長い年月をかけて独力で反リトルピープル的モーメントを起動する。物語「空気さなぎ」を立ち上げ、天吾をレシヴァに選んで、小説「空気さなぎ」として完成させた。以降、この反リトルピープル的モーメントのユニットはふかえりが知覚し、天吾がそれを受け入れる形をとる。

「あなたはレシヴァの やくをしている。それには特殊な資質が必要だ。
私たちはふたりでホンをかいたのだから。わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」

小説「空気さなぎ」を書き上げる過程で、普通の人間だった天吾は大きく成長する。
「おなじではない。あなたはかわった」とふかえりが言うように、天吾はレシヴァとしての覚醒の途上にある。その後、覚醒の果てに二つの月が見え、空気さなぎが見えるようになり、「教室の世界」に自由に行き来ができるようになっていく。
だとするならば、やはり第2楽章で検証したように、青豆をこの「1Q84」のふたつの月の世界に運んできたのは、紛れもなく天吾ということになる。青豆は、ふかえりとリーダーに最も遠い存在であり、天吾にだけ特別な意味を持つ存在なのだから。

小説「空気さなぎ」を読み終えて、青豆は語る。

「私たちを結びつけているのは深田父子の存在だ。
この親子によって私たちは少しずつ距離を狭めているように見える。
しかしそれは致死的な渦によるものであり、致死的でないところに私たちの邂逅はなかった」

そしてBook2の中心が、致死的な事件ともよぶべき2つのカルト集団が対決する「雷雨の夜」となるのだ。この運命の一夜で青豆と天吾、ふかえり、教団リーダーの4人の主要登場人物がはじめて揃い、それぞれがキーアクションを起こす。

青豆はリーダー殺害を実行し、ふかえりはオハライをし、天吾は「教室の世界」に戻り、リーダーは交換条件を提案して、死ぬ。
このキーアクションの後、物語は死の予感を孕んで一気にクライマックスに向かう。

この4人の人物を物語に結びつけているものがある。天吾と青豆の「ハードボイルド・ワンダーランドの世界」と「教室の世界」、ふかえりとリーダーの「空気さなぎ」の世界、その3つの世界を結びつけているのは、月だ。一般には、月は孤独と静謐の象徴であり、我々を見守る存在の象徴になる。

ジョージ・オーウェルは、月のようにわれわれを見守る存在として「ビッグブラザー」を発明し、名作「1984年」を著した。ビッグブラザーは、どこにでもあるテレビからわれわれを監視し、「ウォッチユー!」と指を突き刺して、糾弾する。オーウェルはまさに「精神の囲い込み」であるカルトが定着し、国家化してしまった監視社会の実態とその恐怖を描いた。

なぜ村上春樹は「1984年」にこだわるのか。それがジョージ・オーウェルが発明したビッグブラザーのように人間を監視するシステムや組織の象徴記号だからだ。精神的な囲い込みを象徴している記号が「1984」であり、カルトに対抗する「深く広い心」を物語にするにふさわしい年号は「1Q84年」しかないのだ。

しかしこの「1Q84なる世界」にはビッグブラザーはいなくて、リトルピープルがいる。その2つに共通しているのは、神様があなたを見ているということだ。誰もその目から逃れることは出来ない。ビッグ・ブラザーはあなたを見ている。リトルピープルもあなたを見ている。月もあなたを見ているのだ。

ただし、この「1Q84なる世界」では月はひとつではなく、ふたつある。この世界の月は寡黙だが、孤独ではない存在なのだ。

リトルピープルが月を二つに分かつ。「ドウタが目覚めたときには空の月が二つになる。それがしるしだぞ」
この長大な「1Q84」の物語は月が始まりで、それが二つになり、やがて再び一つになる話なのだ。天吾と青豆がすれ違うだけの元の世界の月はひとつで、ふたりが運命を交差させる「1Q84なる世界」では月はふたつになる。いずれ、月は再び一つになるはずだ。

