フェミニズムとは自由を奪うものなのか

昨今のツイッターを見ると、日本におけるフェミニズムっておかしな方向に向かっている感がある。
もちろん、真面目にやっている人はやっているのだろうけれども。

例えば、ポスターのキャラクターの胸が強調されているから、公共の場所にふさわしくないので、こういう表現は制限しろと言う。
じゃあ、襟ぐりの深い服や薄着、ミニスカートなどを着ていた時には女性は何と言っていたかというと「お前らに見せるために着ているんじゃない」と言っていた。
その言葉をそのまま返したい。
このキャラクターも、別に誰かに見せるために着ているわけではない、と。

逆ならとてもよく分かるのだ。
乳袋のある服や襟ぐりの深い服や薄着、ミニスカートなど、これらを着たから、これらが表現されたからと言って、公共の場にふさわしくないとか、エロであるから規制しろという声から、「女性には自由に服を選ぶ権利があり、ちゃんと服を着ている以上、公共の場から追い出す事に反対する」と叫ぶなら、その人は確かにフェミニストであると思う。

しかし、昨今の日本の自称フェミニストは違う。
胸が強調されていれば、それは公共にふさわしくない、女性性をモノ化し、子供達に女性にエロい事をしても許される意識を作り出すものであり、女性差別へ繋がるものらしい。

もちろん、服さえ着ていれば公共にふさわしいとは必ずしも言う事はできないだろう。
しかし問題視されているのは、乳袋のあるただのシャツである。
乳袋」とは「胸の部分を大きく、ウェストを細くするデザイン」の事であり、今日本で一番多く見られる乳袋のある服とは「男の三つボタンスーツ」である。

ちなみにドレスはほとんど乳袋がある。
どちらも乳袋があるのは「その方がスタイルが良く見える」からである。
性もエロも差別も全く関係ない。
故に、必要以上にはだけていたり、変なアレンジが入っていない限り、公共の場にふさわしくないと言う事はできない。

フェミニズムは何処へ向かうべきなのか

近年では「乳首は性器ではない。どうして女だけが、乳首を隠さなければならないのか?」との疑問を持つ女性が現れ始め、そこから女性が男性同様に上半身を露出する権利を訴える「フリー・ニップル運動」がアメリカを中心に盛んになっている。
2016年8月28日、<Go Topless(ゴー・トップレス)>という上半身露出の権利に関する催事が行なわれアメリカや南アフリカ、韓国、ペルー、イギリスなど世界各国で老若男女が自身の胸部をさらけ出す形で催事のパレードに参加している。

私はフェミニズム運動に特に詳しいわけではない。
本来の定義がどうかは知らないが、私はフェミニズム運動とは「女性の権利や自由を大きく認めさせるもの」であると考えている。
決して表現や着衣、思想の自由を制限するためのものではないと考える。
それは実際に聞き及ぶ海外でのフェミニズム運動が、先に挙げたフリー・ニップル運動の様に「女性に○○を認めろ」という形で行われるからである。

でも特に今回のポスターの件は、完全に表現や着衣、思想の自由を制限するためのものである。何故なら規制が実現しても、女性は何の自由も権利も得られないからだ。
これを本当にフェミニズムの運動と捉えるべきなのだろうか?
最近「#KuToo運動」というのが流行った。これは納得のフェミニズム運動である。
「公共のキチンとした場ではハイヒールを履くべきである」というものに対して「女性には自由に靴を選ぶ権利があり、ちゃんと靴を履いている以上、公共の場から追い出す事に反対する」というものだからだ。
そうして女性は自由を得る事に成功した。

しかしポスターの問題に立ち返ると、やってる事は全くの逆である。
女性が女性の着るものやその表現に対して制限を設けようとしている。
フリー・ニップル運動から見れば、完全なる逆行である。
ちゃんと服を着て隠していてさえ、公共の場所にはふさわしくないエロであると言うからだ。

私は制限ではなく自由を増やすのが、フェミニズム運動であると思う。
あなたはどう思うだろうか?

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