 月をふたつに分つのが、リトルピープルだとしたら、再び、ひとつに統合できるのは、どんな存在なのか? 見守り、預言者を操って指示をする存在ではなく、このふたつの月のある世界で、実際に行動し、その世界を統合する存在とは何者なのか? 1Q84の謎は次第にそこに収斂していく。

その存在のヒントが、レシヴァにある。神に選ばれたレシヴァの行動は「奇蹟」と呼ばれる。奇蹟を行うことで民はレシヴァに従う。つまり神の預言者であるレシヴァは奇蹟を行うことを運命的に求められる存在なのだ。
ではリトルピープルは、教団のリーダーに対してどんな奇蹟を求めていたのだろうか? 仮に、ふかえりの書いた「空気さなぎ」がすべて真実だとして、そこに記述してあることが教団の中で実際に起きたことだとする。そこには、ひとつ重大な疑問がたち現れる。
空気さなぎからドウタふかえりが目を覚ます前に、ふかえりは教団から逃げ出してしまった。
となると、「リーダーと多義的に交わったのは誰なのか?」という疑問だ。

リーダーはその「多義的に交わる」行為によって、レシヴァとして能力を開花する。多義的な交わりなしに、リーダーの覚醒と教団の成長はあり得ない。ではふかえりの脱走後にリーダーと交わり、リトルピープルとの回路を広げた相手は誰なのか?それがふかえりなのか、ドウタふかえりなのか、1Q84の読者にはわからない。

 小説「空気さなぎ」のラストもこの問題に触れて終わる。
「ときどき彼女にはわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。

私は本当にマザなのだろうか。

私はどこかでドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか」

果たして我々が深田夫婦の娘だと考えている「ふかえり」はマザなのか、それとも緒方夫人のもとにきたつばさと同じくドウタなのか?

 この謎を解く鍵は「オハライ」という行為にある。東京にいるふかえりは、多義的に交わる行為を「オハライ」としているが、それは過去の悲惨な出来事から学んだ結果として生み出された行為なのだと思われる。小説「空気さなぎ」に登場する事件、ふかえりが小学生のときに唯一友人になったクラスメイトのトオルを守れなかった悔恨が、リトルピープルに対抗する手段として「オハライ」を編み出した可能性は高い。

多義的な交わりについて、青豆の推論がある。

「リーダーが性的関係を結んだのは、実体マザではなく、彼女たちの分身ドウタであると考えれば、多義的に交わったという表現は腑に落ちる。
ただし、ドウタたちはリーダーの子供を受胎することを求めていたが、実体でない彼女たちに生理はない。それでもなぜか彼女たちは受胎することを切に求めていた。なぜだろう?」

ドウタである彼女たちが受胎を求めていたのは、それが達成されれば「奇蹟」になったからだ。先に述べたように宗教集団において「奇蹟」は必須なのである。
リーダーが青豆の前で時計を動かして見せるのも奇蹟だが、リーダーとドウタたちに課せられた奇蹟のレベルはより高次の奇蹟だった。処女であるマザに「処女懐胎」させることが目的だったのだ。ドウタはレシヴァと多義的に交わり、マザに神の子供の後継者を植え付ける。イエスがマリアの「処女懐胎」で生まれたように、ドウタたちは処女懐胎を望んでいたのだ。

ドウタの奇蹟の能力が、レシヴァと交わることで「他の女性に懐妊させることができる」能力だとすれば、ふかえりが新たなレシヴァである天吾と交わり、青豆を妊娠させる能力があったのは、うなずける。

とするならば、このふかえりはドウタふかえりだったのだという考えにも及ぶ。それを証明するかのごとく、このふかえりには生理がない。生理のないドウタが交わり、何もしていない女性が妊娠すれば確かに奇蹟である。

1Q84における最大の謎は「処女懐胎」をめぐるものであり、大きな秘密が青豆の妊娠には隠されている。それについては最後に考察したい。

さて、村上春樹は初期において、世界と関わらないことを信条としていた。しかし、ある時、世界に対してポジティブに興味を持ち、デタッチメントを開始した。
過去、村上春樹がデタッチメントしてきた事物は、全共闘、オウム真理教、阪神淡路大震災、福島原子力発電所事故と並び、それを「デタッチメントの時代」と呼ぶ。そして、その集大成として村上春樹は、「1Q84」で人類の根源的な問題を取り扱った。すべてのデタッチメントの経験を踏まえて、変奏曲を奏でたのだ。

村上春樹がこのように「1Q84」でカルトにデタッチメントした意図は、個人という弱い人間にとっての「宿命である闘い」を表現したいからだ。
それは、巨大なものに対する帰属に起因する「精神的な囲い込み」を巡る指弾であり、宗教の根源的な形である「依存」を巡る問題意識の表現でもあるはずだ。
さらに1Q84では、「羊をめぐる物語」以降何作かに渡って追い続けてきた「邪悪なるモノ」を昇華させ、見事に変奏してみせた。

運命の一夜、4人はキーアクションを起こす。彼らは彼らの世界で行動を起こし、それぞれのキーアクションによって、「邪悪なるモノ」に対してデタッチするのだ。

リーダーが青豆に提案した交換条件が成立し、天吾とふかえりはリトルピープルの危険から遠ざかり、逆に青豆が教団から狙われる。青豆は「10歳の時に捧げた愛」の運命に従って、天吾を救い、自らは死を選ぶ。

「希望のあるところには必ず試練がある。ただし希望の数は少なく、大方抽象的だが、試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。」

この運命の夜から、天吾と青豆は具象的な試練に巻き込まれていく。次の第4楽章では「ねじまき鳥クロニクル」を梃子にして、試練に対抗する村上春樹らしい手段を読解してみよう。

この「精神的な囲い込み・枠組み」を広く表現するために、村上春樹はリトルピープルなる存在を持ち出し、太古から面々と続く「善悪を越えたものごと」としてカルトを捉え、根源的な「神」の存在を説いた。
実際、リトルピープルの存在は世界に広く流布している。指輪物語のドワーフもホビットも、アイヌのコロボックルも、日本神話のクーナも、ハワイのメネフネも同じく小さい人の神話である。
リトルピープルだけでなく原初的な神様や神憑きの王様は、どこの大陸、どこの地域、どんな民族にも共通して存在する。古代史に置いては、神憑きの「王」という機構は、民衆をとりまとめ、集団を率いる手段であり、全ての部族、村落、都市、国家の源といえる。
「1Q84」で実行される「王殺し」の習慣ですら欧州では当たり前の風習だった。フレイザーの「金枝編」以外にも、古代以前のローマでも王殺しの事例はある。日本でも神憑りのご請託を操ってヤマト朝廷の礎を築いた卑弥呼が霊力の低下によって、民衆によって殺されたと考えられている。不吉な日食のなかでの、女王の暗殺と王権交代劇の一部始終が「天照大神の雨の岩戸伝説」の出所と言われる。

そしてこの「神憑きのレシヴァ」と民衆の関係は、神の言葉を迷える民衆に伝える「預言者」の存在として広く流布している。それはエホヴァの神を戴く、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教と共通の構造である。イエスもモーゼもモハメッドも同じく神の言葉を預かる「預言者」なのである。

人智を越えた神という存在は、我々人間を監視する。そして監視するだけで事態が解決しないために止むを得ず行動する場合は、預言者を通じて、行くべき方向を示唆する。時に反抗する民に向けて事件や試練を起こして干渉する。預言者にはある種の「奇蹟の力」を授ける。奇蹟によって民衆を束ね、集団催眠状態を作り出させるのである。そしてその預言者を通じても事態が収拾できない場合、最大の恫喝手段として「災厄」を与える。

この預言者を通じて関与するという「神と人間の関係性」こそ、リトルピープルの在り方なのだ。ここでは神の不在性ではなく、「神の存在性」が問われているのだ。

多神教社会に帰属する多くの日本人は、自分たちが不神論者だと考え、神の不在を中心に物事を考えやすい傾向がある。だから人智を越え、善悪を越えた存在が実在した場合になると思考停止してしまう。
逆に、神の存在を前提にする三大宗教社会の民衆は、絶対なる神の指導がない世界を一瞬たりとも想定し得ない。神の指示は絶対であり、神に間違いは存在しないと、思考停止してしまう。

今回、村上春樹が用いたリトルピープル論が面白いのは、神は絶対ではないという視点にある。宗教を信じている人々が考えるように、神は行動を起こすべき時に行動を起こす絶対的な存在ではなく、人界との通路が開かれた時にだけ行動を起こすことが出来るという解釈である。
「絶対善」としての神を持ち得ない多神教の日本人作家ならではの解釈だ。よって、この神の行いには良いことも悪いこともある。村上春樹にとっては、神も完全ではないのだ。

「1Q84」では、ふかえりが盲いた山羊を殺してしまった罰として、独居房に山羊の死体と10日間閉じ込められたことで、通路が偶然開かれる。リトルピープルたちはその山羊を仮の通路としてやってくる。
青豆が小説「空気さなぎ」を読む。それはふかえりが創作し、天吾がリライトして完成した小説だ。人智を越えた神と人間の関係性は、すべてその文章の中で提起されている。

「ドウタはマザの代理をつとめるドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。それがかたちになったものだ。
ドウタはパシヴァの役目をする。パシヴァは知覚したことをレシヴァに伝える。
つまりドウタはわれらの通路になるぞ。死んだ山羊は仮の通路で、生きているドウタが本当の通路だ。
マザの世話なしにドウタは完全ではなく、長生きできない。ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」

順に考えれば、山羊を仮の通路として、それを使って人界にやってきたリトルピープルは、ふかえりと共に空気さなぎを作って、ふかえりのドウタという本物の通路を作った。それを直感的に正しくないものとして、マザふかえりは教団から脱走した。

先に述べたようにこの世界の神様は、ふかえりによって人界との通路が偶然開かれ、その偶然を利用して行動を起こしたのだ。その後ドウタとリーダーは「多義的に交わり」、レシヴァとしてリトルピープルと人界の通路を完成させる。そして教団さきがけに「声」が届けられるようになった。「預言者」が機能するようになったのだ。

この一連の「正しくないもの」に対抗するために、脱走したふかえりは長い年月をかけて独力で反リトルピープル的モーメントを起動する。物語「空気さなぎ」を立ち上げ、天吾をレシヴァに選んで、小説「空気さなぎ」として完成させた。以降、この反リトルピープル的モーメントのユニットはふかえりが知覚し、天吾がそれを受け入れる形をとる。

「あなたはレシヴァの やくをしている。それには特殊な資質が必要だ。
私たちはふたりでホンをかいたのだから。わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」

小説「空気さなぎ」を書き上げる過程で、普通の人間だった天吾は大きく成長する。
「おなじではない。あなたはかわった」とふかえりが言うように、天吾はレシヴァとしての覚醒の途上にある。その後、覚醒の果てに二つの月が見え、空気さなぎが見えるようになり、「教室の世界」に自由に行き来ができるようになっていく。
だとするならば、やはり第2楽章で検証したように、青豆をこの「1Q84」のふたつの月の世界に運んできたのは、紛れもなく天吾ということになる。青豆は、ふかえりとリーダーに最も遠い存在であり、天吾にだけ特別な意味を持つ存在なのだから。

小説「空気さなぎ」を読み終えて、青豆は語る。

「私たちを結びつけているのは深田父子の存在だ。
この親子によって私たちは少しずつ距離を狭めているように見える。
しかしそれは致死的な渦によるものであり、致死的でないところに私たちの邂逅はなかった」

そしてBook2の中心が、致死的な事件ともよぶべき2つのカルト集団が対決する「雷雨の夜」となるのだ。この運命の一夜で青豆と天吾、ふかえり、教団リーダーの4人の主要登場人物がはじめて揃い、それぞれがキーアクションを起こす。

青豆はリーダー殺害を実行し、ふかえりはオハライをし、天吾は「教室の世界」に戻り、リーダーは交換条件を提案して、死ぬ。
このキーアクションの後、物語は死の予感を孕んで一気にクライマックスに向かう。

この4人の人物を物語に結びつけているものがある。天吾と青豆の「ハードボイルド・ワンダーランドの世界」と「教室の世界」、ふかえりとリーダーの「空気さなぎ」の世界、その3つの世界を結びつけているのは、月だ。一般には、月は孤独と静謐の象徴であり、我々を見守る存在の象徴になる。

ジョージ・オーウェルは、月のようにわれわれを見守る存在として「ビッグブラザー」を発明し、名作「1984年」を著した。ビッグブラザーは、どこにでもあるテレビからわれわれを監視し、「ウォッチユー!」と指を突き刺して、糾弾する。オーウェルはまさに「精神の囲い込み」であるカルトが定着し、国家化してしまった監視社会の実態とその恐怖を描いた。

なぜ村上春樹は「1984年」にこだわるのか。それがジョージ・オーウェルが発明したビッグブラザーのように人間を監視するシステムや組織の象徴記号だからだ。精神的な囲い込みを象徴している記号が「1984」であり、カルトに対抗する「深く広い心」を物語にするにふさわしい年号は「1Q84年」しかないのだ。

しかしこの「1Q84なる世界」にはビッグブラザーはいなくて、リトルピープルがいる。その2つに共通しているのは、神様があなたを見ているということだ。誰もその目から逃れることは出来ない。ビッグ・ブラザーはあなたを見ている。リトルピープルもあなたを見ている。月もあなたを見ているのだ。

ただし、この「1Q84なる世界」では月はひとつではなく、ふたつある。この世界の月は寡黙だが、孤独ではない存在なのだ。

リトルピープルが月を二つに分かつ。「ドウタが目覚めたときには空の月が二つになる。それがしるしだぞ」
この長大な「1Q84」の物語は月が始まりで、それが二つになり、やがて再び一つになる話なのだ。天吾と青豆がすれ違うだけの元の世界の月はひとつで、ふたりが運命を交差させる「1Q84なる世界」では月はふたつになる。いずれ、月は再び一つになるはずだ。

 月をふたつに分つのが、リトルピープルだとしたら、再び、ひとつに統合できるのは、どんな存在なのか? 見守り、預言者を操って指示をする存在ではなく、このふたつの月のある世界で、実際に行動し、その世界を統合する存在とは何者なのか? 1Q84の謎は次第にそこに収斂していく。

その存在のヒントが、レシヴァにある。神に選ばれたレシヴァの行動は「奇蹟」と呼ばれる。奇蹟を行うことで民はレシヴァに従う。つまり神の預言者であるレシヴァは奇蹟を行うことを運命的に求められる存在なのだ。
ではリトルピープルは、教団のリーダーに対してどんな奇蹟を求めていたのだろうか? 仮に、ふかえりの書いた「空気さなぎ」がすべて真実だとして、そこに記述してあることが教団の中で実際に起きたことだとする。そこには、ひとつ重大な疑問がたち現れる。
空気さなぎからドウタふかえりが目を覚ます前に、ふかえりは教団から逃げ出してしまった。
となると、「リーダーと多義的に交わったのは誰なのか?」という疑問だ。

リーダーはその「多義的に交わる」行為によって、レシヴァとして能力を開花する。多義的な交わりなしに、リーダーの覚醒と教団の成長はあり得ない。ではふかえりの脱走後にリーダーと交わり、リトルピープルとの回路を広げた相手は誰なのか?それがふかえりなのか、ドウタふかえりなのか、1Q84の読者にはわからない。

 小説「空気さなぎ」のラストもこの問題に触れて終わる。
「ときどき彼女にはわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。

私は本当にマザなのだろうか。

私はどこかでドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか」

果たして我々が深田夫婦の娘だと考えている「ふかえり」はマザなのか、それとも緒方夫人のもとにきたつばさと同じくドウタなのか?

 この謎を解く鍵は「オハライ」という行為にある。東京にいるふかえりは、多義的に交わる行為を「オハライ」としているが、それは過去の悲惨な出来事から学んだ結果として生み出された行為なのだと思われる。小説「空気さなぎ」に登場する事件、ふかえりが小学生のときに唯一友人になったクラスメイトのトオルを守れなかった悔恨が、リトルピープルに対抗する手段として「オハライ」を編み出した可能性は高い。

多義的な交わりについて、青豆の推論がある。

「リーダーが性的関係を結んだのは、実体マザではなく、彼女たちの分身ドウタであると考えれば、多義的に交わったという表現は腑に落ちる。
ただし、ドウタたちはリーダーの子供を受胎することを求めていたが、実体でない彼女たちに生理はない。それでもなぜか彼女たちは受胎することを切に求めていた。なぜだろう?」

ドウタである彼女たちが受胎を求めていたのは、それが達成されれば「奇蹟」になったからだ。先に述べたように宗教集団において「奇蹟」は必須なのである。
リーダーが青豆の前で時計を動かして見せるのも奇蹟だが、リーダーとドウタたちに課せられた奇蹟のレベルはより高次の奇蹟だった。処女であるマザに「処女懐胎」させることが目的だったのだ。ドウタはレシヴァと多義的に交わり、マザに神の子供の後継者を植え付ける。イエスがマリアの「処女懐胎」で生まれたように、ドウタたちは処女懐胎を望んでいたのだ。

ドウタの奇蹟の能力が、レシヴァと交わることで「他の女性に懐妊させることができる」能力だとすれば、ふかえりが新たなレシヴァである天吾と交わり、青豆を妊娠させる能力があったのは、うなずける。

とするならば、このふかえりはドウタふかえりだったのだという考えにも及ぶ。それを証明するかのごとく、このふかえりには生理がない。生理のないドウタが交わり、何もしていない女性が妊娠すれば確かに奇蹟である。

1Q84における最大の謎は「処女懐胎」をめぐるものであり、大きな秘密が青豆の妊娠には隠されている。それについては最後に考察したい。

さて、村上春樹は初期において、世界と関わらないことを信条としていた。しかし、ある時、世界に対してポジティブに興味を持ち、デタッチメントを開始した。
過去、村上春樹がデタッチメントしてきた事物は、全共闘、オウム真理教、阪神淡路大震災、福島原子力発電所事故と並び、それを「デタッチメントの時代」と呼ぶ。そして、その集大成として村上春樹は、「1Q84」で人類の根源的な問題を取り扱った。すべてのデタッチメントの経験を踏まえて、変奏曲を奏でたのだ。

村上春樹がこのように「1Q84」でカルトにデタッチメントした意図は、個人という弱い人間にとっての「宿命である闘い」を表現したいからだ。
それは、巨大なものに対する帰属に起因する「精神的な囲い込み」を巡る指弾であり、宗教の根源的な形である「依存」を巡る問題意識の表現でもあるはずだ。
さらに1Q84では、「羊をめぐる物語」以降何作かに渡って追い続けてきた「邪悪なるモノ」を昇華させ、見事に変奏してみせた。

運命の一夜、4人はキーアクションを起こす。彼らは彼らの世界で行動を起こし、それぞれのキーアクションによって、「邪悪なるモノ」に対してデタッチするのだ。

リーダーが青豆に提案した交換条件が成立し、天吾とふかえりはリトルピープルの危険から遠ざかり、逆に青豆が教団から狙われる。青豆は「10歳の時に捧げた愛」の運命に従って、天吾を救い、自らは死を選ぶ。

「希望のあるところには必ず試練がある。ただし希望の数は少なく、大方抽象的だが、試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。」

この運命の夜から、天吾と青豆は具象的な試練に巻き込まれていく。次の第4楽章では「ねじまき鳥クロニクル」を梃子にして、試練に対抗する村上春樹らしい手段を読解してみよう。

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村上春樹 変奏曲 第4楽章

「ねじまき鳥クロニクル」による BOOK3 読解

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